論語詳解461微子篇第十八(1)微子は之を去り

論語微子篇(1)要約:付け足し感の強い論語微子篇。その冒頭のこの章も、取って付けたような言葉。むかし殷周革命の際、暴君の紂王に対して、三人の「仁者」はどう身を処したか? その伝説自体が、孔子先生在世当時の話かには疑問が。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

微子去之、箕子爲之奴、比干諫而死。孔子曰、「殷有三仁焉。」

書き下し

微子びしこれり、箕子きしこれやつこり、比干ひかんいさす。孔子こうしいはく、いんに三じん

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

微子は去り、箕子は奴隷になり、比干は諌めて死んだ。孔子が言った。「殷には三人の仁者がいた。」

意訳

殷最後の王、チュウ王は暴君で、王族のうち微子は宮廷を去り、箕子は奴隷に身をやつし、比干は王を諫めて死んだ。

孔子「殷には三人の仁者がいた。」

従来訳

微子・箕子・比干は共に殷の紂王の無道を諌めた。微子は諌めてきかれず、去って隠棲した。箕子は諌めて獄に投ぜられ、奴隷となった。比干は極諌して死刑に処せられ、胸を剖さかれた。先師はこの三人をたたえていわれた。――
「殷に三人の仁者があった。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

微子

論語 微 古文
「微」(古文)

『学研漢和大字典』によると、殷(イン)末の忠臣。紂(チュウ)王の腹ちがいの兄。本名は啓、または開、微子啓ともいう。紂王の淫乱(インラン)をいさめたがきかれず逃げたといわれる。殷が周に滅ぼされたのち、周公は微子を殷のあとをつぐものとし、宋(ソウ)に封じた、という。

ただし「微」の字は甲骨文にも金文にも見られず、秦国の戦国文字から見られるようになる。つまり微子の伝説そのものが、戦国時代に作られたことを暗示する。

また『学研漢和大字典』によると「微」は会意兼形声文字で、右側の字(音ビ)は「━線の上下に細い糸端のたれたさま+攴(動詞のしるし)」の会意文字。糸端のように目だたないようにすること。微はそれを音符とし、彳(いく)をそえた字で、目だたないようにしのびあるきすること。

未(ミ)・(ビ)(よくわからない)・昧(マイ)(暗くてよく見えない)などと同系のことば、という。

漢文的には「なかりせば」と読んで、”~がなかったら”と解する場合があることを知っておくと便利。

論語 之 金文
(金文)

論語の本章では、直前が動詞であることを示す記号で、意味内容を持っていない。

箕子

論語 箕 金文
「箕」(金文)

『学研漢和大字典』によると、殷(イン)の紂(チュウ)王のおじといわれる人。紂王の暴政をいさめたが聞きいれられず、狂人をよそおって身を保った。後、周の武王に迎えられて朝鮮に封ぜられ、箕子朝鮮の始祖となったといわれる。箕伯とも。「箕」は、封ぜられた国名(山西省太谷県付近)、という。

「箕」の字は甲骨文から見られるが、「其」と書き分けられておらず、竹かんむりが付くようになったのは戦国時代の金文から。従って微子同様、箕子伝説は戦国時代に作られたものであることを暗示する。

また『学研漢和大字典』によると「箕」は会意兼形声文字で、其(キ)は、四角いみの形を描いた象形文字。箕は、さらに竹をそえたもの、という。

比干

論語 比 金文 論語 干 金文
(金文)

『学研漢和大字典』によると、殷(イン)の忠臣。紂(チュウ)王のおじ。紂王をいさめ、胸をさかれて殺された。箕子(キシ)・微子とならんで殷三仁といわれる、とある。「比」も「干」も甲骨文から見られる文字で、「比」の原義は並ぶこと、「干」の原義は武器のさすまた。
論語 干 字解

論語 殷 金文
(金文)

論語の時代の宗主であった周の一つ前の王朝で、夏に続く王朝とされる。殷は他称で、いけにえの人間に刃物を加えるさま。自称は商で、殷滅亡後は行商人になる者が多く、そこから”あきんど”の意味が生じたとする伝説がある。

論語:解説・付記

論語の本章の背景となった殷周革命について、伝説的には紂王は暴君とされる。紂王について『学研漢和大字典』を引くと、名は辛(シン)、また、受。周の武王に滅ぼされた。ぜいたくにふけり、暴虐の行いがあったという。夏(カ)の桀(ケツ)とともに暴君の代表とされる、とある。

これが史実と考える学者はまずいない。また論語の本章の史実性について武内義雄『論語之研究』では疑義を挟んでいないが、この微子篇は論語の中でも最も遅く成立した部分であると結論している。内容的にもとってつけたようで、孔子の肉声と考えるのは難しい。

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