(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
微子去之、箕子爲之奴、比干諫而死。孔子曰、「殷有三仁焉。」
校訂
後漢熹平石経
去之…
定州竹簡論語
……[三人a焉]。553
- 人、今本作”仁”字。
※定州竹簡論語では「焉」の字に終了符号がなく、次章と分割されていない。
→微子去之、箕子爲之奴、比干諫而死。孔子曰、「殷有三人焉。」
復元白文(論語時代での表記)
焉
※論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし無くとも文意が変わらない。
書き下し
微子は之去り、箕子は之奴と爲り、比干は諫め而死す。孔子曰く、殷に三人有り焉。
論語:現代日本語訳
逐語訳
微子はすぐさま去り、箕子は奴隷になってしまい、比干は諌めて死んだ。孔子が言った。「殷には三人がいた。」
意訳
殷最後の王、紂王は暴君で、王族のうち微子はさっさと逃げ散り、箕子はなんと奴隷に身をやつし、比干は王を諫めて死んだ。
孔子「殷には三人がいた。」
従来訳
微子・箕子・比干は共に殷の紂王の無道を諌めた。微子は諌めてきかれず、去って隠棲した。箕子は諌めて獄に投ぜられ、奴隷となった。比干は極諌して死刑に処せられ、胸を剖さかれた。先師はこの三人をたたえていわれた。――
「殷に三人の仁者があった。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
紂王無道,微子離他而去,箕子淪為奴隸,比乾勸諫慘死。孔子說:「商朝有三個仁人。」
紂王が無道で、微子は彼の元を去り、箕子は奴隷に身を落とし、比干は諌めて惨殺された。孔子が言った。「殷王朝に三人の仁者がいた。」
論語:語釈
微子
「微」(古文)
『学研漢和大字典』によると、殷(イン)末の忠臣。紂(チュウ)王の腹ちがいの兄。本名は啓、または開、微子啓ともいう。紂王の淫乱(インラン)をいさめたがきかれず逃げたといわれる。殷が周に滅ぼされたのち、周公は微子を殷のあとをつぐものとし、宋(ソウ)に封じた、という。
ただし「微」の初出は春秋末期あるいは戦国初期の石鼓文で、論語の時代にぎりぎり存在しなかった可能性がある。つまり微子の伝説そのものが、戦国時代に作られた可能性があり、『墨子』『孟子』『荀子』に言及がある。
辞書的には『学研漢和大字典』によると「微」は会意兼形声文字で、右側の字(音ビ)は「━線の上下に細い糸端のたれたさま+攴(動詞のしるし)」の会意文字。糸端のように目だたないようにすること。微はそれを音符とし、彳(いく)をそえた字で、目だたないようにしのびあるきすること、という。漢文的には「なかりせば」と読んで、”~がなかったら”と解する場合があることを知っておくと便利。詳細は論語語釈「微」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「これ」と読んで”まさに”。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
論語の本章では、直前が動詞であることを示す記号で、意味内容を持っていない。つまり動詞の目的語にならない。従って「これを」の訓読は誤り。
「微子去之」「箕子爲之奴」ともに、それ以前に意味内容とすべき記述が無く、代名詞となり難い。「言われなくとも紂王に決まっている」と言い出すのは、儒者のデタラメを疑わないからだ。本章の原文には、紂王うんぬんとは一切書いていない。
箕子
「箕」(金文)
『学研漢和大字典』によると、殷(イン)の紂(チュウ)王のおじといわれる人。紂王の暴政をいさめたが聞きいれられず、狂人をよそおって身を保った。後、周の武王に迎えられて朝鮮に封ぜられ、箕子朝鮮の始祖となったといわれる。箕伯とも。「箕」は、封ぜられた国名(山西省太谷県付近)、という。
「箕」は論語では本章のみに登場。甲骨文から見られるが、「其」と書き分けられておらず、竹かんむりが付くようになったのは戦国時代の金文から。従って微子同様、箕子伝説は戦国時代に作られた可能性があり、やはり『墨子』『孟子』『荀子』に言及がある。
なお辞書的に、『学研漢和大字典』によると「箕」は会意兼形声文字で、其(キ)は、四角いみの形を描いた象形文字。箕は、さらに竹をそえたもの、という。詳細は論語語釈「箕」を参照。
奴
論語の本章では”奴隷”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。「学研漢和大字典」によると「又(て)+(音符)女」の会意兼形声文字で、手で労働する女のどれい。努と同じで、激しい力仕事をする意から、ねばり強い意を含む、という。詳細は論語語釈「奴」を参照。
甲骨文・金文時代の「奴」を女奴隷に限るのには理が無いが、箕子が奴隷に身を落としたとする伝説は、春秋時代には論語の他に確認できない。
比干
(金文)
『学研漢和大字典』によると、殷(イン)の忠臣。紂(チュウ)王のおじ。紂王をいさめ、胸をさかれて殺された。箕子(キシ)・微子とならんで殷三仁といわれる、とある。比干の惨殺伝説を言い出したのは戦国末期の荀子で(儒効18)、それ以前の墨子は単に、「殺された」としか言っていない。
是以甘井近竭,招木近伐,靈龜近灼,神蛇近暴。是故比干之殪,其抗也。
だから美味い泉は飲み尽くされ、目出度い樹木は切り倒され、占いが当たる甲羅の亀は焼き殺され、霊験あらたかな蛇は干物にされる。比干が殺されたのも、王に反抗したからだ。(『墨子』親士5)
文字的には「比」も「干」も甲骨文から見られる文字で、「比」の原義は並ぶこと、「干」の原義は武器のさすまた。
諫
論語の本章では、”君主に間違いを意見する”こと。初出は西周末期の金文。『学研漢和大字典』によると「言+(音符)柬(カン)(よしあしをわける、おさえる)」の会意兼形声文字。詳細は論語語釈「諌」を参照。
殷
(金文)
論語の時代の宗主であった周の一つ前の王朝。殷は他称で、いけにえの人間に刃物を加えるさま。自称は商で、殷滅亡後は行商人になる者が多く、そこから”あきんど”の意味が生じたとする伝説がある。論語語釈「殷」を参照。
仁(ジン)→人
(甲骨文)
論語の本章では、”常に憐れみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。
定州竹簡論語の「人」は、単に”ひと”を意味する。初出は甲骨文で、人の横姿の象形。詳細は論語語釈「人」を参照。
焉
(金文)
論語の本章では”…ということであった”。初出は戦国時代末期の金文。論語の時代に存在しない。原義はエンと呼ばれる黄色い鳥だというが、どんな鳥だったかは誰にも分からない。論語の時代、近音の「安」と書かれた可能性がある。「安」に「然の意」と『大漢和辞典』にあり、”…という様子”の意となるが、出典が戦国末期の『荀子』であり、論語に適用していいかは疑問が残る。ただしこの字が無くとも文意が変わらず、本章の偽作を論証しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
論語:付記
論語の本章の背景となった殷周革命について、伝説的には紂王は暴君とされる。紂王について『学研漢和大字典』を引くと、名は辛(シン)、また、受。周の武王に滅ぼされた。ぜいたくにふけり、暴虐の行いがあったという。夏(カ)の桀(ケツ)とともに暴君の代表とされる、とある。
これを史実と考える学者はまずいない。また論語の本章の史実性について武内義雄『論語之研究』では疑義を挟んでいないが、この微子篇は論語の中でも最も遅く成立した部分であると結論している。内容的にもとってつけたようで、孔子の肉声と考えるのは難しい。
定州漢墓竹簡『論語』の記載が正しければ、簡553号に記された本章は下記の通り。
…は欠損部分を含む解読不能部分だが、「三人焉」のうしろには欠損も、解読不能文字も無かったことになる。簡の一枚には19-21字記してあったというから、解読不能部分の「…」に現伝論語と同内容「微子去之箕子爲之奴比干諫而死孔子曰殷有」の19字を記すのは無理だ。
たった1字の超過ではあるが。省いても文意が変わらない、「而」の字が無かったのだろうか? もし簡553号の前にさらに一枚あったとすると、もっと長い文章だったはずだし、無かったとすると、もとは全然違う事が書いてあった可能性がある。
それでもなお、「人」を「仁」に書き換えて、本章を仁者ばなしに仕立て上げたのは後漢儒だろう。上掲唐石経にも「三仁」になっている。だが定州竹簡論語の段階=前漢宣帝期では、孔子は「三人いた」としか言っていない。
「微子篇というからには微子ばなしが書いてあったのだろう」という説は、もっともらしいが実は怪しい。現伝論語の篇名がいつ付けられたか、後漢末以前より昔には確かめようがないからだ。ただし『論語集釋』に言う通り、ほぼ同文が『史記』にある。
従って前漢の時点で、本章が現伝と同内容だった可能性は高い。だがただし、現伝『史記』が司馬遷の書いたとおりだとする証拠はどこにも無く、世界最古の版本は国立歴史民俗博物館蔵の南宋版で(下掲)、「微子…三仁焉。」と左三行目から記されている(クリックで拡大)。
中国の「史料」は疑い出せば切りが無いのだが、後漢儒が史記をネタに論語の本章を書き換えた可能性だってある。物証として確定しているのはただ一つ、前漢宣帝期には「仁」とは書かれていないことだ。だから論語の本章に何が書かれていたかは、もはや誰にも分からない。
なお中国正史の何たるかについては、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。
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