論語141雍也篇第六(24)斉一変せば

論語雍也篇(24)要約:孔子一門は革命政党でもありました。多くの諸侯国に分裂していた当時の国際関係の中、活発に政治工作を行ったはずです。魯の隣国、東方の大国だった斉もその対象。長い間の努力が実って…というお話。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「齊一變、至於魯。魯一變、至於道。」

書き下し

いはく、せいぺんせば、いたらむ、ぺんせば、みちいたらむ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子別像
先生が言った。「斉がひとたび変われば魯のようになるだろう。魯がひとたび変われば原則に則るようになるだろう。」

意訳

論語 君子 諸君 孔子
我が革命の同志諸君! 斉で政変が起こった。うまくいけば我が魯の如く、革命の活動拠点となるだろう。そして魯での工作がうまく進めば、我らが革命は成就しようぞ!

従来訳

 先師がいわれた。――
せいが一飛躍したら魯のようになれるし、魯が一飛躍したら真の道義国家になれるのだが。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

齊一變(斉一変)

論語 変 金文大篆 論語 本能寺の変 難
「変」(金文)

論語の本章では、魯の哀公十年(BC485)の政変のこと。斉は開祖太公望以来、魯の東隣にあった大国で、孔子と同世代で、雇う雇わないのゆかりもあった景公は、宰相・晏嬰(アンエイ)の補佐もあって、桓公以来の安定した国政を維持できた。

ところが晏嬰が世を去り、景公も魯の哀公五年(BC490)に病死すると、魯国と同じく諸家老家の力が強かった斉国では内乱が続いた。まず景公の後継に擁立された晏孺子荼(アンジュシ・ト)は幼君で国政が安定せず、有力家老は内乱を起こして荼を廃位し、魯に亡命していた公子陽生を呼び寄せ悼公とした。

悼公は魯に亡命中、魯国門閥家老筆頭・季康子の妹を望んで夫人としたが、帰国後呼び寄せようとしたが季康子に妨害された。季康子は自分の妹が、一族の一人と密通していたのを、当の妹本人から聞かされていたからである。怒った悼公は魯に兵まで出して、やっと夫人を呼び寄せた。

ここから分かるように、悼公もあまりだらしのある殿様ではない。斉国内では家老家同士の内輪もめが続き、魯の哀公十年(BC485)には陳成子の反乱に遭って殺されてしまった。

論語 呉王夫差
当時の春秋諸侯国の国際関係では、南方の海岸沿いにある呉国が、まさに日の出の勢いにあった。呉王夫差はたびたび斉や魯といった中原諸侯国に出兵し、国際関係のもつれがあると干渉した。西北の大国・晋とも張り合い、南方の大国・楚はすでに破っていた。

そしてそのころ、孔子と一門は楚と呉の間にある、陳などの小国に滞在していた。そしてたびたび子貢を呉に遣わして、濃密な関係を築いていた。あるいは魯の季氏以下の門閥家老家が、態度を軟化させて孔子の帰国を受け入れたのも、背後に呉国の武力があったからだろう。

つまり孔子の革命計画は、ある程度までうまくいっていた。哀公十年の斉の政変に、孔子一門や呉国が、どこまで関係していたかは史料がない。しかし状況証拠的に、魯国門閥家老筆頭の季氏と縁が深い悼公が去ったことは、孔子にとって政治的に有利に見えたに違いない。

本章は、それを踏まえないと理解が出来ない孔子の言葉である。

BC 魯哀公 孔子 魯国 諸国
490 5 62 佛肸フツキツの招きに応じようとするが果たせず 晋・佛肸、孔子を招く。晋・定公、范・中行氏を敗り、二氏斉に亡命。斉・公子陽生、魯に亡命。望んで季康子の妹をめとる。斉・景公死去。子の晏孺子荼即位
489 6 63 楚・昭王の招きに応じ、子貢・宰我を伴って向かうが、陳・蔡の妨害に遭う。楚の宰相・子西も反対し、仕官できず衛へ 楚・昭王死去。斉・田乞、高氏・国氏を追い、晏孺子荼を廃位し、魯に亡命していた公子陽生、帰国して即位し悼公となる
488 7 64 衛・出公に仕える? 呉に百牢を出す。季康子、子貢を派遣して自分の出張を撤回させる。邾を攻める。 呉、強大化し繒の会盟で無理な要求を魯に突きつける
487 8 65 弟子の有若、迎撃部隊から外される。斉と和睦 呉、邾の要請で魯を攻撃。斉、魯を攻め三邑を取る。邾、呉の力で復国
485 10 67 夫人の幵官氏死去。子貢を派遣して呉から援軍を引き出す 呉と同盟して斉を攻める 斉・悼公、鮑牧に殺され簡公即位、田乞死去し田常継ぎ、魯を攻めんとして子貢諫止
484 11 68 魯に戻る。のち家老の末席に連なる。弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破 呉と連合して斉に大勝

論語 道 金文 論語 レシピ 道
(金文)

論語の本章では、”仁の道”。

論語で道とは”方法・やり方”のことで、行動の原則を言う。今回の場合、孔子が主張する政治の原則に天下が従うだろう、ということで、仁政の実現を指す。仁の定義は礼だから、礼という原則に沿った天下の政治運営を指すことになる。

論語:解説・付記

日本の中国学はどうもタコツボ状になっており、論語を説きたがる中国哲学や中国文学者は、なぜか歴史に全く興味を持たない。それは歴代の儒者も同様で、本章についてあれこれ積み重なったそれらによる講釈は、どれもトンチンカンに思えてならないから記さない。

その代わり儒者と大学教授連は、孔子を一生不遇と見なし、同情してよよと泣き濡れたような事を書くのである。東洋史もよそのおたなの悪口を言えた義理ではないが、歴史ものとしてはここで、司馬遼太郎氏の小説に、幕末の長州で、尊王攘夷派がやっと殿様に謁見を認められ、平伏しつつ揃ってシクシク泣き濡れる場面があったのを思い出す。

ところが後列に不逞の輩(白井小助)が居て、目の前にあった松下村塾の後輩の、何某の尻をつねって曰く、「まだ泣き足らぬ。もっと泣け」。あまりにしつこいので「白井さん、やめてくだされ」と頼むが、「慷慨家(コウガイカ。大言壮語して天下国家を嘆く連中)も大変じゃのう」と返されたという。

この人物は維新後も、松下村塾の後輩だった山県有朋の屋敷に押し込み、その夫人を呼びつけて「ワシの尻を拭け」。さらに夫人を酒樽に放り込み、「公爵夫人を漬けたらどんな味がするのかのう」(『長州人の山の神』)。こういう痛快さが、論語の読解にあって欲しいものだ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)