論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰知之者不如好之者好之者不如樂之者
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰知之者不如好之者好之者不如樂之者
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「智之者不如好之者,好之者□如樂之者。」127
標点文
子曰、「智之者、不如好之者、好之者、不如樂之者。」
復元白文(論語時代での表記)














※論語の本章は、「之」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、之智る者は、之好む者に如か不。之好む者は、之樂む者に如か不。
論語:現代日本語訳
逐語訳

先生が言った。「知るだけの者は、好むだけの者のようでない。好むだけの者は、楽しむだけの者のようでない。」
意訳

さっさと出来るようになりたいじゃと? その秘訣はな、知るより好み、好むより楽しむことじゃ。そうなりゃあ、誰だってすぐに出来るようになるわい。
従来訳
先師がいわれた。――
「真理を知る者は真理を好む者に及ばない。真理を好む者は真理を楽む者に及ばない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「知道學習不如喜歡學習,喜歡學習不如以學習為快樂。」
孔子が言った。「学問を知る者は学問を喜ぶ者に及ばないし、学問を喜ぶ者は学問を快楽とする者に及ばない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。

(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
知(チ)→智(チ)
唐石経・清家本は「知」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語は「𣉻」(智)と記す。論語の時代では、両者の区別は明確でない。時系列に従い、「智」に校訂した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
定州竹簡論語は、普段は「智」の異体字「𣉻」と記すのに、本章で「智」となっている理由は明らかでない。
之(シ)

(甲骨文)
論語の本章では、直前が動詞であることを示す記号で、意味内容を持っていない。つまり動詞の目的語にならない。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
者(シャ)

(金文)
論語の本章では”する者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
不(フウ)

(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
如(ジョ)

(甲骨文)
論語の本章では”同等になる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。『大漢和辞典』の第一義は”ごとくす”。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
好(コウ)

(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
樂(ラク)

(甲骨文)
論語の本章では”楽しむ”。初出は甲骨文。新字体は「楽」。原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、文字史的には、史実の孔子の発言を疑う要素が無い。しかし先秦の誰一人引用せず、再録もしていない。事実上の初出は前漢中期埋蔵の定州竹簡論語であり、再出は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注になる。
偽作を疑う要素が無いので、史実の孔子の発言として扱う。
解説
その古注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
…註苞氏曰學問知之者不如好之者篤好之者又不如樂之者深也

注釈。包咸「学問して知識を蓄える者は、知識を好む者には及ばない。心から知識を好む者でも、知識を楽しむ者の深さには及ばない。
新注は次の通り。
新注『論語集注』
好,去聲。樂,音洛。

好は尻下がりに読む。楽は洛の音で読む。
尹氏曰:「知之者,知有此道也。好之者,好而未得也。樂之者,有所得而樂之也。」張敬夫曰:「譬之五穀,知者知其可食者也,好者食而嗜之者也,樂者嗜之而飽者也。知而不能好,則是知之未至也;好之而未及於樂,則是好之未至也。此古之學者,所以自強而不息者歟?」

尹焞「もの知りは、人の道があることを知っている。知を好む者は、人の道を好むが会得するには至っていない。知を楽しむ者は、人の道を会得してそれを楽しんでいるのである。」
張栻「話を五穀にたとえようか。知者は食えることを知っている。好む者は食って味わうことを知っている。楽しむ者は、味わって食い飽きている。知者が好めないのは、知が行きついていないからだ。好む者が楽しめないのは、好みが行きついていないからだ、だから昔の儒学徒は、自分で努力して止まなかったのだろうか。」
「ムカシの偉い人はうんぬん」と、批判しようのない故人を持ち出して説教するやり口は、出来の悪い親や教師と同じで、説教している当人どもはもちろん、故人もめしを食ったり異性といちゃついたり屁を垂れたりしていたのである。故人だからありがたがる理由にはならない。
“イヤイヤ学ぶ者より好きで学ぶ者の方が、好きで学ぶ者より学びを楽しめる者の方が、上達は早いのですよ”。論語の本章は、そんな物事を習得する当たり前の事実を言っているのであり、「好きこそものの上手なれ」ということわざは、たぶん本章から出来たのだろう。
余話
サイト開設のきっかけ

少年期の訳者が漢学を志望して座席夜行列車で上京したのは、田舎高校の国語教師*や図書館蔵書に飽き足らぬほど漢籍を「知」っていたからだが、文字通りの井の中の蛙で、同世代では中国史や漢籍に詳しかったかも知れないが、果たして「好」んでいたかどうかは疑わしい。
ただ単に、得手に帆を上げただけだった。それでも上京してみると教師を含め漢文の読める人はめったに居なかったし、T大含め他学の漢文が読める教授にはほぼ会わなかった。それゆえに「これでいいのだ」と開き直ってしまい、上京前と大して漢文読解力は変わらなかった。
わずかに読解力が上がったのは、学位論文を書く必要から、やむを得ず漢籍を多読しなければいけなくなったからで、いわばイヤイヤ読んでいた。とうてい論語の本章が言うような、「好み」もしなければ「楽し」んでもいなかった。同級生も似たようなものだったらしい。
同級生の一人が帰省した時、ご母堂が洗濯物を干しつつ、『史記』をすらすらと暗記のまま訓読してみせ、当人は大いに凹んだらしい。ご両親共にT大とK大の理系の院卒というから、かなり特殊な例ではあろうが、田舎高校で国語教師をおちょくる程度では、まだまだだった。
訳者が本格的に漢文が読めるようになったのは、実は学校を出てからだった。とある事情で暇を持て余したのだが、小人閑居して不善を為すのたとえ通り、小人に他ならない訳者は暇つぶしに金がかかった。ある時そのバカバカしさに気が付いて、一つ漢文でも読もうと思った。
漢文の基本は論語である。これは日中共に、時代を通じて変わらない。そして再び漢文を読んでみようと思ったとき、日本語の訳本を含め、論語を全部読み切っていないことに思い至った。せっかく漢学科を出たのに、これでは勉強してこなかったも同じだと気が付いた。
というわけで論語を読み始めたのだが、すでにうぶな田舎少年でも、血気盛んな青年でもない。世の中がさんざんいじめてくれたおかげで、少しは酸いも甘いも噛み分けていた。その脳みそで論語の原文や日本語訳を改めて読んだとき、「何じゃあこりゃあ」と思った。
まるで絵空事の行列ではないか。ありもしない古代を説き、出来もしない道徳を説教する。マックス=ウェーバーが論語を読んで、「インディアンの酋長のうんちく語りだ」と小馬鹿にしたのもうなづけた。どうして訳本を出すような漢学教授は、それに気が付かないのだろう?
丁度台湾や中国のサイトが、漢籍や古文字をデータベース化しはじめた頃だった。それまで高価で大部で個人では持ちようのない冊子の情報群が、検索付きで無料で閲覧できるようになった。それに乗っかって、論語の一字一句を辞書引きし、論語時代の表記を復元してみた。
すると出るは出るは。「この話ニセモノです」という証拠が次々出てきた。孔子が語ったはずの無いことが、論語には少なくとも半分以上含まれていると分かった。すると俄然孔子に興味が湧いてきた。本当は何を言ったのだろう? 本当はどんな人だったんだろう?
おそらくこの頃になって、やっと漢籍を「好む」ようになった。すると加速度的に読解力が上がっていった。語学もケンカ同様、所詮はこなした数がものを言う。読解力の向上と手を出す漢籍の種類と数が、双方相まって増大していった。すでに日本語訳に頼る必要も無くなった。
というより、漢籍の本質的な虚偽に気が付かないか、気が付かない振りをするのが日中台ともに漢文業界の座敷わらしなので、訳本はほぼ役立たずになってしまった。論語で言うなら、孔子は完全無欠の聖人で、高弟はそれに近い君子だというのを前提に書かれているからだ。
だがいわゆるメルカトル図法のグリーンランドが、大陸並みに巨大に描かれるように、それは孔子や弟子たちの史実の姿ではない。確かに、かつて「人間孔子」をうたう本が無いではなかったが、いずれも著者の論拠無き願望や、史実性に欠ける説話の羅列でしかなかった。
数学上の大系の前提を公理という。平行線の存在もその一つだが、数理の発達に伴って、平行線など無いことが、非ユークリッド幾何学として示された。孔子聖人説に立って論語を解釈するのは、今なお地球が平らだと言うのに均しい。願望ではなく物証に基づいて解釈すべきだ。
すると従来言われてきたことが、まるで間違っていることを、根拠を持って明瞭に言えるようになった。それをサイトに記したところで、大した利益にはならないが、無慮数千年も、それも少なくとも日中台露の漢文業界の誰も気が付かなかったことを書けるようになった。
おそらくこれも、井の中の蛙に過ぎないのだろうが、少なくとも自分が知る限り、論語の読解に関しては世界の最先端に居ると思える。論語の本章に言う「楽しむ」の境地に至ったのは、まだ誰もやっていないことを切り開いていく愉快を感じてからで、そう昔の話ではない。

出典:海上自衛隊ホームページ。トリミングして引用
また、漢文を含む人文業界は、全くの役立たずだと世間からバカにされている。確かに人文で病気は治らず、橋も架からずお腹も満たせない。だが少なくとも「好む」段階まで学べたなら、お金のかからない暇つぶしが出来るし、世を怨んで電車に放火する必要もない。
なぜなら暇つぶしや楽しむために、他人や他者を必要としないからで、つまりそれらに振り回されることが無い。生きていくのに最低限のお金さえ用意できれば、どんな大富豪もうらやましいとは思えない。世間での名声も欲しくならない。所詮よそ様だ、と割り切れる。
かように訳者如きにも、論語の本章のような過程を経験できる。この人間界には漢文業界だけに限らず、ありとあらゆる分野があるから、少々の忍耐力と少々のお金さえあれば、どんな人でもその人に向いた分野で、知り、好み、楽しむことが出来るのではないか。
本サイトが閲覧者諸賢にとって、そのきっかけになると幸いに思う。




コメント
はじめまして。大変興味深く読ませていただいております。私は漢文は読めないのですが、論語に興味あって少しづつアプローチしています。自分なりの見識持てるのに、あと20年くらいかかりそうですが。
九去堂さんはたしかに世界最先端でしょうね。似たような発想は、
の方が少しやられています。書家です。サイトは死ぬほど遅いです。ただこの方は、漢字は聾者が開発したものと仮説立てていますから、音韻はわりと無視です。
初学者が困るのは、あてになる本がないことです。なんでも情報頭に入れれば良いとするのは間違った考えで、最初の情報こそ精選するべきだとは思っています。しかし金谷と宮崎で解釈違いすぎる。勉強しているというより、おもに混乱している状況です。いっそ九去堂さん読みでいこうと思います。
お越し頂きありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。