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論語詳解393衛霊公篇第十五(15)自ら厚くし’

論語衛霊公篇(15)要約:自分には厳しく。他人には優しく。そうすれば怨まれないよ、と孔子先生。ごく常識的な教えですが、当の先生にとっては、かつて国中から怨まれて追い出された苦い過去がありました。そんな苦渋の一節。

論語:原文・書き下し

原文

子曰、「躬自厚、而薄責於人、則遠怨矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 身 金文自 金文厚 金文 而 金文亳 金文責 金文於 金文人 金文 則 金文遠 金文夗 怨 金文已 矣金文

※躬→身・薄→亳・怨→夗。論語の本章は、「則」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、みづかあつくし、しうすひとむらば、すなはうらみとおざかるなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 楽
先生が言った。「自分の行いを自分で丁寧にし、人には軽く責めるなら、とりもなおさず怨みから遠ざかる。」

意訳

行いを慎むように気を付け、人に求めることが少なければ、怨まれることはない。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「自分を責めることにきびしくて、他人を責めることがゆるやかであれば、人に怨まれることはないものだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「多責備自己,少責備別人,就可以避免怨恨。」

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孔子が言った。「自分をより多くとがめ、他人をより少なくとがめれば、必ず恨みから逃れることが出来る。」

論語:語釈

、「 。」


躬(キュウ)

躬 金文大篆
(金文大篆)

論語の本章では、”自分の行い”。原義は前後左右に曲がるからだ。背をかがめたからだ。類義語は身。漢文では”みずから・自分で行うさま・自分で”の意に用いられる例が多い。この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。部品の身の字は存在した。詳細は論語語釈「躬」を参照。

厚 金文
(金文)

論語の本章では、”丁重なさま”。初出は甲骨文。

『学研漢和大字典』によると会意文字で、厚の原字は、高の字をさかさにした形。それに厂(がけ、つち)を加えたものが厚の字。土がぶあつくたまったがけをあらわす。上に高く出たのを高といい、下にぶあつくたまったのを厚という。基準面の下にぶあつく積もっていること、という。詳細は論語語釈「厚」を参照。

薄 金文大篆
(金文大篆)

論語の本章では、”物事の程度が少ない”。初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。同音の亳について「薄に通じる」と『大漢和辞典』にいう。

『学研漢和大字典』によると、会意兼形声文字。甫(ホ)は、平らな苗床に苗のはえたことを示す会意文字で、圃(ホ)の原字。溥(ハク)は、甫を含んだ文字で、水が平らに広がること。薄は「艸+〔音符〕溥」で、草木が間をあけずにせまって生えていること、という。詳細は論語語釈「薄」を参照。

責 金文
(金文)

論語の本章では、”せめる”。とげでさすようにとがめる。ちくちくと、とがめさいなむ。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文

『学研漢和大字典』によると、会意兼形声文字。朿(シ)(束(ソク)ではない)は、先のとがったとげや針を描いた象形文字で、刺(シ)(さす)の原字。責は「貝(財貨)+〔音符〕朿」で、貸借について、とげでさすように、せめさいなむこと、という。詳細は論語語釈「責」を参照。

於 金文
(金文)

論語の本章では、”~を”。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると、「はた+=印(重なって止まる)」の会意文字で、じっとつかえて止まることを示す、という。詳細は論語語釈「於」を参照。漢文では多くの場合”~で”を意味するが、本章のように”~を”を意味する場合もある。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

怨 篆書
(篆書)

論語の本章では、”うらみ”。残念で不快な気持ち。無念さ。この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しないが、同音の夗を用いて夗心と二文字で書かれた可能性がある。詳細は論語語釈「怨」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大


論語の本章はごく常識的な教訓で、これといって違和感は無いが、当の孔子にとっては、苦い思い出とともに絞り出した言葉だろう。孔子は自分自身に厳しくはあったが、他人にも厳しく、ゆえに辛口の人物評が多い上に、魯国の政権中枢では過酷な取り締まりを行った。

国務代行の職について、魯の家老で政治を乱した少正ボウという者を処刑した。魯公とともに国政を司り、三ヶ月が過ぎると、子羊と豚を売る者は値段をごまかさなくなり、道を行く男女は別々に歩くようになり、落とし物を猫ばばする者もいなくなった。(『史記』孔子世家)

「道を行く男女は別々に歩くようにな」るほど庶民の風俗を取り締まった上に、門閥三家老家の根拠地を破壊して回った。「他人を厚く責めた」のである。こうなると貴族からも庶民からも嫌われるのは必定で、それゆえに国を追い出されて中国各地を放浪するハメになった。
放浪

その失敗を経て、やり手の陰謀家になれたところが、孔子の偉い所かもしれない。

論語の本章は、定州竹簡論語には見られないが、秦帝国成立前後の呂氏春秋に言及があり、論語の本章は少なくとも、戦国末期までには成立していたのだろう。

故君子責人則以人,自責則以義。責人以人則易足,易足則得人;自責以義則難為非,難為非則行飾;故任天地而有餘。不肖者則不然,責人則以義,自責則以人。責人以義則難瞻,難瞻則失親;自責以人則易為,易為則行苟;故天下之大而不容也,身取危、國取亡焉,此桀、紂、幽、厲之行也。尺之木必有節目,寸之玉必有瑕瓋。先王知物之不可全也,故擇物而貴取一也。

だから君子は人を責めるに当たり、必ず他人の批判を根拠にするが、自分を責めるときには、正義に照らし合わせるのだ。

他人を責めるのにさらに他人の言葉を借りるなら、それで十分説得力があり、だからこそ人々の支持も得られる。自分を責めるのに正義を用いれば、それはおかしいと他人に言われることがめったに無く、めったに無いからこそ自分の行動に、大義名分を付けられる。だから正義の根拠を天地に任せておけば、ものすごい効果があるわけだ。

ところが馬鹿者はそれに気付かず、他人を責めるのに正義を用い、自分を責めるのに他者の批判を根拠にする。正義の名の下に他人を責めれば、誰もかもが口を閉ざしてしまい、支持してくれる者がいなくなる。自分を責めるのに他者の批判を用いれば、悪うございましたと言うのが簡単で、それゆえ一時の言い逃れにしかならない。

だから天下は広大でも、誰も誉めてはくれないのだ。個人なら危ない目に遭うし、国主なら国を滅ぼすだろう。かの桀王、紂王、幽王、厲王も、こうやって国を滅ぼしたのだ。たかが一尺の材木にも節はあり、一寸の玉にも傷はある。昔の聖王は、罪の無い者などいないと知っていた。だから何事に付け選択は慎重に行い、間違いはよほどひどいもの一つだけを責めたのだ。(『呂氏春秋』挙難篇1)

また後漢末の徐幹は、論語の本章にこと寄せて、こう書いている。

孔子之制《春秋》也,詳內而略外,急己而寬人,故於魯也,小惡必書;於眾國也,大惡始筆。夫見人而不自見者謂之矇,聞人而不自聞者謂之聵,慮人而不自慮者謂之瞀。故明莫大乎自見,聰莫大乎自聞,睿莫大乎自慮。

孔子が『春秋』を書いたとき、自国については詳しく書き、他国についてはおおざっぱだった。つまり自分には厳しく、他人には緩やかだったのだ。だから魯国については、些細な悪事も必ず書き、他国については、とんでもない悪に限って書き記した。

そもそも他人のあら探しばかりして、自分を反省しない者を「目が見えない」といい、他人の悪事ばかり聞きたがり、自分への批判は聞かない者を「耳が聞こえない」といい、他人のことばかり批評して、自分の言動を顧みない者を「たわけ」という。

だからよくものが見える者は、必ず自分自身を見るし、聞いてすぐ理解する者は、必ず自分への批判を聞き入れるし、賢い者は、必ず自分の言動を顧みる。(『中論』脩本篇1)

この徐幹は後漢末の儒教界にあって、珍しいほどの人格者だったらしく、曹操始め三国志の英雄たちが、腐れきった儒者どもを片端からぶった斬って回った中で、例外的に立派な儒者だと尊敬された。だがそれだからだろうか、蔓延した疫病にかかって早死にしたとされる。

だがおそらく、単なる疫病ではあるまい。『傷寒論』を書いた張仲景が、その書の自序で歎いたように、上流階級であろうと一族の三分の二が死に絶えたというのは、疫病以前に栄養状態が悪化していたと思われる。当時の貴族=大地主だが、取り立てる穀物すら無かったのだ。

余宗族素多,向餘二百。建安紀年以來,猶未十稔,其死亡者,三分有二,傷寒十居其七。

趙仲景
私の一族はもとは大勢いて、二百人を過ぎていただろうか。だが漢末の建安年間(196-220)以降、十年と過ぎないうちに、一族の三分の二が死に絶えてしまった。その中で、寒さと栄養失調による死者は七割に上る。(『傷寒論』張仲景原序)

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