論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰以不敎民戰是謂弃之
- 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱。
校訂
武内本
唐石経弃、敦煌鄭往本。
東洋文庫蔵清家本
子曰以不教民戰是謂棄之
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「以不教民戰,是謂[棄]之。」362
標点文
子曰、「以不敎民戰、是謂棄之。」
復元白文(論語時代での表記)
※「戰」→「嘼」。
書き下し
子曰く、敎へざる民を以て戰ふ、是れを之棄つると謂ふ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「教えていない民を使って戦う、これをまさに捨てるという。」
意訳
しつけの済んでいない民を駆り出して戦っても、逃げ散っていなくなるだけだ。なのに戦場へ引っ張る連中は、とんでもない人殺しだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「教化訓練の行き届かない人民を率いて戦にのぞむのは、民を棄てるのと同じである。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「不訓練就讓百姓去打仗,就是讓他們去送命。」
孔子が言った。「訓練しないのに人民に武器を持たせて戦場に送る、これをまさに、彼らの命をあの世に送るという。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
以(イ)
「以」(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”~で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
敎(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”教える”。新字体は「教」。台湾と香港では、「教」を正字としている。清家本も「教」と記す。「キョウ」は呉音。字形は「爻」”算木”+「子」+「攴」筆を執った手で、子供に読み書き計算を教えるさま。原義は”おしえる”。甲骨文では地名・人名に用い、春秋の金文では”つたえる”、戦国の金文では原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「教」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
敎民
論語の本章では、民がいう事を聞くように躾けること。
従来訳のように軍事訓練を含むと解するのは誤りではないが、論語時代の戦闘を考慮するとやや言い過ぎのきらいがある。戦場に向かうまでのサバイバル技術は、当時の庶民なら心得ており、与えられた武器は鎌状のほこ=戈の場合、振り回していればそれなりに戦えるので、長い訓練は不要と思われる。
これは戦国時代の日本の足軽のほとんどが、槍を持たされていたのと事情が同じで、刀は素人が振って切れるようなものではなく、持たされた刀は「鍋づる」と呼ばれ、ほとんどなまくらで、ただの鉄の棒として殴刂つけるものだった。ゆえに槍が重宝されたわけ。
また弩(クロスボウ)を支給された場合、「戦闘時以外は人に向けるな」との注意事項を除き、あとは素人でも簡単に使える。日置流弓術を稽古した経験から言うと、弓は当たるものではないが、クロスボウなら子供でも当たるし、射すくめて歩兵や戦車の大群を足止めできる。
現代戦でも一次大戦中にドイツが開発した短機関銃(連射できる大きな拳銃)を、二次大戦でソ連が大量に採用し、字も読めない庶民を徴兵し、ほぼ教育なしで前線に投入しても、ついに精鋭ドイツ軍を破ったのは、兵士を戦えるように育てるのがいかに大変かを物語っている。
少し訳者の個人的感想になるが、刀は抜くだけでも大変で、収めるのはもっと難しい。うっかりするとポロリと指を切り落としてしまう。弓はと言えば、当たるようになるまで何年もかかる。戦うなら長柄武器の方がまだ簡単。
ただし弩については、そのからくり部分=弩機に貴重な青銅が要り、作りも精密だったから量産が利かず、連射も出来ないという欠陥はあった。
現代のように高度に機械化・情報化された歩兵は無論考慮外だが、長らく戦場で将軍が一番頭を痛めたのは、兵の逃亡=補給の貧弱だった。ナポレオンが「良い兵とは良く戦う兵ではない。良く歩く兵だ」と言ったのはそれを物語る。次いで将軍が悩んだのは、陣形を保つこと。
そして敵の態勢に応じて、「魚鱗から鶴翼へ」というように、その変形を滞りなく行えることだった。欧州の絶対王政期の徴兵期間が、概して何十年と長いのは、何千何万という兵が秩序を保ったまま移動し、そして戦況に応じて陣形変換するのが、極めて困難だったからだ。
しかし孔子の壮年期まで、春秋時代の戦闘は主に戦車戦であり、歩兵は戦車に附属して、その後ろを歩いて進めば良かった。どこに向かって歩けばいいかは、所属する戦車を見ていれば分かるので、陣形戦の訓練の必要がなかった。歩兵隊だけで戦うこともまれで、山間部や大河の峡谷など、歩兵だけで戦う必要のある場合は、常時軍事訓練を受けている、士分以上が戦った。
さらに輜重兵と歩兵の区別もなかったから、史書に記録が無く、戦史学者を悩ませている。現伝『孫子』を真に受ければ、戦車と輜重車の数は同じだから、徴兵された庶民の少なからぬ部分は、戦士ではなく荷役夫として働いたことになる。それならば庶民にとって普段の生活と変わりが無く、訓練の必要はそれほど要らなかっただろう。
これは弩の出現によって、庶民の徴集兵が前線に立たされるようになっても、あまり事情は変わらなかったと思われる。戈も弩も短期間の訓練で済む、後世の短機関銃のような兵器だった。それゆえ弩機さえ量産できれば、春秋から戦国へと時代が移り変わっていったわけ。
戰(セン)
「戰」(戦国金文)
論語の本章では”戦う”。新字体は「戦」。初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。同音も存在しない。論語時代の置換候補は「嘼」。字形は「單」”さすまた状の武器”+「戈」”カマ状の武器”。原義は”戦争”。部品の單(単)は甲骨文から存在し、同音は丹や旦、亶などのほか、単を部品とする漢字群。いずれも”たたかう”の語義はない。
「嘼」交鼎・殷代末期
また戦国の竹簡では「𡃣」「嘼」を「戰」と釈文する例があり、「嘼」字の初出は殷代末期の金文、春秋末期までに”戦う”と解せなくもない用例があるが、”おののく”の用例は無い。詳細は論語語釈「戦」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”…であると評価する”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
弃(キ)→棄(キ)
論語の本章では”捨てる”。唐石経は「弃」と記し、清家本は「棄」と記す。「弃」は「棄」の異体字。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。従って「棄」へと校訂した。論語の伝承について細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(甲骨文)
初出は甲骨文。字形は「子」+「∴」”ごみ”+「其」+「廾」”両手”で、子をゴミと共にちりとりに取って捨てるさま。原義は”捨てる”。西周の金文では”捨てる”を意味し、春秋の金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「棄」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。民を指す。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
謂棄之
論語の本章では、”それ=民を捨てるというのだ”。領民という財産を手放す事になる、の意。
従来の論語本では、人道主義的に「民をむざむざ殺してしまう」と解する例もあるが、中国史を通読する限り、中国人というのはそんなにおとなしい人たちではない。秦帝国崩壊のきっかけとなった、陳勝・呉広の乱(BC209)を持ち出すまでもなく、殺されるぐらいなら反乱を起こすのが当たり前。
論語時代となると、人もまだ素朴だったのか、後世ほど人間が図々しくできていないが、それでも死ぬぐらいなら暴れるのは同じ。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋後期の時代背景として、弩(クロスボウ)の実用化から民の徴兵が始まっていたことがあり、本章の説くところと一致する。
解説
論語の本章の趣旨は、孔子没後一世紀の戦国初期に生まれた孟子によって、再び強調された。
孟子は孔子の教説を作り替えて、諸侯に売り出す儒教に仕立てた。この点戦国時代らしいインチキがつきまとうが、他の諸子百家と違い、民の保護を前面に押し出した。それゆえ本章のような、民を無残に扱うことには反対した。
孟子對曰:「殺人以梃與刃,有以異乎?」曰:「無以異也。」「以刃與政,有以異乎?」
曰:「無以異也。」曰:「庖有肥肉,廐有肥馬,民有飢色,野有餓莩,此率獸而食人也。獸相食,且人惡之。為民父母,行政不免於率獸而食人。惡在其為民父母也?仲尼曰:『始作俑者,其無後乎!』為其象人而用之也。如之何其使斯民飢而死也?」
孟子「人を殺すのに棒で殴るのと、刀で斬るのとで、違いはありますか?」
梁恵王「違いは無い。」
孟子「この宮殿の厨房には分厚い肉が揃い、馬屋には肥えた馬が飼われています。ですが一歩外に出ると、民は飢えて青い顔、道ばたには行き倒れが転がっています。つまり王殿下は、家畜をけしかけて人を喰らわせているのです。けものが食い合えば、誰もが目を背けるのに、民の父母を名乗る王殿下は、けものに人を喰らわせて平気でいるのです。そんな父母がどこにいますか。
かつて孔子は言いました。”貴人の葬儀の道連れとして、初めて人形を作った奴は情けを知らない。子孫が絶えても当然だ”と。人そっくりに作ったからで、人が人を生き埋めにするとは、おぞましいとはお思いになりませんか。ならば民を飢え死にさせるのは、もっとむごいと言うべきでしょう。」(『孟子』梁恵王上4)
有名な「五十歩百歩」の故事成句も、もとは『孟子』から出たもので、ろくにいたわりもせず「民が言うことを聞かん」と歎く梁(=魏)の恵王に、「徴兵された民が戦場から逃げ、五十歩逃げた者と百歩逃げた者で、どちらが臆病ですか?」と孟子が逆ねじを喰らわせたのが出典。
また孟子はこうも言っている。
爭地以戰,殺人盈野;爭城以戰,殺人盈城。此所謂率土地而食人肉,罪不容於死。故善戰者服上刑,連諸侯者次之,辟草萊、任土地者次之。
他国の土地が欲しいからと言って戦争を仕掛ける。すると平原のあちこちで人殺しが始まる。都市が欲しいからと言って戦争を仕掛ける。すると都市のあちこちで人殺しが始まる。これではまるで、土地に人を殺させているようなものではないか。
その罪は死に値する。だから戦上手な兵法家は極悪と言うべきで、極刑に処してよい。諸侯を説き回って戦争を仕掛ける、蘇秦張儀のような奴は、それに準じる罰を与えてよい。それに近年「墾草令」を秦公に説いて、開墾と植民による軍備増強を唱える商鞅のような奴は、それに近い刑罰に処するがよい。(『孟子』離婁上14)
孔子と違った孟子のインチキ臭さは、おそらくは当人が全くの青びょうたんで、ケンカ一つ出来ないくせに、食うか食われるかの戦国諸侯に、生き残りの術を説いたことにある。だがこの平和主義は万人受けするし、なにより平和の希求は、誰にも妨げられてはならない。
余話
(思案中)
『論語』子路篇おわり
お疲れ様でした。
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