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論語詳解398衛霊公篇第十五(20)君子は世を°

論語衛霊公篇(20)要約:生きている間の無名を嘆く孔子先生とその一門ですが、無名を恐れたのは死後にも同じでした。しかもそれを恐れたのは一門に限らず、中国人誰もが抱える悩みです。ちょっと日本人には想像のつかない執念の話。

論語:原文・書き下し

原文

子曰、「君子疾沒世而名不稱焉。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 君 金文子 金文疾 金文勿 金文世 金文而 金文名 金文不 金文称 金文安 焉 金文

※沒→勿・焉→安。

書き下し

いはく、君子もののふぼつたたへられざるをにくなん

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
先生が言った。「君子(諸君)はこの世を去って名前が呼ばれないのを必ず気に病むものだ(きっと気に病むだろう)。」

意訳

君子という者は、死後の無名を忌み嫌うものだ。

諸君は死んだ後の無名を恐れているのだろう?

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「君子といえども、死後になっても自分の名がたたえられないのは苦痛である。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「君子擔心至死也沒好名聲。」

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孔子が言った。「君子は死ぬまで自分に名声が無いのを気にかける。」

論語:語釈

、「 。」


君子

君 金文 子 金文
(金文)

論語の本章では、二つの解釈があり得てどちらとも決めがたい。一つは貴族としての”君子”。もう一つは呼びかけとしての”諸君”。詳細は論語語釈「君子」を参照。

疾 甲骨文 疾 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”気に病む”。語源は矢で射られたような急性で致死性の病気。詳細は論語語釈「疾」を参照。

沒(没)

没 金文大篆
(金文大篆)

論語の本章では”居なくなる・死去する”。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はmwət(入)。論語時代の置換候補は近音の「」mi̯wət(入)。◌̯は音節副音=弱い音を意味する。その「i̯」を除けば両者は完全に一致するので、音通と評価する。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、殳は「うずまく水+又(手)」の会意文字で、うずまく水中にからだをもぐらせて潜水することを示す。沒は、その原義をより明らかにあらわすため水をそえた字。勿(ブツ)・(モチ)(ない、見えない)と同系、という。詳細は論語語釈「没」を参照。

稱(称)

称 篆書
(篆書)

論語の本章では、”呼ばれる・讃えられる”。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、爯(ショウ)は「爪(手)+物が左右に平均してたれた姿」の会意文字で、左右平均してたれた物を手で持ちあげるさま。稱は「禾(作物)+〔音符〕爯」で、作物をぶらさげて重さをはかること。持ちあげる、はかるなどの意を含む、という。詳細は論語語釈「称」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 篆書
(金文・篆書)

論語の本章では”きっと…である(だろう)”。文末についた場合は断定を表す。「矣」と同じ用法だが、矣ほど断定の程度が強くない。語源はエンという名の黄色い鳥という。詳細は論語語釈「焉」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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論語の前章で、孔子一門が無名をことのほか恐れているのを記した。しかし一門が恐れたのはただこの世に在る時の無名だけでなく、死後にも及ぶことが本章の内容。事は恐らく、一門だけに限らず、論語の時代からすでに中国人は生前没後の無名を共に恐れに恐れた。

中国人の死後の名声へのこだわりは、論語の他の章にもそれが現れている。

そのあたりの愚夫愚婦が、つまらぬ忠義立てをして我から身投げをしたり、首を吊ったりして、誰も知る人はいませんでした、と言うのとは違うのだ。(論語憲問篇18)

実際に富は万能ではない。他にも大事なものがある。
斉の景公は馬四千頭を飼っていたが、死んでも民は讃えなかった。
ハクシュクセイは首陽山で飢え死にしたが、民は今になっても賞賛している。
そういうことだな。(論語季氏篇15)

死後の無名への恐れは、「チクハク(=竹と絹に記された文書。歴史書)に名をる」「セイ(=歴史書)に名を残す」という故事成語にも現れている。それをからかって、明代の笑い話集『笑府』はこう書く。

金持ちだが無名の王ばあさん、死ぬに当たって道士を呼び、どっさり謝礼を渡してこう言った。「どうか死後の名声のために、故郷にも轟くような立派な戒名を書いておくれ。」

王ばあさんが亡くなって、困った道士は迷ったあげくに、位牌にこう書き記した。

「大勲位功一級元宰相元帥枢密顧問官公爵文学博士誰々の隣に住まう王ばあさんの霊位」
(巻八・題柩)

すさまじい執念と言うべきか、道士の商道徳が賞賛されるべきか。ただしそれは日本人的感覚と言うもので、「死んだらそれまで」「死ねば悪党もホトケ」という感覚は、中国人には通用しない。「死屍に鞭打つ」の例え通り、死とは住所をあの世へ移すだけだと思っている。

だから始皇帝は兵馬俑を作らせたし、清末の康有為はこういうことを言っている。

沒世、猶沒身也。名者、身之代數也。有是身乃有是名、有其實乃有其華、然身不過數十年、名可以千載。有身之時、人尚有待、無名猶可、至沒世之後、草木同腐、魂魄竝逝、則顧念生前、淹忽隨化、未有不以榮名爲寶者。名在則其人如在、雖隔億萬里億萬年時丰采如生、車服爲之流連、居游爲之慨慕、輯其年譜、考其起居、薦其聲香、頌其功德、稱其姓號、愛其草木、其光榮過于有身時萬萬、故沒世無稱、君子以爲疾也。名蓋孔子大義、重之如此。宋賢固篤于務實者、而惑于道家之攻名、至使天下以名爲不肖、人乃不好名而好利、于是風俗大壞、此則背孔子之義矣。

康有為
死没したと言っても、身体が滅んだに過ぎない。名、つまりその人にまつわるエピソードこそが、体に代わってその人を伝えるのだ。体がこの世にあれば、当然名が生まれる。その人が世にあれば、その名声も世にある。だが体は数十年で滅んでしまう。対して名は千年の長きに残る。

体がこの世にある間は、人にはまだ可能性があり、無名でもかまいはしない。だが死没の後、身は草木同然に腐れ果てて、たましいの重いものも軽いものも枯れ果てるから、生前の思いなどは、すっかり消え果てる。だから死後ももてはやされる人で、生前の名誉が無い人は、これまで一人もいなかった。

名さえ残っているのなら、その人がまだ生きているのと変わらない。億万里、億万年を隔ててても、その人は生き生きと生きている。乗っていた車、着ていた服が、その名残を伝え、住まいや訪れた地が、その名を慕う人のよすがとなる。

さらにはその人の生涯を追ってまとめ、立ち居振る舞いを想像し、その声を聞いたような気さえする。加えてその人の功績を讃え、名前を世に広め、可愛がっていた草木を引き継げば、人の名誉は生前より万倍の万倍も明らかとなる。だから世を去ってから名が無いのを、君子はことのほか恐れたのだ。

名とは、孔子が大義として掲げたほどに重い。宋代の賢者はもちろん、我が身の充実に努めたのだが、道家の隆盛に惑わされて、名などどうでもいいという風潮を天下に広めた。だが名を惜しまない者は我欲に走り、その結果世の人心を荒ませるに至った。これはとりもなおさず、孔子の大義を忘れたからである。(『論語注』)

言っている事とやった事が全然違う。名を惜しむのも命を懸けるのも、全て他人がやるものと決めつけて疑わない。こんな事を言っているから、変法運動に失敗して、譚嗣同ほかあたら若い才能を刑場の露へと追いやり、自分はのうのうと逃げて、生き恥をさらしたのだ。

ともあれ始皇帝から康有為まで、つまり中華帝国の始まりから終わりまで、死後の名にこだわる中国人、特に儒者の執念は続いた。康有為が「道家の隆盛に惑わされて」などと言っているが、宋儒も最後は文天祥のように、「名を惜しんで」滅びていった(→『宋史』崕山の戦い)。

戦時の儒者とはそういう覚悟があるはずで、漢儒の端緒を作ったレキ食其イキも同様だった。司馬遷は記す。

初,沛公引兵過陳留,酈生踵軍門上謁曰:「高陽賤民酈食其,竊聞沛公暴露,將兵助楚討不義,敬勞從者,願得望見,口畫天下便事。」使者入通,沛公方洗,問使者曰:「何如人也?」使者對曰:「狀貌類大儒,衣儒衣,冠側注。」沛公曰:「為我謝之,言我方以天下為事,未暇見儒人也。」使者出謝曰:「沛公敬謝先生,方以天下為事,未暇見儒人也。」酈生瞋目案劍叱使者曰:「走!復入言沛公,吾高陽酒徒也,非儒人也。」使者懼而失謁,跪拾謁,還走,復入報曰:「客,天下壯士也,叱臣,臣恐,至失謁。曰『走!復入言,而公高陽酒徒也』。」沛公遽雪足杖矛曰:「延客入!」

司馬遷
私兵を引き連れた沛公時代の高祖劉邦が、陳留のまちに駐屯すると、酈食其は謁見を願った。まずは定石通り、相手を儒者らしいおべっかでおだてた。

「高陽の賤民、儒者の酈と申します。勝手ながら沛公を拝見しておりますと、世に名が出てからこの方、秦国によって無残に滅ぼされた楚国の復興を助け、天下の悪党を懲らしめておられます。従者どの、お手数ではござるが、沛公にお取り次ぎ下され。天下の計略を申し上げましょう。」

従者が沛公のテントに入ると、近習に足を洗わせているところだった。

沛公「何やら声がしたが、誰か来たのか?」
従者「もっともらしい顔をした儒者が来まして、ぞろぞろとした儒者服を着、かんむりを横ヒモで結んでおります。」
沛公「ケッ。儒者かよ。ワシは天下取りの大いくさに忙しい、帰ってくれと言え。」

従者「…ということでござった。お引き取り下さい。」
酈食其は目を怒らせて、剣を引き寄せて言った。「愚か者! もう一度沛公に言え。儒者ではのうて、高陽の大酒飲みがやって来たとな!」

従者は慌てふためいて、沛公のテントに戻って言った。「あ、あのう、儒者ではなくて、とんでもなく怖いおっさんでした。大酒飲みだと言うております!」

沛公は足を洗うのを止めさせて、指揮杖をドンと床に突いて呼ばわった。「おいでを願え! 今すぐにだ!」(『史記』酈食其伝21)

酈食其の最期は、外交官として敵方に煮殺されて終わるのだが、最後まで名を惜しんで命乞いしなかったという。生き汚いのを否定はしないが、他人を死に追いやってのうのうと生きている儒者や役人には腹が立つ。そういうバケモノに人間を仕立てるからくりが、儒教にはある。

中国人は頭が悪すぎる。人は死ねばそれまでだ。来世を語る奴にだまされている。二度と無いこの世だからこそ、人は精一杯生きられる。我が身を煮殺す釜を、笑い飛ばせたのはそれゆえだ。ブッダはそれに気付いていたが、まわりが余りに頭が悪く、来世を語る他なかった。

清朝は本来、太平天国の乱で滅びているはずだった。領民の四人に一人を死なせて生き延びている政権など、世界史上の変態と言える。同等の悲惨な例は、パラグアイの三国同盟戦争ぐらいだろうか。清が生き延びたのは、アヘンを売って儲けたい列強の都合に過ぎない。

それ故だろうか、康有為ら清末の政客は、何とも見込みが甘い者が多い。反乱さえ起こせば全て思い通りに行くと考えた、二・二六事件の叛乱軍将校と似通っている。康有為も叛乱将校も、反乱するからには君主を捕らえなければいけなかったのだ。何とも甘い。甘すぎる。

ゾンビ状態の清朝と、𠮷外儒者の威張る日本帝国、共にファンタジーが過ぎるようである。

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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