『論語と算盤』蟹穴主義が肝要
現代語訳
私の処世の方針としては、今日まで真心と、相手を自分の如く思う憐れみを貫く思想でやり通した。古来、宗教家・道徳家に大学者が沢山出て、人の道を教え真理の法を立てたが、それはつまるところ修身、つまり人格を高めるという一事に尽きていると思う。
その修身も、回りくどく言えば難しいが、わかりやすく言えば、箸の上げ下ろしの間の注意にも、十分読み取るべき教訓があると思う。私は其の意味で、家族に対しても、客に対しても、その他手紙を見るにも何を見るにも、誠意を以て接している。
孔子はこの意味を、
門の前に立つ時は、正面には立たず、入る時には敷居を踏まなかった。
主君の立ち位置の前を過ぎる時は、顔色が生き生きとし、足が勇み立った。
ものを言う時は、言葉足らずのように語った。
衣の裾をつまんで広間に上がる時は、身をかがめた。
その時は息を押さえて、息をしない者のようにした。
広間から出て階段を一段下りた時は、顔の緊張を解きにこやかだった。
階段を下り切って小走りする時には、両肘を張った。
自分の定めの位置に戻った時には、かしこまった。
の中で、余す所無く説いておられる。また、礼儀の応答、客の招き招かれ、衣服や寝起きについて余す所無く説かれ、食物についても
肉や魚の刺身は、細く切ったものでもかまわない。
ご飯が腐りかけたもの、乾ききったもの、肉の腐ったものは食べない。
色が悪くなったものも食べない。
においが悪くなったものも食べない。
煮すぎたものも食べない。
旬でないものも食べない。
切り方が正しくないのも食べない。
食材に応じたたれがなければ食べない。
などと言っておられる。これらはごく身近な例だが、道徳や倫理は、こうした身近な所にあるのだろうと思う。
箸の上げ下しの注意が出来れば、次に心掛けるべきは自分を知ることだ。世の中には、随分自分の力を過信して叶わぬ望みを持つ人もあるが、余り進むことばかり知って分を守る事を知らないと、とんでもない間違いを引き起こすことがある。
私は蟹は甲羅に似せて穴を掘るという主義で、渋沢の分を守る事を心がけている。これでも今から十年ばかり前に、是非大蔵大臣になってくれだの、また日本銀行の総裁になってくれだのという交渉を受けたこともあるが、自分は明治六年に感ずるところがあって、実業界に穴を掘って這入ったのでだから、今更その穴を這出すこともできないと思って固く断ってしまった。
孔子は、「以て進むべくんば進み、以て止まるべくんば止まり、以て退くべくんば退く」と言っておられるが、実際人は、出処進退が大切である、しかし分に安んずると言っても、進取の気象を忘れてしまっては何にもならない。
しかしそれでも大言壮語して、業もし成らずんば死すとも還らず(成功しなかったら死んでも帰らない)とか、大功は細瑾を顧みず(大きな事業をなすにはチマチマしたことにこだわっていられない)とか、男子一度意を決す、須からく乾坤一擲(天地を放り投げるような)の快挙を試むべしなど云うが、そこにも必ず己が分を忘れてはならない。孔子は「心の欲する所に従って矩を踰えず」(したいようにしても決まりを外れない)と言われたが、つまり分に安んじて進むのがよかろうと思う。
次に青年の最も注意すべき事は、喜怒哀楽である。特に青年のみならず、そもそも人間が処世の道を誤るのは、主として感情の発現がうまくいかないのが原因で、孔子も「関雎は楽しんで淫せず、哀しんで傷らず」(『詩経』にあるミサゴの歌は、恋愛を歌うが淫らではなく、哀しみを歌うがふさぎ込むほどではない)といって、喜怒哀楽の調節が必要である事を、深く述べておられる。私共も酒も飲めば遊びもしたが、淫せず傷らずということを常に限度として居た。要するに、私の主義は誠意誠心、何事も誠実を規則として自分を縛ると言うよりほか、何ものでもない。
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