論語と算盤・現代語訳(23)常識と習慣2

『論語と算盤』口は禍福の門なり*

私は普段おしゃべりな方で、色々と口出しし、演説も頼まれればどこでもやるので、知らないうちに言い過ぎる事があって、人からしばしば揚げ足を取られたり、笑われたりする事がある。ただしいかに揚げ足を取られようが笑われようが、口に出す以上は、心にもない事は言わない主義だ。

従って世間がどう聞こうと、自分では出任せを言ったつもりはない。口は災いの元でも、それを恐れていたら、ためになる場合にためになる事も言えない。黙っていては災いは防げても、口で招く幸せもあって、沈黙をむやみに珍重すべきではない。たった一言言っただけで、人の困難を救う事だってあるのだ。

口が回ればこそ争いの調停も出来るし、しゃべったおかげでさまざまな仕事が舞い込んでくることもある。これらは口が生み出す幸いだ。芭蕉は「もの言えば唇寒し秋の風」と句を詠んだが、災いばかり見ていてはものを言う事すら出来ない。それでは人間の幅が狭まるのだ。

口で災いを招きたくないなら、災いを招きそうな事を言わねばよろしい。かたことでもむやみな言葉を使わず、災いと幸せの分岐点を見極めるのは、誰でも忘れてはならないことだと思う。

禍福の門:カフクのモンと読み、禍は”わざわい”、福は”しあわせ”。

『論語と算盤』悪(にく)んでその美を知れ

論語と算盤 悪んでその美を知れ

現代語訳

私はどうかすると世間から誤解されて、渋沢は善悪こだわり無く受け入れる主義だとか、正邪善悪の区別をしない男だとか言われる。先日もある者が来て、正面から私にこんな事を言った。

―あなたは日頃論語を引用して処世術の根本にし、論語主義を唱えて自分で行っているのに、あなたが口を利いてやる者の中には、むしろ非論語主義の者がおり、社会から嫌われている者でも、平気でそばに置いている。これではあなたの高潔な人格が傷つくのではないか。一体何を考えているのか―。

言われてみればその通りなのだが、しかし私には別の主義がある。世間で生きていくに当たって、自立すると共に社会貢献に努め、出来る限り善いことをし、社会の進歩を図りたい。自分の富や地位や子孫の繁栄は二の次で、国家社会の為に尽くそうと思っている。

だから人のためによかれと思い、人の能力を見いだして、それを適所に用いたい。これが誤解の元だろう。私が実業界に入ってから、知り合う人の数が増え、その人達が私を見習って、得意とする分野で事業に励めば、当人は当人の利益を図っても、行う事業が正しければ、それは社会の役に立つ。

私はそれに同情して、手助けするだけだ。これは儲けを第一とする商工業者だけでなく、文筆に携わる人でも同様で、新聞記者が私の話を頼んでも、それでその新聞の価値が高まるなら、私の論に価値が無くとも、頼む人がまじめならことわりはしない。

そういう人の頼みを聞くのは、その人のためだけでなく、社会の利益の一部になると思うからだ。だから幾ら忙しくても、会いたいという人には必ず会う。だから来訪者の希望が道徳に沿うなら、知らない人だろうが私に差し支えがなければ、その注意や希望は聞いてやる。

ところがこの私の門戸開放主義につけ込み、道理なき要求をする人があって困る。見知らぬ人が生活費を貸せ、親が貧乏だから学費を出せ、新発明を事業化するまでの資金を出せ、この手の手紙が毎月何十通と舞い込んでくる。しかも宛名が私である以上、私が読まねばならない。

同じ要求は面会者にもいる。手紙は自分で断り切れないが、面会者には自分でその間違いを説いて断るしかない。他人から見れば馬鹿馬鹿しいことをしているように見えるだろうが、面会お断り、手紙は読まないとなれば、私の普段の主義に反することになる。だからこういうのと付き合うのだ。

それにこういう要求でも道理にかなっていれば、その人のため社会のため、出来る限り力は貸す。後になって間違いだったと思う事もあるが、しかし悪人は必ず悪人で終わるとは限らない。それは善人と同様だ。だから善に導いてやろうと、悪人と知りつつ手を貸すこともあるのだ。

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