『論語と算盤』人生観の両面
現代語訳
人はこの世に生まれた以上、何かの目的を持っており、それが何か、どうやって実現するか、これは人の顔つきが違っているように、各自違うだろうが、恐らく次のように考える人もいるだろう。
つまり自分の得意な手腕や技量を、十分に発揮して力の限りを尽くし、それによって主人や親に忠孝を尽くし、あるいは社会を救済しようと心掛ける。しかし思うだけでは無意味で、何かの形にしなくてはならず、自分の素質に従って、学問や技術を尽くすことになる。
学者なら学者の、宗教家なら宗教家の職務を尽くし、政治家・軍人も能力の限りを尽くして責任を果たす。それを果たす人の心情は、自分のためと言うより社会のためで、自分はそれの下にあると心得ているから、私はこれを客観的人生観と呼ぶ。
これと逆の人生観もあり得る。社会は自分のためにあり、出来る限り利用する。だからこそ自分が借金したなら返済する、税金も自分のために払う。だがそれ以上に社会事業に金を出す必要は無い。社会のためにはなっても、自分のためにはならないからだ。私はこれを主観的人生観と呼ぶ。
後者の主義を押し通すと、国家社会は粗野になり、見識が狭くなって、しまいには救いがたい衰えが来るのではないか。対して前者の主義なら、国家社会は理想に近づくに違いない。だから私は後者を排して、前者の立場に立つのだ。
論語に記した孔子の教えに、「仁者は、自分が立とうとすれば人を立て、自分が成し遂げようとすれば人に成し遂げさせる」とあるが、社会のこと人生のことは、全てこうでなければならない。
この言葉は卑屈に聞こえるけれど、孔子の真意は決してそうではない。立つ、成し遂げる順序を言ったに過ぎないのであって、自分もまた望みを叶えるのだ。これが孔子の覚悟で、私もまた人生の覚悟はこうあるべきだと思う。
『論語と算盤』これは果たして絶望か
現代語訳
私共の組織している帰一協会というのがある。帰一というのは他でもない、世界の各種の宗教観念や信仰などを、統一する事を目的にしている。神と言い仏と言いイエスと言い、人間の行うべき道を説くものだ。東洋と西洋の哲学も、些細な差はあっても、説く道は同じに思う。
論語に「言葉が素直で正直で、行いが慎ましければ、蛮族の国でも通用する」と言い、反対に「言葉が素直でも正直でもなく、行いが慎ましくなければ、中華の中でも通用しない」と言っているのは、これは永遠の格言だ。素直でも慎ましくもない人は、親戚でも嫌がるだろう。
西洋の道徳も同じようなことを説いている。ただ西洋は積極的で、東洋は消極的だ。孔子の教えでは「して欲しくないことは人にするな」と言い、キリスト教では「して欲しいことを人にせよ」と反対のように言うが、主旨は同じで、行き着くところは同じだ。
同じならば互いに入り口を別にして、競り合っているのは馬鹿らしい。全てが同じ所へ行き着く訳ではないだろうが、ある程度同じなら、統一したいという考えで帰一協会を作った。組織してから数年になるが、会員は日本人だけでなく、欧米人も多少はいて互いに研究している。
私は仁義道徳と、生産利殖は一致すべきで、一致させたいと思って提唱し、実践している。しかし道理はその通りでも、これに反する事実がしばしば世間に現れるのは、実に情けない。
私の説に対して平和協会のボール氏とか、井上・塩沢・中島力蔵博士、菊地大麓男爵などは、全く帰一という訳にはいかないが、ある程度は帰一できるという。世の中には悪もあるが、そのために真理の価値が無くなりはしない。私の説に大抵の論客が同意している。
もし私の説が世間で十分に浸透したなら、人後道徳に欠ける行為は自然と止むだろう。役人もそれに気付けば、ワイロを取らなくなるだろう。贈賄する商人も出るまい。
この論語と算盤の関係を進めて、政治・法律・軍事を含め、あらゆる分野を仁義道徳に一致させなければならない。一方が従って他方が従わないなら、効果がないからだ。世の中は車を回すようなもので、互いに仁義道徳を守らないと、必ず引っかかる所が出来てしまう。
だから一切の事柄を仁義道徳と一致させるよう、互いに努めねばならない。この主義を広く社会に広げるなら、ワイロのような忌まわしいことは自然に止むことだろう。
注
思案中
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