『論語と算盤』大丈夫の試金石
現代語訳
真の逆境とはどのような場合をいうのか、実例に照らして一応の説明を試みたいと思う。
そもそも世の中は、順調を保って平穏無事にゆくのが普通のはずだが、水に波動のあるように、空中に風が起こるように、平静な国家社会すらも、時には革命や変乱が起こらないとも限らない。
これは平静無事な時代と比べれば明らかに逆だが、人もこのような変乱の時代に生れ合わせ、心ならずもその渦中に巻き込まれるのは不幸な者で、こういう人が真の逆境に立つというのではないだろうか。
そうなると私もまた、逆境に対処してきた一人だ。私は維新前後の、世の中が最も騒々しかった時代に生まれ合わせ、さまざまの変化に遭遇して今日に至った。振り返ると維新のような世の中の大変化では、どんなに知能がある者でも、また勉強家でも、意外な逆境や順境に立たないとも限らない。
現に私は最初、尊王倒幕・攘夷鎖国を論じて東西に奔走していたが、後には一橋家の家来になり、幕臣になり、さらに民部公子*に随行して仏国に渡航したのだが、帰国してみれば幕府はすでに滅びて、世は帝政に変っていた。この時代の変化はすさまじく、自分にもどうしようもなかった。もしかすると自分に知能が足らなかったのだろうが、勉強の点では自己の力一杯やった積もりで、不足はなかったと思う。
しかし社会の変転、政体の革新に遭遇しては、これはもうどうしようもなく、私は実に逆境の人になって仕舞った。その頃逆境にいて最も困難したことは、今でも記憶している。当時困難した者は私一人だけでなく、相当の人材中に私と同じ境遇の者は沢山あったに違いないが、そうなったのもつまるところ、大変化に際して免れ難い結果だろう。
ただしこんな大波瀾は少ないとしても、時代の推移に伴って、常に人生に小波瀾があることは止むを得ない。従ってその渦中に投げられて、逆境に立つ人も常にあるだろうから、世の中に逆境は絶対に無いと言い切ることは出来ない。
逆境に立つ人にただ一つ出来るのは、逆境の原因を突き詰めて、それが人為的か、あるいは自然的かを区別し、その後で対応策を立てねばならない。
しかし自然的逆境は、一人前の男たる者の試金石でもある。ではその対処はどうか。
神ならぬ身の私に、別に特別の秘訣はない。またおそらく社会にも、その秘訣を知った人はいないと思う。それでも私が逆境に立った時を思い出し、自ら実験した所や道理上から考えると、誰でも自然的逆境に立った場合には、それも自己の人生と覚悟するのが唯一の策と思う。
足るを知って分を守り、どれほど焦っても天命だから仕方がないとあきらめるなら、どんなに対処し難い逆境でも、心は穏やかでいられるに違いない。ところがこれを全て人為的に解釈し、人間の力でどうにかなると考えたら、無駄に苦労の種を増すばかりか、苦労して効果がなく、しまいには疲れ果てて、後日の策を講じることも出来なくなって仕舞うだろう。
だから自然的の逆境に対処するには、まず天命に身を任せ、ゆっくりと来るべき運命を待ちながら、くじけずに勉強するといい。
一方で人為的の逆境に陥った場合は、その多くは自動的だから、何事も自分に省みて悪い点を改めるよりしかない。世の中の事は多く自動的で、自分からこうしたああしたいと努力さえすれば、大概は思うままになるものである。
ところが多くの人は、自ら幸福の運命を招こうとはせず、逆に自分からほとんど故意にねじけた人になって、逆境を招くような事をして仕舞う。それでは順境に立ちたい、幸福な生涯を送りたいと願っても、得られるはずが無いではないか。
注
民部公子:徳川昭武(とくがわ あきたけ)。嘉永6年(1853年)-明治43年(1910年)。清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。慶応2年(1867年)、時の将軍・徳川慶喜の名代として第二帝政期のフランスに派遣され、パリ万国博覧会を見学した。
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