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論語と算盤・現代語訳(12)立志と学問1

『論語と算盤』精神老衰の予防法

論語と算盤 精神の老衰防止法 銀座

現代語訳

以前交換教授として米国より来日されたメービー博士*が、任期を終えた帰国されるに際し、真心を傾けて私に語られたさまざまな談話の中に、下のような評がある―。

私は初めて貴国に来たから、総てのものが珍しく感じた。いかにも新興国と見える所は、上級の人も下層の人も、みな勤勉で、怠けている者が非常に少ない。その勤勉や勉強も、いかにも希望を持ちながら愉快に学んでいるように見える。

希望を持つと言ったのは、どこまでも発展しようとする意志を感じたからで、ほんとど全ての人が喜びと共に、希望の岸に達しようと努力するように見えたのは、一層の進歩の資質を持った国民と申し上げていいと思う。

そこは賞賛するけれども、いいことばかり言って、悪い批評を言わねば、へつらいと見なされるといやだから、思った事を無遠慮に言うと、私の接触したのが官庁とか会社とか学校だったから、余計にそう見えたのかも知れないが、何かと形式を重んじる悪習があって、事実よりは形式に重きを置く性質が強く見える。

アメリカは最も形式を気にしない国だから、その目から特に際立って見えるのかも知れないが、少しばかり形式にこだわりすぎるのではないか。全体の国民性がそうなら、これはよほど注意しなければならないと思う。

またどこの国でも、皆が同じ考えを持ちはしない。一人が右といえば一人は左という、進歩党があれば保守党がある。政党は時に互いに反目するが、それが欧米であれば淡泊で高尚だ。

ところが日本のは淡泊でもなければ高尚でもない。悪く言えば非常に下品で執拗である。何でもない事柄までも、酷く口汚く言いつのるように見える。これはは自分の見た時期が悪かったから、政界で特にそういう現象が見えたのでしょうが。

―そして彼はこれを解釈して、日本は封建制度が長く続いて、小さい藩まで互いに反目して、右が強くなれば左が、左が盛んになれば右が攻撃する。これがとうとう習い性になったのだろうと。彼はそうまでは言わなかったが、元亀天正以来の戦国大名が、のちに三百諸侯となったのだから、互いに争い憎むという悪習がなにかと残っていて、温和の性質が乏しいのではないか。これが段々激しくなると、ついには党派の軋轢が激しくなりはしないかという意味だった。

私もこの封建制度を引きずった悪習はあるいはそうだろうと思う。実際例えば、水戸などが大人物の出た藩でありながら、かえってそのために軋轢を生んで衰微した。もし藤田東湖・戸田銀次郎・会沢恒蔵*のような、また藩主の烈公*のような偉人がいなかったなら、こうも争いばかりせず衰微もしなかっただろう、と論じなければならないから、私はメービー氏の説に大いに耳を傾けた。

それからまた、我が国民性の感情の強さについても、あまり賛辞を言わなかった。日本人は細事にもすぐに激高する、そしてすぐに忘れる、つまり感情が急激で、また健忘症である。これは一等国だ大国民だと自慢なさる人柄としては、非常に不適当である。もう少し堪忍の心を持つように修養せねばなるまい、という意味だった。

さらに畏れ多いことであるが、国体論にまで立入って、彼はその忠言を進めて、実に日本は聞く勝った忠君の心の深さ、アメリカ人などには夢想も出来ない、実に羨ましいことだと敬服する。こんな国は決して他にないだろう。前からそう思ってはいたが、実地を目撃して実に感服した。だが私として無遠慮に言わせるなら、これを永久に持続するには、将来は君権をなるべく民政と関わらせないのが肝要ではあるまいかと言われた。

この話は我々当否を言うべきことではない。しかしこの抽象的な評は、ばっさり切り捨てるものではないと思ったので、いかにも親切のお言葉は私だけに承った、と答えて置いた。

その他にも談話の数々はあったが、最後に滞在中の優遇を感謝して、半年の間率直に自分の思うことを述べて、各学校で学生やその他の人々に、親切にされたことを深く喜ぶと言っておられた。

アメリカの学者の一人が、こう日本を観察したからと言っても、それが大いに日本の利益になるとは限らないが、前にも言ったように、公平な外国人の批評を鏡としてよく注意し、大国民にふさわしい寛容さを高めねばならない。

こうして段々に反省し、最後には真正の大国民になる。しかし反対に困った人民だ、こんな不都合があるという批評が重なれば、人が交際しない、相手にしない結果になるかも知れない。

だから一人の評語はどうでもいいとは言えない。丁度「君子の資格は妄想を言わないことから始まる」と司馬温公*が戒めたように、無意識に妄想を言うようでは、君子として人に尊敬されるようにはならない。

して見ると一回の行為が一生の評価を決めるように、一人の感想が一国の名誉に関わると考えるべきだ。メービー氏が以上のように感じて帰国したのは、些細なことではあるけれが、やはり小事と見な方がいい。

メービー氏の評論を元に、お互いに平素からどこまでも刻苦励精して、今日までに進んだ国運をさらに拡張させたいと思うが、それについて付け足したいのは、近頃は青年青年と言って、青年説が大変に多いことだ。

青年が大事だ、青年に注意しなければならないというのは、私も同意する。しかし私の立場から言うと、老年も大切である。老人はどうでもいいと言うなら、考え違いではないか。

以前別の会合の時にも言ったが、自分は文明の老人であることを希望する。実際時分がそうなのか、世評はどうか知らないが、自分では文明の老人の積りだ。しかし諸君が見たら、ひょっとすると野蛮の老人かも知れない。

いろいろ考えると、私の青年の時分と比べ、今は青年が事務に就く年齢が非常に遅い。まるで日の出がずいぶん遅くなっているようなものだ。それで早く老衰して隠居すると、活動の時間が大層少なくなってしまう。

例えば一人の学生が三十歳まで、学問のために時を費やすとしようか。すると少なくとも七十位までは働かねばならない。これがもし五十や五十五で老衰するなら、わずか二十年か二十五年しか働く時はない。非凡の人なら、百年の仕事を十年の間になし遂げるかも知れないが、大多数の普通人には、そういう例外を当てるわけにいかない。

まして社会の事物がますます複雑化している現在なら、なおさらだ。ただし各種の学芸技術が段々進化するから、幸運にも博士方の新発明で、年取っても一向に衰弱しないとか、または若いうちに満足な知恵を持つように、馬車より自動車、自動車より飛行機で世界を狭くするように、人間の活動を今日より大いに強めて、赤ん坊がすぐに役立つ人となって、そうして死ぬまで活動するという工夫が付けば、これは何よりである。どうぞ田中舘先生*などに、その御発明を願いたいものだ。

それまでの間は、年寄がやはり十分に働くことを心掛ける外ないだろう。そして文明の老人であるためには、身体は衰弱しても、精神が衰弱しないようにしたい。それには学問するほかない。常に学問を進めて時代に後れぬ人なら、いつまでも精神に老衰はないだろう。だから私はただの肉塊でいたくないので、身体が世に在る限りは、どうか精神も存在させたいと思う。

メービー博士:ハミルトン・W・メービー。大正元年来日。

藤田東湖:文化3年(1806年)-安政2年(1855年)。幕末の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。徳川斉昭の腹心。安政の大地震に遭い死去。

戸田銀次郎:戸田忠太夫。文化元年〈1804年〉-安政2年〈1855年)。幕末の水戸藩士、徳川斉昭の腹心。安政の大地震に遭い死去。

会沢恒蔵:会沢正志斎。天明2年(1782年)-文久3年(1863年)。幕末の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。徳川斉昭の腹心。

烈公:徳川斉昭。寛政12年(1800年)-万延元年(1860年)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父。

司馬温公:司馬光。1019-1086。北宋時代の学者・政治家。『資治通鑑』の編者。

田中舘先生:田中舘愛橘? 安政3年(1856年)- 昭和27年(1952年)。日本の地球物理学者。東京帝国大学名誉教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者。

『論語と算盤』現代語訳
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