論語と算盤・現代語訳(41)理想と迷信4

『論語と算盤』日に新たなるを要す

書経図説 湯徳日新図

現代語訳

社会は時と共に進歩し、学問もまた同様だ。しかし世間も長くなると、長所が却って短所となり、弊害が生まれるのを避けがたい。特に因襲が染みついてしまうと、活力が無くなる。

だから古人は言った。殷の湯王の銘文に「まことに日に新たなり、日に日に新たにして、また日に新たなり」とある。全て形式主義になると精神がしぼむから、日に改める心が必要だ。

今日の政界の動きが鈍いのは、手続きがややこしいからだ。官吏も形式主義で、機械的に仕事をしている。官吏ばかりではない。民間の会社や銀行にも、この悪習が吹き込んでいる。新興国に形式主義は少なく、古い国に多い。幕府が亡んだのもそのためだ。中国の史書に「六国を滅ぼすは六国なり、秦にあらざるなり」というが、幕府を滅ぼしたのは幕府だった。

私は宗教を持たないが、だからといって信条がない訳ではない。私は儒教を言行の基準にしている。「罪を天に得れば祈る所無し」*である。しかし私一人はこれでいいが、一般民衆はこうはいかない。知識の程度が低い者には、やはり宗教が必要だ。

ところが現在の状況は、人々の心が一つに帰る場所が無く、宗教も形式主義で、まるでお茶の流儀のようで、民衆を教化することをしない。これは何とかしなければならない。現在は迷信も盛んで、田を流した倉を無くしたという話が多い。宗教家はまじめに教えねばならない。西洋人は「信念が強ければ道徳は要らない」という。その信念を持たせねばならない。

商売は自分の利益を図るものだから、他人はどうなってもいいと思う人が多い。だから利殖と道徳は一致しないという人がいるが、これは間違いだ。維新まで武士は商売をしないもので、それは卑しい人間のすることだった。その悪習慣はまだ続いている。

孟子は、利殖と道徳は一致すると説いた。後の儒者が両者を引き離してしまった。仁義をなせば富貴に遠く、富貴なら仁義に遠ざかるものだとしてしまった。商人は町人と卑しめられ、武士が共に生きるべきでないとされたので、商人も卑屈になって儲け主義になってしまった。

このせいで経済界の進歩が何百年後れたか分からない。現在では消滅しつつあるが、まだ不足だ。利殖と道義は一致すると教えたい。だから私は論語と算盤を言うのだ。

罪を天に得れば:論語八佾篇の言葉。

王孫が問うて言った。「奥座敷の神に媚びるより、むしろかまどの神に媚びろと言います。どういう意味でしょう。」先生が言った。「そうではありません。罪を天の神に責められれば、祈る所がありません。」

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