論語と算盤・現代語訳(13)立志と学問2

『論語と算盤』現在に働け

論語と算盤 現代に働け

現代語訳

徳川時代の末でも、積み重なった悪習のせいで、一般の商工業者に対する教育と武士教育とは全く区別されていた。そして武士はみな、身を修め家を整える儒学の教えを基本として、自分を修養するだけでなく、他人をも治めるという主義で、全て経世済民*を主眼にしていた。

農工の教育は、他人を治め国家をどうするかの教育ではなく、身近な実用教育だった。当時に武士的教育を受ける人は非常に少ないので、全て教育は寺子屋式で、寺の和尚さんか富豪の老人などが教育してくれた。農工商の生活はほぼ国内だけで完結し、海外には全く関係が無かったから、農工商の人には低級な教育で足りたのだった。

加えて主な商品は、幕府や諸藩が運送、販売等の仕組みを握っていたので、農工商民の関わる分野は実に狭かった。つまり当時の平民は一種の道具だった。甚しくは武士は無礼打ち、切り捨て御免という残酷な特権があり、野蛮極まる行為を平気でやっていた*。

この状況が嘉永・安政頃になると、自然に一般の空気に変化を起して、経世済民の学問を受けた武士は、尊王攘夷を唱えて遂に維新の大改革を達成した。

私は維新後間もなく大蔵省の役人になったが、当時の日本には物質的・科学的教育はほぼ無いと言ってよかった。武士的教育には色々高尚なものがあったが、農工商にはほぼ学問はなかった。のみならず、明治初期の普通教育は低級で、多くは政治教育で、海外交通が開けても、それに対する知識が無かった。

どんなに国を富まそうと思っても、それに対する知識などは更にない。一橋の高等商業学校(現一橋大学)は明治七年に出来たが、何度か廃校されそうになった。これは当時の人が、商人などに高い知識などは要らないと思っていたからだ。

私などは海外と交渉するには、どうしても科学的知識が必要であると、声をからして叫んだが、幸いにも追々その機運が起って、明治十七八年にはこうした傾向が盛んになって、間もなく才能学識ともに備わった人が輩出するに至った。

それから以後今日まで、僅か三四十年の短い年月に、日本も外国に劣らないほど物質的文明が進歩したが、その間には大きな弊害を生じた。徳川三百年間を太平に治めた武断政治は、弊害を他に及ぼしたことは明らかだが、その代わりこの時代に教育された武士の中には、高尚遠大な人格の人も少なくはなかった。

ところが現代の人にはそれがない。富は積み重なっても、哀しいかな武士道とか、あるいは仁義道徳というものが、綺麗さっぱり消えたと言っていいと思う。つまり精神教育が全く衰えてしまった。

我々も明治六年から物質的文明に微弱ながら全力を注ぎ、今日では幸いにも有力な実業家を全国至る所で見るようになり、国の富も非常に増した。けれども誰も気付かないが、人格は維新前より退歩したと思う。いや、退歩どころではない、消滅しないかと心配している。だから物質的文明が進んだ結果は、精神の進歩を害したと思う。

私は常に、精神の向上と富とは共に進めることが必要であると信じている。人はこの点で、強い信仰を持たねばならない。私は農家に生まれたから教育も低かったが、幸いにも漢学を修める事が出来たので、ここから一種の信仰を得た。

私は極楽も地獄も心に掛けない。ただ現在正しいことを行ったなら、人として立派だと信じている。

経世済民:世間を経営し民を救う。政治経済学。

無礼打、切捨御免:現在ではほぼ否定されている。

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