論語と算盤・現代語訳(45)人格と修養1

『論語と算盤』楽翁公*の幼時

論語と算盤 松平定信

現代語訳

楽翁公の伝記は広く知られているから今さら言うまでもないが、ここで言うのは公の御自筆で、松平家の秘書『撥雲筆録』によって、公の幼少時を窺うと同時に、そのご人格ご精神の非凡な理由を紹介しようと思う。

六歳で大病にかかり、生き延びられるとも思えなかったが、高島朔庵法眼など多くのお医者が集って治した。九月に治った。七つの頃だったか、『孝経』を読もうとして仮名などを習った。八つ九つの頃、人々が頭がいいと言って褒めたので、私は当然だと思ったのが今となっては恥ずかしい。

これはお利口お利口と褒められて天狗になったをの恥じたのだ。はなはだ奥ゆかしいお心である。

その後『大学』などを習っていた頃、全然頭に入らないので、人が褒めたのはお世辞で、実は頭が悪いのだと九つの頃思った。となれば幼少の時に褒めるのはよろしくない。十代になって、名前を後世まで残し、日本中国に轟かせようなどと思うのは、大志のようで実はバカげた話なのだ。

ここから見ると、十代で日本中国に名を轟かせようとしたとは、実に非凡だ。しかしご自身では、バカげた話だと斬って捨てて謙遜している。

その頃から『大学』などをたくさん筆写して、求める人に呉れてやった。求めると言ってもそれはへつらいだから、頼まれたからと言ってハイハイと書いたのは、今思えばバカのすることだった。

私なども時々字を書かされるが、あるいは楽翁公がここにお書きになったような事情かも知れない。

十二歳の頃、ラノベやポエムが書きたくなって俗な本を買いあさり、『大学』をパクって人へ説教するタネ本を書こうとしたが、そもそも経典が覚わらないほど頭が悪いのに、俗な本は大量にあるしデタラメばかりと聞いたのでやめた。

もう十二歳の頃から著述をして人の教えになろうとしたのだが、根本の儒教経典が覚えられないのに、通俗書は事実でないことがあるから、読者を思いやっておやめになったのである。

今思えばお偉い先生の教えを受けていたので、うそデタラメが頭に入らなかったのは幸いである。この頃から和歌も詠んだが、どれも出来が悪くて古歌も覚わらず、師匠もいなかったのでむやみに詠んではゴミの山を造った。鈴鹿山の花の頃、旅人の行き交う様子を歌にした。
「鈴鹿山 旅路の宿は遠けれど 振り捨てがたき花の木の下」
たしか十一頃の歌だったと思う。

わずか十一歳ですでにこのような詩をお詠みになったのは、文芸の上でも天才であらせられたように思う。

十二歳の時、『自教鑑』という本を書いた。大塚氏に添削を求めたが、自著の中では出来がいい。今もある。それを清書したのは明和七年と書いてあるが五年の頃から清書した。父上がお喜びになって『史記』を下された。今も蔵書にしている。十一か二の時に漢詩を作りだしたが、平仄も合っておらず人にも言えない出来だったがここに書いてやろう。
虹晴清夕気 雨歇散秋陰
流水琴事響 遠山薫色深
…どうだまいったか。また七夕の漢詩に、
七夕雲霧散 織女渡銀河
秋風鵲橋上 今夢莫揚波
と詠んだのも、多くの師匠の添削を受けたからこのように書けた。

これで見ると楽翁公は生まれつき多芸で、少年の頃からよほど優れたお人のようだ。『自教鑑』は公の蔵書にあるが、自分の身を修めることを自分で戒めた書で、あまり長くなかったように記憶している。また楽翁公ははなはだ優しい性格だったが、田沼意次をひどく憎んだ。

これでは幕府が倒れると思って、田沼を殺すしかないと思い詰めたことがこの本に書いてある。元来温厚で思慮深い人だったが、ある点では精神に非常に鋭い所があったのだろう。その本を続けて読むと、ヒステリーを起こして家来にたしなめられた話がある。

明和八年、十四になったが、この頃より短気になって、些細なことでも真っ赤になって癇癪を起こした。特に大塚孝綽からはよく諌められた。水野為長も常に諌めて、言われるとそうだと思ったが、癇癪を起こすと止まらない。そこで床の間に太公望の釣りの絵を掛けた。
一日でも癇癪を起こさない日があればと思ったが、とうとうできずじまいで、十八になってやっと癇癪を押さえるすべを身につけたが、それは全く家来が諌めたからだ。

こうして見ると、このお方は天才で、ある点では非常に感情的だったが、同時に精神修養に努力されて、ついに楽翁公らしい人格をお築きになったのである。

 論語と算盤 松平定信
*楽翁公:松平定信。1759-1829。うつろな目をした江戸後半の大名で筆頭老中でサ●゛ィスト。寛政の改革の首謀者。狂信的に風俗を取り締まり思想を弾圧し蘭学を潰し、庶民の箸の上げ下ろしにまでうるさく口を出し、楯突く者は左遷し密かに批判する者も四に追い込んだ。

全く現実に合わない経済縮小政策を強行したため、景気が一挙に冷え込み失業者爆増農村荒廃、誰からも嫌われた。密偵やチクリ業者を市中に放って片っ端から没収した絵魯本を自家に蓄え、自分だけこっそり楽しんだ。全て事実である。ウソだと思うなら調べてみるといい。

庶民を路頭に迷わせた為政者は暴君で、それを趣味でやった者は木地害だ。

なお引用の漢詩だが、時代背景を考えれば十二の子供が詠んだポエムとしては月並み以下で、語彙がはなはだ貧弱。『詩経』や『楚辞』は無理にしても、『白氏文集』や『唐詩選』すら読んでいないのだろうか? だとするならとんでもない蛮勇。止めろよ、家来。

定信が詠んだご自慢の漢詩をんでみよう。

晴れました。虹が架かりました。夕方の空気がすがすがしいです。
雨が止みました。秋の日陰に散りました。
流れる水の音がします。琴のように響いています。
遠い山の色が、匂うように深いです。
七夕です。雲や霧は散りました。織女が銀河を渡ります。
秋の風です。橋の上にかささぎが止まっています。
今夢の中です。波のうねりはありません。
パチパチパチ。よくできまちたー。織女さん眠りこけて流されないようにねー。

徳川一門の御曹司として漢学の教育を受けたのなら、もう少しひねりがあってもいいと思う。もっとも、江戸時代の漢学教育などしょせんその程度のものだったという証拠でもあり、江戸儒者の怠惰とでたらめが、論語を読むにあたってほとんど役立たずなのも当然かも知れない。

なお渋沢翁が正信を持ち上げるのは江戸時代に教育を受けた人だからで、維新後どころか訳者が大学に入る頃までは正信は名臣として教科書に扱われていた。本当はこの人ヘンなのではないかという意見が多数を占めるようになったのは、やっと平成に入った頃のことである。

教育界は改革が最も遅れる。教育官庁や学校現場に頭のアレな人が巣食っておかしなことを子供に教えるのは、どこかよその国だけの話ではない。訳者はかつて文科省にも仕事で出入りしていたが、事情は同じだった。世の親御さん方は重々注意なさるようにおすすめしたい。

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