『論語と算盤』楽翁公*の幼時
現代語訳
楽翁公の伝記は広く知られているから今さら言うまでもないが、ここで言うのは公の御自筆で、松平家の秘書『撥雲筆録』によって、公の幼少時を窺うと同時に、そのご人格ご精神の非凡な理由を紹介しようと思う。
これはお利口お利口と褒められて天狗になったをの恥じたのだ。はなはだ奥ゆかしいお心である。
ここから見ると、十代で日本中国に名を轟かせようとしたとは、実に非凡だ。しかしご自身では、バカげた話だと斬って捨てて謙遜している。
私なども時々字を書かされるが、あるいは楽翁公がここにお書きになったような事情かも知れない。
もう十二歳の頃から著述をして人の教えになろうとしたのだが、根本の儒教経典が覚えられないのに、通俗書は事実でないことがあるから、読者を思いやっておやめになったのである。
「鈴鹿山 旅路の宿は遠けれど 振り捨てがたき花の木の下」
たしか十一頃の歌だったと思う。
わずか十一歳ですでにこのような詩をお詠みになったのは、文芸の上でも天才であらせられたように思う。
虹晴清夕気 雨歇散秋陰
流水琴事響 遠山薫色深
…どうだまいったか。また七夕の漢詩に、
七夕雲霧散 織女渡銀河
秋風鵲橋上 今夢莫揚波
と詠んだのも、多くの師匠の添削を受けたからこのように書けた。
これで見ると楽翁公は生まれつき多芸で、少年の頃からよほど優れたお人のようだ。『自教鑑』は公の蔵書にあるが、自分の身を修めることを自分で戒めた書で、あまり長くなかったように記憶している。また楽翁公ははなはだ優しい性格だったが、田沼意次をひどく憎んだ。
これでは幕府が倒れると思って、田沼を殺すしかないと思い詰めたことがこの本に書いてある。元来温厚で思慮深い人だったが、ある点では精神に非常に鋭い所があったのだろう。その本を続けて読むと、ヒステリーを起こして家来にたしなめられた話がある。
一日でも癇癪を起こさない日があればと思ったが、とうとうできずじまいで、十八になってやっと癇癪を押さえるすべを身につけたが、それは全く家来が諌めたからだ。
こうして見ると、このお方は天才で、ある点では非常に感情的だったが、同時に精神修養に努力されて、ついに楽翁公らしい人格をお築きになったのである。
注
*楽翁公:松平定信。1759-1829。うつろな目をした江戸後半の大名で筆頭老中でサ●゛ィスト。寛政の改革の首謀者。狂信的に風俗を取り締まり思想を弾圧し蘭学を潰し、庶民の箸の上げ下ろしにまでうるさく口を出し、楯突く者は左遷し密かに批判する者も四に追い込んだ。
全く現実に合わない経済縮小政策を強行したため、景気が一挙に冷え込み失業者爆増農村荒廃、誰からも嫌われた。密偵やチクリ業者を市中に放って片っ端から没収した絵魯本を自家に蓄え、自分だけこっそり楽しんだ。全て事実である。ウソだと思うなら調べてみるといい。
庶民を路頭に迷わせた為政者は暴君で、それを趣味でやった者は木地害だ。
なお引用の漢詩だが、時代背景を考えれば十二の子供が詠んだポエムとしては月並み以下で、語彙がはなはだ貧弱。『詩経』や『楚辞』は無理にしても、『白氏文集』や『唐詩選』すら読んでいないのだろうか? だとするならとんでもない蛮勇。止めろよ、家来。
定信が詠んだご自慢の漢詩を訓んでみよう。
雨が止みました。秋の日陰に散りました。
流れる水の音がします。琴のように響いています。
遠い山の色が、匂うように深いです。
秋の風です。橋の上に鵲が止まっています。
今夢の中です。波のうねりはありません。
徳川一門の御曹司として漢学の教育を受けたのなら、もう少しひねりがあってもいいと思う。もっとも、江戸時代の漢学教育などしょせんその程度のものだったという証拠でもあり、江戸儒者の怠惰とでたらめが、論語を読むにあたってほとんど役立たずなのも当然かも知れない。
なお渋沢翁が正信を持ち上げるのは江戸時代に教育を受けた人だからで、維新後どころか訳者が大学に入る頃までは正信は名臣として教科書に扱われていた。本当はこの人ヘンなのではないかという意見が多数を占めるようになったのは、やっと平成に入った頃のことである。
教育界は改革が最も遅れる。教育官庁や学校現場に頭のアレな人が巣食っておかしなことを子供に教えるのは、どこかよその国だけの話ではない。訳者はかつて文科省にも仕事で出入りしていたが、事情は同じだった。世の親御さん方は重々注意なさるようにおすすめしたい。
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