論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
端木賜子貢(たんぼくし・しこう)その六
子貢因去之晉,謂晉君曰:「臣聞之,慮不先定不可以應卒,兵不先辨不可以勝敵。今夫齊與吳將戰,彼戰而不勝,越亂之必矣;與齊戰而勝,必以其兵臨晉。」晉君大恐,曰:「為之柰何?」子貢曰:「修兵休卒以待之。」晉君許諾。
子貢、因りて去り晋に之き、晋君に謂いて曰く、「臣、之を聞く、慮り先ず定まらざれば以て卒に應ず可からず。兵先ず辧ぜざれば以て敵に勝つ可からず、と。今、夫れ斉と呉とは将に戦わんとす。彼戦いて勝たざれば、越、之を乱さんこと必せり。斉と戦いて勝たば、必ず其の兵を以て晋に臨まん。」晋君、大いに怒り、曰く、「之を為すこと奈何せん。」子貢曰く、「兵(武器)を修め卒を休め以て之を待て。」晋君、許諾す。
そういうわけで子貢は呉を去って晋に行き、晋君に言った。
「私めはこう聞いています。あらかじめ想定しておかないと、急な出来事には対応できず、兵を先ず整えておかなければ、敵に勝つことは出来ない、と。今まさに斉と呉が戦おうとしています。呉が勝たなければ、越が呉を乱すのは間違いありません。斉に勝てば、間違いなく晋めがけて進軍してきます。」
晋の国君は大いに怒って言った。「どうすればいい。」
子貢「武器を手入れし、兵を休養させ、時を待って下さい。」
晋の国君は子貢の提言を受け入れた。
子貢去而之魯。吳王果與齊人戰於艾陵,大破齊師,獲七將軍之兵而不歸,果以兵臨晉,與晉人相遇黃池之上。吳晉爭彊。晉人擊之,大敗吳師。越王聞之,涉江襲吳,去城七里而軍。吳王聞之,去晉而歸,與越戰於五湖。三戰不勝,城門不守,越遂圍王宮,殺夫差而戮其相。破吳三年,東向而霸。
子貢去りて魯に之く。呉王果たして斉人と艾陵に戦い、大いに斉の師を破り、七将軍の兵を獲て帰らず、果たして兵を以て晋に臨み、晋人と黄池の上に相い遇う。呉・晋、彊きを争う。晋人、之を撃ち、大いに呉の師を敗る。越王、之を聞き、江を渉りて呉を襲い、城を去ること七里にして軍す。呉王、之を聞き、晋を去りて帰り、越と五湖に戦う。三たび戦いて勝たず、城門守らず、越遂に王宮を囲み、夫差を殺して其の相を戮す。呉を破りて三年、東に向かいて覇たり。
子貢は晋を去って魯に向かった。呉王は果たして斉と艾陵で戦い、大いに斉軍を破り、将軍の首七つを得たがそれでも帰らず、果たして兵を連れたまま晋に向かい、晋軍と黄池のほとりで向かい合った。呉と晋は強さを競い、晋軍が呉軍を攻撃し、大いに呉軍を破った。
越王はこれを聞いて、長江を渡って呉の留守を襲い、呉の都城から七里の近くまで進軍した。呉王はこれを聞いて、晋を去って帰り、越と越と五湖で戦った。しかし三度戦ったが勝てず、城門を守り切れず、越はとうとう呉の王宮を囲み、夫差を殺してその家臣を殺した。そして呉を破って三年後、中国東岸の強国として覇者となった。
故子貢一出,存魯,亂齊,破吳,彊晉而霸越。子貢一使,使勢相破,十年之中,五國各有變。
子貢好廢舉,與時轉貨貲。喜揚人之美,不能匿人之過。常相魯衛,家累千金,卒終于齊。
子貢好廢舉,與時轉貨貲。喜揚人之美,不能匿人之過。常相魯衛,家累千金,卒終于齊。
故に子貢、一たび出でて、魯を存し、斉を乱し、呉を破り、晋を彊くして越を覇とす。子貢、一たび使いして、勢いをして相い破らしむ。十年の中に、五国各々変有り。子貢、廃挙を好み、時と與に貨貲を転ず。喜(この)んで人の美を揚げ、人の過ちを匿すこと能わず。常に魯・衛に相たり。家千金を累ね、卒に斉に終わる。
こうして子貢がひとたび遊説の旅に出ると、魯は生き残り、斉は乱れ、呉は破れ、晋は強くなり、越は覇王になった。子貢は一回の説得で、時の勢いを互いに共食いさせた。たったの十年間で、五つの国ががらりと変わった。
子貢は価格の変動を好み、時が経つにつれて財産を増やした。好きこのんで人の美点を言い上げたが、悪口も相応に言った。そして魯と衛ではずっと家老格で、屋敷には千金を積み重ね、最後は斉で生涯を終えた。
詳細は論語の人物:端木賜子貢を参照。
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