法
学研漢和大字典
音 pıuǎp – pıuʌp – fa – fa〔fǎ〕。「水+廌(しかと馬に似た珍しい獣)+去(ひっこめる)」の会意文字で、池の中の島に珍獣をおしこめて、外に出られなうようにしたさま。珍獣はそのわくのなかでは自由だが、そのわく外には出られない。ひろくそのような、生活にはめられたわくをいう。その語尾がmに転じたのが範(bıǎm)で、これもわくのこと。▽促音語尾のpがtに転じた場合は「ホッ」「ハッ」と読む。規はコンパスのことで、きまった標準。律は、即(くっつく)と同系のことばで、いつもそれにくっついて離れてはならないきまりのこと。
字通
正字は灋に作り、水+廌(たい)+去。廌は神判に用いる神羊で解廌(かいたい)、また獬豸(かいち)と呼ばれる獣の形。去は大+𠙴(きょ)の会意字で、大は人、𠙴は獄訟のとき自己詛盟した盟器の器の、蓋を取り去った形。敗訴者の盟誓は、虚偽として蓋を取り去って無効とされ、その人(大)と、また解廌もともに水に投棄され、全て廃される。金文に「朕(わ)が命を灋(はい)(廃)すること勿(なか)れ」のように、灋を廃の意に用いる。法はその廌を省いた簡略字である。〔説文〕十上に「𠜚(刑)なり。之を平らかにすること水の如し。水に従ふ。廌は不直なる者に觸れて之れを去らしむる所以なり。廌去に従ふ」(段注本)とするが、去は敗訴者である。灋字の構造は、古代における神判の方法を示すもので、「大祓(おおはらえ)」の方法と似ている。春秋のとき、伍子胥(ごししょ)が呉王夫差を諌めて、鴟夷(しい)(皮袋)に包んで海に投げ込まれた話、越王に仕えた范蠡(はんれい)が、亡命して海上に逃れるとき、自ら鴟夷子皮と名を改めた話、孔子が斉を去るとき、世話になった田常の門に鴟夷を立てて去った話などがあり、その鴟夷は法による廃棄、また自己投棄、すなわち亡命を示す方法であった。のち法は刑法・法制の意となり、法式・法術の意となる。
訓義:のり、処刑として廃棄する、しおき、刑法。のっとる、規範とする、典則とする、つね、みち。ならう、かたどる、まもる。てだて、しかた、方法。かた、さだめ。
巽
学研漢和大字典
会意文字で、原字は「人二人+台を示すしるし」で、物をきちんとそろえて台上に供えるさま。饌(セン)の原字。一般には、遜(ソン)に当て、柔軟にへりくだる意に用いる、という。
意味:
- {名詞}周易の八卦(ハッカ)の一つ。陦の形であらわし、表面が強いのに中の柔順な意を含み、風に当てる。また、六十四卦の一つ。陦陦(巽下巽上(ソンカソンショウ))の形で、柔順なさまを示す。
- {名詞}たつみ。南東の方角。
- {動詞}へりくだる。小さくなって遠慮する。《同義語》⇒遜。「巽与(ソンヨ)」。
- {動詞}食事をそろえて供える。《同義語》⇒饌(セン)。
字通
(ソン)+丌(き)。丌は神殿の前の舞台。は二人並んで舞楽する形。並んで舞楽し、その舞楽を以て神に献ずる意で、撰の初文。〔説文〕五上に「具(そな)はるなり」とし、声とする。については〔説文〕九上に「二卪(せつ)なり。巽は此れに従ふ。闕」とし、その形義について説くところがない。丌上に二人舞楽して供するので、そのことを撰、舞人を僎、舞容を(選選)、膳羞を供えることを饌という。〔易、巽〕にみえる巽(そん)順*は、字の本義ではなく、遜(そん)(ゆずる)と通仮してその義を用いるものであろう。
訓義:そなえる、神前にそなえる、神前に舞楽する。ふむ、ちらす。遜と通じ、したがう、つつしむ、うやうやしい。八卦の一。方位において、たつみ(東南)にあたる。
*易の巽(ソン)の形(☴)。含意は風。天と雲の下にあって流動する。方角南東たつみ。性入る。
論語集注
法語者,正言之也。巽言者,婉而導之也。繹,尋其緒也。法言人所敬憚,故必從;然不改,則面從而已。巽言無所乖忤,故必說;然不繹,則又不足以知其微意之所在也。楊氏曰:「法言,若孟子論行王政之類是也。巽言,若其論好貨好色之類是也。語之而未達,拒之而不受,猶之可也。其或喻焉,則尚庶幾其能改繹矣。從且說矣,而不改繹焉,則是終不改繹也已,雖聖人其如之何哉?」
法語は、正しき言これ也。巽言は、婉(とおまわ)しにして之を導びく也。繹は、その緒(はじめ)を尋ぬる也。法言は人の敬み憚(はばか)る所にて、故に必ず従う。然りて改めざるは、則ち面(おもて)に従うのみ。巽言は乖(はな)れ忤(もと)る所無し。故に必ず説く。然りて繹(よろこ)ばざるは、則ち又たを以て其の微意の所在を知るに足らざる也。楊氏曰く、「法言は、孟子の論じ行う王政の若き類これ也。巽言は、其れ貨を好み色を好むを論じるが若きの類これ也。之を語りて未だ達せず、之を拒みて受けざるは、猶おこれ可也。其れ或いは喻(たと)えんか、則ち尙びてその能く改め繹ぶに庶幾(ちか)からん。従い且つ説(よろこ)びて、して改め繹ばざらば、則ち是れ終に改め繹ばずして已む。聖人と雖も其れ之を如何せんや」と。
法語とは、正しい言葉を言う。巽言は、遠回しに言って導く言葉である。繹は、その元の意味をたずねることである。法語は人が慎み触れるのを恐れるので、必ず従う。それなのに改めないのは、聞いたふりだけをしているのである。
巽言は聞き手の意に沿わず、逆らうことがない。だから説諭には必ず用いるのである。それなのに喜ばないのは、遠回しに言った真意を理解できないのである。
楊氏曰く、「法言は、孟子が論じて実行しようとした、王者の政治のようなものだ。巽言は、財産や色事についてべらべらしゃべるような言い方のようなものだ。そこまでしてやっても分からず、受け付けずに従わないのは、十分あり得ることだ。
このようにたとえ話で教えてやって、話を尊んで聴くなら、自分を改めて、話を喜ぶことに近いだろう。しかしはいはいと嬉しそうに聞き、しかも改めない者は、結局改めるのもイヤだし、話を喜んでもいないのだ。聖人だろうと、救いようがない。」と。
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