論語泰伯篇に見る孔子一門の暗躍
論語の現代語訳を一旦終え、再度細かく訳す作業も泰伯篇まで来た。速読向けの速訳をして気付いたのだが、泰伯篇からぼんやり者の曽子の言葉を省くと、孔子が呉国の誰かを応接している話として理解できる。当時の呉は国王夫差のもと、日の出の勢いで覇を唱えていた。
政治革命を目指す孔子とその一門にとって、呉国は是非味方に取り込みたかったのだろう。既存の古い諸侯国では孔子の政治論を受け入れる国はなく、そこへ行くと新興の呉国は既存国のようなしがらみがなく、孔子の意見を取り入れる余地があり、なにより軍事大国だった。
事の起こりは南方の大国・楚の内紛で、一族を殺された楚の貴族・伍子胥(ゴシショ)が復讐の鬼となって呉国に亡命し、未開だった呉国に政治軍事の策を授け、遂には一旦楚を滅ぼすに至る。そして呉の宿敵・越も、すでに打ち破って属国にしていた。
呉王夫差はそれに飽きたらず、文明の中心地だった黄河下流域の平原地帯=中原に打って出て、斉の桓公・晋の文公に次ぐ覇者となろうとした。つまり日本の将軍家のように、周王の権威を背景に、諸侯を従えて天下の険を握ろうとしたわけ。
しかし夫差は元々気が大きかったのか、それとも孔子一門に入れ知恵されてその気になったのか、史料は沈黙しているからわからない。しかし少なくとも、状況証拠として孔子が焚き付けたがる人物であったには違いない。政治的にうぶで教養もないから、乗せやすいからだ。
論語泰伯篇に見る孔子の失敗
この策は途中までうまく行った。呉王夫差は中原に兵を出し、東の大国・斉を破り、西北の大国・晋と対峙するに至ったのだから。しかもしばしば呉国は孔子の祖国・魯国と接触し、半ば属国扱いするに至る。当時海外逃亡中だった孔子にとって、これは好機だったに違いない。
なぜなら呉国さえ手なづけておけば、その威光を背景に、堂々と帰国して魯国の政権を我がものにできる。雍也篇の「斉一変すれば」はその事情を指している。しかも弟子の子貢が呉国に使いし、呉王やその宰相・伯嚭(ハクヒ)とも面識があるのは史料にある通り。
しかし呉王夫差は覇者一歩手前で、高転びにあおのけになってやがて国を滅ぼすに至る。晋と対峙しているうちに越が留守を狙い、国都を窺い呉軍を破ったからだ。しかも越にそうさせたのが、子貢だったのが面白い。師の孔子と違って子貢は、呉に見切りを付けていたのだ。
その後の呉国はするすると滅亡に向かうが、孔子はそれを見ることもなく亡くなる。越と親しい子貢がその後、どのような政治工作を行ったかは今は考えない。ともあれ孔子は、呉国軍を背景にした政治革命に失敗し、魯国でも隠居せざるを得なくなった。なぜだろう。
論語をよく読んでいた毛沢東
結局、革命を目指す者は自前で軍隊を持つほかないからだろう。孫文は辛亥革命成功後、とりあえず配下に入ったはずの軍閥に振り回され、とうとう満足しないまま死んでしまった。「革命には強い革命軍が必要だ」と言ったとされるのはそのためだ。
一方孫文没後に軍閥が争い、さらに日本軍も入ってきて…という混乱を、最終的に収めて政権を握ったのが毛沢東。毛沢東は珍しいことに、自国の古典に通じた革命家だった。彼ははっきり言っている。「革命とは暴カである」と。言いにくいことをきっぱり言えたのはなぜか。
毛沢東は歴史にも通じていたから、中国の歴代王朝を起こした創業皇帝が、そろって自前の軍を持っていたことを知っていたに違いない。当然論語も読んでいて、儒者とは違って孔子に革命家を見ただろう。そしてつぶやいただろう、「だから孔子先生は失敗したのだ」と。
孔子は2mを超す大男で、武術も達者であり、武闘派の子路も恐れ入る格闘家だったが、儒者がそう思いたがるほど本の虫ではなかったにせよ、しょせん政治的小細工で革命をやろうという甘さがあった。諸国に恐れられるほどの有能な弟子が居たにもかかわらずである。
孔子は国盗りをすればよかったのだ。ライバルとされる陽虎が目指したように。思うに孔子の古いもの好きが、国盗りを阻んだのだろう。普段からお作法とか周の徳とかお説教していたからには、国盗りを始めることが出来なかったのだ。やれば出来ただろうにと私は思うが。
言わば孔子は、自分の言葉や教説で、自滅したのである。
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