『論語と算盤』の読みにくさ
『論語と算盤』を流行に乗ろうとして訳し始めた。たかだか100年前の日本語だから、言語そのものは大して難しくはないが、時に文脈が無茶苦茶で実に訳しにくい。さらに同じ事の繰り返しが多く、文意を現代日本語に直すともとの半分近くまでしか残らない。
これはこの本が書き物ではなく、講演のたぐいをまとめたからだろう。そしてこれは言いにくいが、さすがに七十を超えているとあって、さすがの渋沢王の頭脳にも、アルツハイマーが虫食っていると見受けられる。原文をまともに読もうとして、読めるものではない。
だからその多くが、訳していて実につまらない。回りくどく問題提起した後、その解決法はと言えば、「道理に従え」とか「常識を持て」とか、最後には「努力しろ」に行き着いている。これなら頭の悪い人にも言えることであって、わざわざ有り難がって読むほどの価値はない。
孔子が「話だけ聞いてその人物を評価すると、間違う」と言ったのもむべなるかな。つまり『論語と算盤』は、渋沢翁の経済界に果たした業績に比べると、大して価値を持っていない。逆に言えばその程度の話しかできなくても、日本資本主義の父にはなれるということだ。
だいたい平成の初め頃まで、文系の学者や実業の成功者で、文章を読みやすいように書いた人はほとんどいない。むしろわかりにくくあえて書いている。読んだ坊さんにも意味の分からないお経を、金出して有り難がる風習が日本にはあるから、それに倣ったのかも知れない。
『論語と算盤』も渋沢翁の在世当時なら、有り難がる振りをしてコネをつけるメリットがあったろうが、没後はや100年近い現代では、読んだところで個人の利益にはつながらない。だから読みたくて読む人は読みたいところだけでいいし、読まされる人はそのふりをすればいい。
『論語と算盤』から得られる教訓
ただし中途まで読んだところ、私と意見を同じくしているところがあって感心した。一つは「男たる者武術の一つも身につけておけ」であり、もう一つは「儒者どものでっち上げと論語のねじ曲げにはうんざりする」との意見。この二つは実は関係している。
儒者はとにかく、体を動かすことを卑しんだ。清朝末期の史実に、英国公使と会見するために公使館に出向いた儒者が、公使自ら椅子をせっせと運んでいるのを見て、下人とは付き合えないと言って帰ってしまったことがある。だから中国と朝鮮はダメになってしまったのだが。
お高くとまって実業を卑しむ。商人を奴隷同然に見下げる。そのくせ国家予算に匹敵するようなワイロを取る。これで発展していたのだから、中期までの明清帝国とはすさまじい恵まれようと言っていいだろう。この教訓を現在の共産党幹部は知っているように思える。
共産党政権成立後の国家主席は、そろって技師の出身で、若い頃にダムの一つや二つ造ってから政治活動に入っている。だから数理でものを考える習慣が、若い頃から染みついている。たかがT大文科入試程度の数学しかできない官僚や企業人が、はばを利かせる日本とは対照的。
私はそれすらダメだったのだから、批判をする立場にないが、歴史者(もの)として数理の出来ない連中が社会の枢要を握ると、王朝末期の中国や朝鮮そっくりになることは目に見えている。それは戦前の軍人や官僚も同じで、似たような衰亡を招かないかやや心配になる。
同様に儒者は自分がひょろひょろだったから、武術の達者だった孔子を誤解した。彼らにとって都合よく、本来孔子が説いた利殖や革命に伴う政治工作、武術の必要性も認めなかった。それだけでなく、勝手に書き換えて論語を実につまらない、抹香臭いお説教集に作り替えた。
『論語と算盤』と現代日本の行く末
多分日本は、徹底的に落ちるところまで落ちないと、再生はあり得ないだろう。それで私も困ることになるかも知れないが、社会を当てに出来るような立場ではないから、今うまく行っている人に比べればどうということもない。再生まで見通すだけの寿命もないだろう。
まあそれはそれで仕方のないことなので、それでもかまいはしない。ただ『論語と算盤』について言うなら、読もうとして読む人も、読まされてやむを得ず読む人も、話半分に読んだ振りをしていけばいいと思う。どうせ読んだか検査する立場の人も、読めてはいないのだから。
というのも、『論語と算盤』に出て来る論語の引用が、従来通りの解釈ではまったく読み違えているからだ。渋沢翁も読み違えているところが多々あるが、専門の論語先生方より余程ましな読み方をしている。おそらく『論語と算盤』の訳本も、そう変わらないだろう。
つまり私と同じく流行に乗って、『論語と算盤』を他人に読ませようとする人に、正しく読める人はほとんどいないと言うことだ。だからイヤイヤ読まされる方々には、私の訳がアンチョコ(死語かな?)にでもなればいいと思っている。それで読んだ振りをして頂けるとよい。
漢文の読解ももはや伝統芸能か天然記念物で、訳書に頼らず読める人などほとんどいないのだから、字面の厳めしさに怯える必要は無いし、上記のようにそう大したことが書かれてもいない。経営者にとっての自己満足にはなるだろうが、これでビジネスの参考になる訳でもない。
『論語と算盤』を読むよりも
『論語と算盤』を読むより、プログラミングの勉強をしたり、英会話を練習したり、数Ⅰから数学をやり直す方が、よほどビジネスの役には立つだろう。というかそもそも、技師ではない企業人という存在が、AIの発達でそろそろ要らなくなってきている事実がある。
行きがかり上文系人間になってしまった人は、足でお金を稼ぐか、汗して肉体労働に励むか、曲がりなりにも一応の理系人に変身するしか生き残る道はない。これは困難なことだろうが、定時に椅子に座って給料が貰えた、今までの時代が甘すぎたのだ。
ヒトが火を使って人類になり、人類が文字を持って文明人になったように、否応なく学ばねばならない時代は人類史上何度もあった。今たまたまそういう時代に生まれてしまった不幸はあるけれども、身につけてしまえばさほどのことではない。スマホが使えるなら数Ⅰは出来る。
武術だってそうで、私だって長いこと、本の虫のひょろひょろで、口先ばかりの私立文系バカだった。ところが時運の赴くところでやむを得ず、数学物理をやり直し、htmlから始まってアパッチなどプログラミングも習得し、道場で汗を流して素手で人を倒せるまでにはなれた。
環境があまりに厳しくてメンタルも病んだが、病んだら病んだなりに生き残りの法はある。一歩を踏み出せないのはまだ環境が甘いからで、そのうち悪くなってくれば、否応なく誰でも行動には出る。その点は誰もが自分を信じていいと思うし、先行き不安を案じなくてもいい。
元気出していきましょう。
コメント