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『論語』と『論語と算盤』

論語の成立過程とよく似ている

論語と算盤 蟹穴主義が肝要・承前

渋沢栄一翁の『論語と算盤』、それと『論語』。両者を現代語訳しつつここまで来たが、二つはその成立過程が似ているらしい。どちらも師匠没後に弟子が集まって、記録されたメモをまとめて書物にしている。両者の違いは、『論語と算盤』が主に講演をまとめたことにある。

ただし『論語』の方も、孔子が口を開いて教えた言葉を一旦記録したものだから、両者は同じと言えば同じ。そしてもう一つ同じ点を、訳者はその「つまらなさ」に見る。いや、本当につまらないんですよ、ただし半分近くは。残り半分に意味を見いだせるから訳す訳で。

すでに書いたが、『論語と算盤』の半分近くは、まともに文意を取っていくと原文のせいぜい半分しか残らない。同じ事の繰り返しがあまりに多いからで、その一つの理由を訳者は渋沢翁の高齢に見た。しかしもう一つは、これが講演だったからだろう。

経験がある方にはわかると思うが、与えられた時間いっぱい、観衆の耳を引きつけっぱなしの話など出来るわけがない。そもそも人にとって聞くに値する真理とは、例えば「かわいそうなことをするな」というように、たった一言で済ませてしまえるていのものだ。

ところが講演は一時間とか、二時間とかしゃべれと注文される。講演業で生きている人にとってここが工夫のしどころだろうが、『論語と算盤』でしゃべっている渋沢翁はそういう人でなく、すでに実業界の重鎮で、講演も頼まれたから仕方なくやる、といった状態。

だから気兼ねなくしゃべっており、気兼ねがないから聴衆が退屈しようと構わない。まさに老人の繰り言のようなことを、ベラベラならいいがグダグダ・ブツブツと垂れ流している。人は偉くならないとだめだな、と言うことを痛感させるけしきである。

『論語と算盤』を編んだ人々

論語と算盤 現代に働け

昨日になって、ふと気が緩んで新書版の『論語と算盤』を手に取ってしまった。この膨大な分量が新書で収まるのかしらんと思いつつ前書きを読み進めると、どうやら抄訳であるらしい。これは卓見と言うべきで、三行硬い文章を読めば寝てしまう読者相手なら当然。

日本の識字率はほぼ100%だと言われるが、実はそうでないとどこかで読んだが、教壇に立ったことのある人なら言われずとも知って居るだろう。日本人の七割五分は文盲である。「焼き肉定食750円」程度ならともかく、岩波文庫の一冊を読み通せる人はほとんどいない。

これは教育困難校での話ではなく、私が上場企業何社かで実見した事実だ。そんな読者を対象に、老人の繰り言をたとえ現代語に置き換えても、読ませようというのは酷である。世の中に超訳なるものが流行るのもむべなるかなで、別に嘆くには当たらない。

日本に限らず、人間の性能というのは大体そんなものなのだろう。とすれば『論語と算盤』を編んだ時代にはもっとそうだったはずで、いくら娯楽が少ない時代とて、講演の速記録をそのまま本にすれば、読み始めてすぐ頭に来て投げ出すことは編者にも分かったはずと想像する。

にもかかわらず、だらだらと繰り言を所収したのは、弟子とはそういう生き物なのだと思う。これは論語を編んだ孔子一門も同じで、漢文だから『論語と算盤』ほどの冗長さはないにせよ、孔子の言葉の半分は、聞いてもつまらないだろうなと想像は付いたはずだ。

これは孔子も渋沢翁も、それだけ弟子を引きつける何かがあったことの証左になる。渋沢翁のお弟子について知るところはないが、大先生のお言葉だから、繰り言だろうとそのまま載せたのだ。本屋が要求した分量一杯、できるだけ言葉を詰め込んだのだ。

だから論語も『論語と算盤』も、本がつまらないからと言って、その主人公がつまらないとは限らない。孔子と違って渋沢翁の業績は、現代日本人なら毎日目にするし、生活のどこかで必ずその余慶を被っている。まさに孔子の言ったように、言葉は人ならず、である。

訳者覚え書き
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