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『史記』陳渉世家第十八:現代語訳

  • 鴻鵠の志

原文

陳勝者,陽城人也,字涉。吳廣者,陽夏人也,字叔。陳涉少時,嘗與人傭耕,輟耕之壟上,悵恨久之,曰:「茍富貴,無相忘。」庸者笑而應曰:「若為庸耕,何富貴也?」陳涉太息曰:「嗟乎,燕雀安知鴻鵠之志哉!」

〔中略〕

陳勝王凡六月。已為王,王陳。其故人嘗與庸耕者聞之,之陳,扣宮門曰:「吾欲見涉。」宮門令欲縛之。自辯數,乃置,不肯為通。陳王出,遮道而呼涉。陳王聞之,乃召見,載與俱歸。入宮,見殿屋帷帳,客曰:「夥頤!涉之為王沈沈者!」楚人謂多為夥,故天下傳之,夥涉為王,由陳涉始。客出入愈益發舒,言陳王故情。或說陳王曰:「客愚無知,顓妄言,輕威。」陳王斬之。諸陳王故人皆自引去,由是無親陳王者。

書き下し

陳勝者(は)、陽城人(ひと)也、字は涉。吳廣者、陽夏人也、字は叔。陳涉少き時、嘗て人與傭われ耕やすに、耕すを輟みて壟の上に之き、悵み恨みて之を久しくして曰く、「茍し富貴たらんも、相い忘する無からん」と。庸わるる者笑い而應じて曰く、「若庸われ耕すを為せり、何の富貴ぞ也」と。陳涉太いに息つきて曰く、「嗟乎、燕雀安んぞ鴻鵠之志を知らん哉」と。

〔中略〕

陳勝王たること凡そ六月。已に王為為りて、陳に王たり。其の故ある人の嘗て與に庸われ耕す者、之を聞きて陳に之き、宮門を扣きて曰く、「吾れ涉に見えんと欲す」と。宮門の令、之を縛らんと欲す。自から辯べること數にして、乃ち置くも、通しを為すことを肯ぜ不りき。陳王出づるに、道を遮り而涉を呼ばわる。陳王之を聞きて、乃ち召し見えて、載せて與俱(とも)に歸る。宮に入るや、殿屋の帷帳を見て客の曰く、「夥しき頤(かな)、涉之王為りて沈沈たる者(は)」と。楚人多きを謂いて夥しと為し、故に天下之を傳え、夥し涉の王為るとは、陳涉由り始る。客出入するに、愈よ益(ますま)す舒(の)びるを發(おこ)し、陳王の故(かつ)ての情(さま)を言う。或るもの陳王に說いて曰く、「客愚かにして知無く、顓(もっぱ)ら妄ら言いて威を輕んず」と。陳王之を斬る。諸の陳王の故ある人、皆自ら引き去りて、是に由り陳王に親しむ者無し。

現代日本語訳

陳勝は、陽城の人である。あざ名はは涉。呉広は、陽夏の人である。あざ名は叔。陳涉は若い頃、人に雇れて田仕事をしていた。仕事の休憩中、丘に登って自分の不運をしばらく嘆いた後で言った。「もし出世しても、お互い忘れることのないようにしようぜ。」

雇われ百姓らはゲラゲラ笑って言い返した。「おい小僧、お前は雇われ百姓ではないか。それが出世などとほざきおって。」陳涉はあ~あと大きなため息をつきながら言った。「ツバメやスズメみたいな小鳥には、天かけるおおとりの志が分からんのだなあ。」

〔中略〕

陳勝が王位にあったのは、だいたい六ヶ月ほどだった。即位してからは陳の地に王都を置いた。かつての知人で雇われ百姓だった者がそれを聞いて、陳に行って宮門をドンドンと叩いて言った。「わしじゃあ、会ってくれい。」

門番の頭は引っくくろうとしたが、男がかつての陳勝との関係を何度もわめき立てるので、後難を恐れて放置したが、会わせようとはしなかった。ところがたまたま陳王が出かけるのに出くわして、男は道を塞いで呼ばわった。「陳勝どん、わしじゃあ、わしじゃあ。」

車内からその声を聞いた陳勝は、男を呼んで車に乗せ、中へ引き返した。宮殿に入ると、幾重にもめぐらされたカーテンの仕切りに男が感じ入って言った。「たまげたのう。涉どんの王様ぶりは。なんとも大したしつらえじゃ。」

楚の国人は、「すごい」を「たまげた」と言う。だから天下にこの故事を伝え、「たまげたのう。涉どんの王様ぶりは」という言い廻しは陳涉から始まったのだ。

さて男は宮殿のあちこちに出入りするに従って、だんだん好き勝手に振る舞うようになった。そしてことあるごとに「昔の陳勝どんはのう」と黒歴史を言い回った。ある人がそれを見て陳王に進言した。「あの男はただのバカ者で、王の威厳を損ねています。」

陳王は男を斬ってしまった。それを見て、かつて陳王の知り合いだったさまざまな人が恐れて逃げ出し、こうして陳王に親しむ者はいなくなってしまった。

訳注

輟:やめる。休む。

壟:畑のうね、と解する訳本もあるが、畑仕事をする者が、わざわざ「いく」ほどの場所ではないし、休むにしても丘から景色を眺めながらの方が話があり得る。

悵恨:身の程を憂い恨む。

扣:叩く。

與俱:ともに。「ともにともに」と読んでもいいのだが、くだくだしいので「ともに」と読み下す習わしになっている。

頤:楚の方言で、詠嘆の意を示すとされる。

顓:「もっぱら」と読んで、”そればかりする”の意。


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論語内容補足
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