原文
秋,齊侯伐晉夷儀,敝無存之父將室之,辭,以與其弟,曰,此役也,不死,反必取於高國,先登,求自門出,死於霤下,東郭書讓登,犁彌從之,曰,子讓而左,我讓而右,使登者絕而後下,書左,彌先下,書與王猛息,猛曰,我先登,書斂甲曰,曩者之難,今又難焉,猛笑曰,吾從子,如驂之靳,晉車千乘,在中牟,衛侯將如五氏,卜過之,龜焦,衛侯曰,可也,衛車當其半,寡人當其半,敵矣,乃過中牟,中牟人欲伐之,衛褚師圃亡在中牟,曰,衛雖小,其君在焉,未可勝也,齊師克城而驕,其帥又賤,遇必敗之,不如從齊,乃伐齊師,敗之,齊侯致禚,媚,杏,於衛,齊侯賞犁彌,犁彌辭曰,有先登者,臣從之,皙幘而衣貍製,公使視東郭書,曰,乃夫子也,吾貺子,公賞東郭書,辭曰,彼賓旅也,乃賞犁彌,齊師之在夷儀也,齊侯謂夷儀人曰,得敝無存者,以五家免,乃得其尸,公三襚之,與之犀軒,與直蓋而先歸之,坐引者以師哭之,親推之三。(『春秋左氏伝』定公九年2)
書き下し
秋、斉侯晋の夷儀を伐つ。敝無存之父、将に之に室らさんとするも、其の弟に与えるを以て辞りて曰く、此の役也、死さ不らば、反りて必ず高國於取らんと。先に登りて、自ら門を出づるを求むるも、霤下於死せり。東郭書讓(せ)め登るに、犁彌之に従いて曰く、子讓め而左せよ、我讓め而右せん。登る者を使て絕(とど)め而下に後らしめんと。書左し、彌先に下る。書与王猛息う。猛曰く、我れ先に登ると。書甲を斂めて曰く、曩者(さき)之難ありて、今又た難あり焉と。猛笑いて曰く、吾子に従いたるは、驂之靳の如しと。
晉の車千乗、中牟に在り。衛侯将に五氏に如かんとし、之を過ぐるを卜うも、龜焦げぬ。衛侯曰く、可き也。衛車当に其の半ばにして、寡人当に其の半ばたれば、敵う矣と。乃ち中牟を過ぎんとす。中牟の人之を伐たんと欲し、衛の褚師圃の中牟在亡げたるが曰く、衛は小なりと雖も、其の君在り焉れば、未だ勝つ可からざる也。斉の師城に克ち而驕り、其の帥又た賤し。遇えば必ず之を敗らん。斉を従(お)うに如か不と。乃ち斉の師を伐ち、之を敗る。斉侯、禚・媚・杏を衛於致す。斉侯犁彌を賞むるも、犁彌辞りて曰く、先に登る有る者、臣之に従えばなり。皙き幘にし而貍の製りを衣いたりと。公東郭書を視使めば曰く、乃ち夫子也、吾子に貺(あた)えんと。公東郭書を賞むるも、辞りて曰く、彼賓旅也と。乃ち犁彌を賞す。斉の師之夷儀に在る也、斉侯夷儀人に謂いて曰く、敝無存を得たる者は、五家を以て免ぜんと。乃ち其の尸を得、公三たり之に襚(ころもをおく)り、之に犀軒を与え、直蓋を与え而先に之を帰す。引く者を坐らしめ師を以て之を哭き、親しく之を推すこと三たびなり。
現代日本語訳
定公九年(BC501)の秋、斉の景公が晋の夷儀を攻撃させた。それに先立ち、斉軍の敝無存の父は、近々嫁を取らせようと思っていたが、敝無存は「弟に嫁を迎えて下さい」と言って断った。さらに続けて言うには、「もし今度の戦で生きて帰れたら、その武勲で、門閥の高氏や国氏から嫁を迎えて下さいね。」ところが攻城戦で真っ先に城壁を登り、内側から門を開けようとしたが、城門の軒先で戦死してしまった。
この戦いでは東郭書も城壁を登った。その後ろから犁弥がついてきて、「あなたは登り終えたら左に向かって下さい。私は右に行きます。そうすれば皆”もういいや”と思って登るのを止めるでしょう。先駆けの功名は我らのものですぞ」と言った。言う通りに書が左に向かったところ、弥はさっさと城壁の内側に降りて一番乗りの名乗りを上げてしまった。
いくさが終わって、書と王猛が休んでいた。猛「私が先に登るつもりだったのに。」書はよろいを仕舞いながら言った。「先ほどイヤガラセをしたのに、今度はイヤミを言うのかね。」猛が笑って言った。「ごもっともですが、あなたのあとを付けたのは、名馬に馬具がついていくようなものですよ。」
晋軍は戦車千乗だったが、中牟に陣を張った。衛の霊公が五氏(大漢和によると晋のまち。寒氏とも。午氏の所領。今の邯鄲付近)に行こうとして、途中の中牟通過の吉凶を占うと、占いの亀甲が焦げてしまった。
霊公「いや、大丈夫だ。衛軍の戦車は敵の半分だが、そのさらに半分を私が率いるなら勝てる。」そこで中牟の郊外を通りかかろうとした。中牟の国人(城郭都市内の住民を指す。原則として男性は士分以上の身分で、戦時には従軍する。国野制を参照)は衛軍を撃とうとしたが、衛の貴族で、中牟に亡命していた褚師圃が言った。
「衛は小国だが、国公が親征しているから、士気が高くて勝てる見込みが少ない。そこへ行くと斉軍は夷儀を攻め落としたばかりで安心しており、指揮官も家臣だから士気が上がらない。我が軍をぶつければ必ず勝てる。斉軍を追い払うに越したことはない。」この意見に中牟の国人は賛成して斉軍を撃ち、勝利した。
この敗戦により、斉の景公は禚(シャク)・媚・杏のまちを衛国に割譲して講和した。戦後処理で犂弥を誉めようとしたが、犂弥はこう言って断った。「私より先に城壁に登った人がいます。その人についていっただけです。白い帽子にネコの毛皮をまとっていました。」
景公が東郭書を呼んで引き合わせると、犂弥は言った。「まさにあなたです。褒美はあなたのものです。」そこで景公が東郭書に褒美を取らせようとすると、やはり断って言った。「犂弥どのは陣借りのサムライ。稼がせて差し上げねばなりますまい。」結局褒美は犂弥のものとなった。
斉軍はいまなお夷儀を占領したままだったが、景公はその国人に布告した。「敝無存のなきがらを見つけた者には、その者に加えて五世帯の税を免除する。」するとすぐさまなきがらが見つかって、景公はなきがらを三度着替えさせた。さらに重戦車に棺を載せ、長柄の傘を差し掛けて帰国させた。車を牽く者にはその前に土下座の礼をさせ、軍には声を上げて泣く礼を命じた。くわえて景公自身が、車を三度後ろから押した。
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