論語詳解381衛霊公篇第十五(3)注釈

論語集解義疏

原文

子曰非也予一以貫之註善有元事有㑹天下殊塗而同歸百慮而一致知其元則衆善舉矣故不待多學一以知之也疏子曰至貫之 云子曰云云者時人見孔子多識竝謂孔子多學世事而識之故孔子問子貢而釋之也云對曰然者然如此也子貢答曰賜亦謂孔子多學故如此多識之也云非與者子貢又嫌孔子非多學而識故更問定云非與與不定之辭也云曰非也者云予一以貫之者貫猶穿也既答云非也故此更答所以不多學而識之由也言我所以多識者我以一善之理貫穿萬事而萬事自然可識故得知之故云予一以貫之也 註善有至知之也 云善有元事有㑹者元猶始也㑹猶終也元者善之長故云善有元也事各有所終故曰事有㑹也云天下殊塗而同歸者解事有㑹也事雖殊塗而其要㑹皆同有所歸也云百慮而一致者解善有元也致極也人慮乃百其元極則同起一善也云知其云云者是善長舉元則衆善自舉所以不須多學而自能識之也

書き下し

子曰く非ざる也。予一を以て之を貫けり。註。善に元有りて事に会う有り。天下みちことなりり而同じく帰る。百たび慮い而一えに知に致るは、其れ元なり。則ち衆善く挙ぐる矣。故に学ぶの多きを待た不、一以て之を知る也。疏。子曰く、之を貫くの至りなり。子曰く云云者、時に人孔子を見て多く識り並びて孔子の多く世事を学ん而之を識ると謂う。故に孔子子貢に問い而之を釈す也。対えて曰く然りと云う者、然り此の如き也。子貢答えて曰く賜亦た孔子の多く学ぶを謂う。故に此の如く多く之を識る也。非ざる与と云う者、子貢又た孔子多く学ぶに非ずし而識るを嫌うなり。故に更に問いて定めんとす。非ざる与と云うに、与は定まら不之辞也。曰く非ざる也と云う者、予一えに以て之を貫くと云う者、貫く猶お穿つがごとし也。既に答えて非ざる也と云う。故に此れ更に答えて多く学ば不るし而之を識るの由の所以也。言うは我れ多く識るの所以者、我一善之理を以て万事を貫き穿ち而、万事自から然りて識る可きなり。故に之を知るを得る。故に予一えに以て之を貫くと云う也。註。善之を知るを至す有る也。善に元有り、事に会う有りと云う者、元猶お始めのごとき也。会うは猶お終りのごとき也。元者善之長なり。故に善に元有りと云う也。事各の終わる所有り。故に事会う有りと曰う也。天下塗殊り而同じく帰ると云う者、事に会う有るを解く也。事に塗の殊なり而其れ会うを要むると雖も、皆な同じく帰る所有る也。百たび慮い而一えに致ると云う者、善に元有るを解く也。致るの極み也。人慮うに乃ち百たびするも、其れ極みを元とす。則ち同じく一善を起す也。知其云云者、是れ善は元を挙ぐるに長けたり。則ち衆、善自から須く多く学び而自ら能く之を識ら不るの所以を挙ぐる也。

現代語訳

子曰く、非ざる也。予一を以て之を貫けり、と。

注。善きことには源泉があって、出来事には偶然がある。天下の人々はみな違った生き方をしているが、究極的には同じ所に従うものだ。

百たび考え抜いてその究極を知るのが、その源泉である。だから人々がもてはやす。ならばたくさん学ばなくても、源泉があれば全てが分かるのである。

付け足し。孔子様は、全てを貫く根本を仰った。子曰くうんぬんとは、人は孔子を多く学んだから多くを知っていると思い込み、世間のことを多く学んだから世間が分かると勘違いしていることを言う。だから孔子は子貢にそうではないと説明したのである。

対えて曰く然り、というのは、そのとおりです、ということである。子貢もまた勘違いして、孔子が多く学んだのだと言った。だから多くを知っているのでしょう、と言ったのである。

非ざる与、というのは、子貢は孔子が多く学ばないのにものを知っていると思いたくなかったのだ。だからさらに問い詰めて、孔子が多学者だと決めつけたのだ。ただし自信がなかったので、非ざる与、と疑問形で言ったのだ。

曰く非ざる也、と言い、予一えに以て之を貫く、と言ったのは、穴を開けるように貫いている、と言ったのである。まず「そうでない」と答え、それゆえ貫くことが多く学ばないで全てを知る源泉であると示したのである。つまり孔子が全てを知るのは、一つの善きことわりで万事を貫き通すから、万事は自然に分かるというのである。だから一でこれを貫く、と言ったのである。

注。善は全てを知ることがある。善には源泉がある、出来事には偶然があると言うのは、源泉が物事の始まりで、偶然は物事の終わりだからである。源泉は善のかしらである。だから善には源泉があると言うのである。出来事には終わりがある。だから出来事には偶然があると言うのである。

天下の人々が違う生き方をするというのは、偶然に出くわすことわりを言ったのである。生き方が違っても偶然には出くわすのではあるが、皆一つの所に帰って行くのである。百たび考えて源泉にたどり着くというのは、善に源泉があることわりを言ったのである。行きつく所の極致を言うのである。

人は百たび考えると言っても、源泉から出ないものはない。つまりみな同じく、善の一部を行うのである。知其うんぬんは、善は源泉を指し示す最高の道具だと言っているのである。だからほとんどの者は善について多く学んでも、源泉には至れない道理なのである。

論語集注

原文

說見第四篇。然彼以行言,而此以知言也。謝氏曰:「聖人之道大矣,人不能遍觀而盡識,宜其以為多學而識之也。然聖人豈務博者哉?如天之於眾形,匪物物刻而雕之也。故曰:『予一以貫之。』『德輶如毛,毛猶有倫。上天之載,無聲無臭。』至矣!」尹氏曰:「孔子之於曾子,不待其問而直告之以此,曾子復深諭之曰『唯』。若子貢則先發其疑而後告之,而子貢終亦不能如曾子之唯也。二子所學之淺深,於此可見。」愚按:夫子之於子貢,屢有以發之,而他人不與焉。則顏曾以下諸子所學之淺深,又可見矣。

書き下し

説は第四篇に見ゆ。然りて彼言行うを以てし、し而此れ以て言を知る也。謝氏曰く、「聖人之道大い矣、人遍ねく観て而識るを尽くす能わ不、宜しく其れ多く学ぶを為すを以而之を識る也。然るに聖人豈に博げるに務むる者哉。天之眾く形づくるに於けるが如し。物に匪ずして物刻み而之を雕る也。故に曰く、『予一えに以て之を貫く』と。『徳輶お毛の如し、毛輶お倫有るがごとし。上天之載くや、声無くして臭い無し』と。至れる矣」と。尹氏曰く、「孔子之曽子に於けるや、其の問いを待た不し而直ちに之に告ぐること此を以てす、曽子復た深く之を諭して曰く、『唯』と。子貢の若きは則ち先に其の疑いを発き而後に之を告ぐ、し而子貢終に亦た曽子之唯の如きは能わ不る也。二子之を学ぶ所の浅深、此に於いて見る可し」と。愚按ずるに、夫子之子貢に於けるや、屢ば之を発くを以てする有り、し而他の人与り不る焉。則ち顔曽以下諸子学ぶ所之浅深、又た見る可き矣。

現代語訳

この話は里仁篇にも出ている。里仁篇では言葉の実践を言ったが、本章では言葉そのものを知ることを言う。

謝氏曰く、「聖人の道は偉大であるなあ。人は全てを見て全てを知ることは出来ない。せいぜい、多く学んで多く知るだけだ。しかし聖人ならどうして広く学ぶ必要があろうか。天が万物を形作るようなものだ。天は万物の根源素材を加工して、万物を生み出すのだ。だから孔子様は仰った。『予一えに以て之を貫く』と。『徳とは毛のようにささいだが、毛にも人の道がある。万物をみそなわす天には、声も臭いもない』と。究極の境地だなあ。」

尹氏曰く、「孔子は曽子に対しては、問う前に答えを言い、曽子も”はい”と言っただけだった。子貢のごときは、まずその疑いを言わせてから、その間違いを指摘した。子貢はどう頑張っても、曽子のようにはなれないのだ。二人の出来不出来は、これを見れば明らかではないか。」

私・朱子の個人的感想では、孔子様は子貢に対しては、しばしば言わせてから答える形を取っている。その他の弟子にはこういうことはしない。顔回・曽子以下の先生方と比べて、子貢の浅はかさを見ることが出来よう。


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警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。覚悟致せ。

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