*このコンテンツは旧説です。新説は論語解説「漢文が読めるようになる方法2022」をご覧下さい。
漢文読解文法:賢賢易色章の全体像
みなさんこんにちは。アシスタントAIのカーラです。今回も教材プリントpdfがありますので、各自受け取って下さい。今回も論語の文章を例文に、今まで学んだことをより実践的に学んでいきましょう。例文は論語学而篇の7、「賢賢易色」章です。
ではいつも通り、まずはざっと眺めて下さい。
(原文)
子夏曰。「賢賢易色。事父母能竭其力、事君能致其身、與朋友交、言而有信、雖曰未學、吾必謂之學矣。」
(現行漢字変換)
子夏曰。「賢賢易色。事父母能竭其力、事君能致其身、与朋友交、言而有信、雖曰未学、吾必謂之学矣。」
(書き下し)
子夏曰わく。賢しきを賢びて色を易う。父母に事うるに能く其の力を竭くし、君に事うるに能く其の身を致し、朋友与交りて、言い而信有らば、未だ学ばずと曰うと雖も、吾必ず之を学ぶと謂わ矣。」
(構造)
1.子夏(主語)-曰(述語動詞)
2.賢(述語動詞)-賢(目的語)-易(述語動詞)-色(目的語)
3.事(述語動詞)-父母(目的語)-能(副詞)-竭(述語動詞)-其力(目的語)
4.事(述語動詞)-君(目的語)-能(副詞)-致(述語動詞)-其身(目的語)
5.与(前置詞)-朋友(目的語)-交(述語動詞)
6.言(述語動詞)-而(接続詞)-有(述語動詞)-信(目的語)
7.雖(接続詞)-曰(述語動詞)-未(副詞)-学(述語動詞)(目的格の名詞句)
8.吾(主語)-必(副詞)-謂(述語動詞)-之(目的語1)-学(目的語2)-矣(文末助詞)
(現代語訳)
子夏が言った。「賢者を尊んで表情を改め、父母に仕えてその力を尽くすことが出来、主君に仕えてその身を捧げることが出来、友人と交際する際、発言して真心があるなら、まだ学んでいないと言ったとしても、私は必ずその人を学んだと言おう。」
(語釈)
子夏:文学の才を孔子に認められた弟子。孔門十哲の一人。
賢:”賢者”・”尊ぶ”。
易:”変える”。
色:表情。能
能:”~できる”を意味する副詞。
竭:”尽くす”。
致:”捧げる”。
与:”~と”を意味する接続詞。
而:”~て”・”~なのに”を意味する接続詞。順接にも逆接にも使う。
信:”真心”。嘘のないこと。
雖:”~なのに”・”~だろうと”を意味する接続詞。
謂:”~について論評して言う”。
矣:断定・意志、推量・仮定・完了・疑問・反語・詠嘆…などを表す文末助詞。過去・現在・未来のことについて、”こうである”と言い切ること。
漢文を句に分けて前から読解する
ここまで読み進めた皆さんには、漢文の構造とその種類を、おおまかには理解できたと思います。そこで今回は、例文を元に漢文を「前から読んでいく」練習を行いましょう。言い換えると、「どこで返らねばならないか」を見つける稽古です。
では第1文節から。
(原文)子夏曰。
(書き下し)子夏曰わく。
(現代語訳)子夏が言った。
ここは返る必要がありませんでした。多くの皆さんが「子夏曰わく」と読み、”子夏が言った”の意味だとわかったと思います。しかし分かった皆さんでも無意識に行った判断があったはずです。それは、この文をどのように、いくつの句に分けたかです。組み合わせは四通り。
b.子-夏曰:”先生が夏の時に言った”
c.子夏-曰:”子夏が言った”
d.子-夏-曰:”先生と夏(人名)が言った”
恐ろしいことに、漢文ではどれもが文法的にあり得る解釈です。「子」は”子供”と解釈することも出来ますから、訳文としてはさらに候補が増える事になります。さすがに「曰」は動詞か、文頭で”ここに”を意味する以外にあり得ませんが、「子夏」の方はこれほど自由です。
この解決には、「子夏」という個人名をあらかじめ知っているか、辞書で「子」を引いて「子夏」または「子夏曰」がないかどうか探すしかありません。無ければbかdが正解となりますが、「子夏」は小さな漢和辞典でも載っている個人名ですから、容易に決定できるでしょう。
この作業は、文を句に分ける作業です。「作業」が”業を作す”という述目構造の句であるように、漢文で最も小さなフレーズ=意味のある文のかたまりは、二字句からです。幸いにもほとんどの漢文は、一字独立か、二字句もしくは三字句で出来ています。
それ以上長い句は、人名や地名など、固有名詞であることがほとんどです。だから現在中国で出版される漢文には、原則として固有名詞に傍線が引いてあります。つまり当の中国人でさえ、中国古文=漢文には傍線が引いてないと読めないわけです。日本人ならなおさらです。
(書き下し)
叙して曰わく。漢の中壘校尉の劉向言うらく。魯論語二十篇は、皆な孔子の弟子、諸の善き言を記せる也と。
(皇侃「論語叙」)
日本で出版された漢文の本なら、訳文はなくとも書き下しがあり、それすらなくても語釈はあるでしょう。無ければやはり辞書を引くしかありませんが、固有名詞を辞書から引き上げるのは簡単ですし、初めて見る漢文の固有名詞を読み誤っても、大きな恥ではありません。
誰かに指摘して貰えば済む話です。済まないのは固有名詞でない句を読み誤ることで、これを正しく読めねば、そもそも漢文を読むことが出来ません。では例文から句を取り出して、句にはどのようなものがあるのかを知ることにしましょう。
子夏曰(子夏曰わく:子夏が言った)
(述目構造の句)
賢賢(賢しきを賢ぶ:賢者を尊ぶ)/易色(色を易う:表情を改める)/事父母(父母に事う:父母に仕える)/竭其力(其の力を竭す:その力を尽くす)/事君(君に事える:主君に仕える)致其身(其の身を致す:その身を捧げる)/有信(信有り:真心がある)/曰未学(未だ学ばざると曰う:まだ学ばないと言う)/謂之学(之を学ぶと謂う:その人を学んだと言う)
(前置詞構造の句)
与朋友(朋友与:友人と)
(並列構造の句)
言而有信(言い而信有り:言って真心が有る)
今回の章に見られない、その他の構造句の例は、以下の通り。
日三省(日に三たび省る:一日に三度反省する)
(動補構造の句)
疾病(疾みて病し:病気が重くなった)
いずれにせよ、圧倒的多数は述目構造の二字句または三字句だとわかるでしょう。従って漢文の読解は、文頭から最小のフレーズである句に切り分けて、主述構造と前置詞構造の場合は返り読みをする、その作業なのです。辞書さえ引けば、意外と単純ではありませんか?
漢文読解文法:漢文をブツブツ言いながら読む
それでは例文の残りを読んでいきましょう。
(原文)賢賢易色。
(書き下し)賢きを賢びて色を易う。
(現代語訳)賢者を敬って表情を変える。
第2文の解釈には異説があります。
故宮崎市定博士によると、「賢賢たるかな易の色や」と読み、”コロコロ変わるよ、とかげの色は”を意味すると言います。その根拠は「賢」に”ゆたか”の語義があること、漢文では「賢賢」のように、同じ漢字二文字で擬声音・擬態音を表す場合が多いからです。
ただしこれは「そう読めないこともない」という言わば高等解法で、初心者が学ぶべき堅実な読解とは言い難いのです。皆さんはまずは、主述関係、述目関係の句として読めないかどうかを検討するようにして下さい。
次に進みましょう。
(原文)事父母能竭其力
(構造)事父母-能竭其力
(書き下し)父母に事えて、能く其の力を竭くし
(現代語訳)父母に仕えるに当たって、その力を尽くすことが出来
「事父母」と「能竭其力」、二つの句の関係は重文関係で、英語であればandやor、butなどの接続詞が付くところですが、漢文ではほとんど接続詞を挟みません。従って二つの句の関係は、読者が文脈から判断するほかありません。
(原文)事君能致其身
(構造)事君-能致其身
(書き下し)君に事えて、能く其の身を致し
(現代語訳)主君に仕るに当たって、その身を捧げる事が出来
第4文の構造は第3文と同じです。第4文を、「前から読む」とはどういう事かと言えば、句ごとに未詳部分を保留しつつ読むことです。下黒板、カッコ内は心中の声です。
事君:
(君に仕える、君主に仕える、っと。)
能致:
(能く致す、致すことが出来る、捧げる事が出来る、と。それで何を?)
其身:
(其の身、自分の身を、か。自分の身を捧げる事が出来る、なるほど。)
漢文読みの全てがこういう心中の声を発しつつ読んでいるとは限りませんが、少なくとも訳者はこのように読んでいき、読解に詰まることはめったにありません。いちいち文法を思い出したりはしないのです。皆さんも、このようにブツブツ言いながら漢文を読んでみて下さい。
5.
(原文)与朋友交
(構造)与朋友-交
(書き下し)朋友与交わりて
(現代語訳)友人と交際して
(ブツブツ)与、与は”与える”か”~と”か、どちらかだな。んで「朋」か。”朋に与える”? ん、まてよ、「友」があるな。”朋友に与える”? それとも”朋友と”? いや、「交」があるから”朋友と交わる”だな。
念のために改めて書き添えますが、第5文は「朋友に交わりを与う」(友人に交際を与える)と読めなくはありません。しかしそれでは意味が通じませんね。「与」が前置詞か動詞かは、少なくとも節全体を仮読みし終えないと、決まらないということです。
文意が通じないのに、無理に読み進めようとしてはいけません。どんどん行き詰まるばかりだからです。判断ミスをしたらさっさと諦めて、他の可能性を検討すべきです。ほかでもない、孔子先生がそう言っています。
過ちては則ち改むるに憚る勿れ。
間違ったら、改めるのを恥と思っちゃいかんよ。(論語学而篇8)
日本で定着した漢文から出た故事名言として、「君子豹変」があります。一般的には、”立派な君子のくせに、言うことやることがコロコロ変わる”という、非難めいた意味で使われますが、本来は、”君子たる者、間違ったらすぐさま改めるべきだ”の意味です。
漢文の読解は、まさに豹変すべき世界です。行き詰まったら、読めた地点まで戻ることです。先を進めましょう。
(原文)言而有信
(構造)言-而-有信
(書き下し)言い而信有らば
(現代語訳)発言して、それに真心があるならば
第6文は、本来「而」が無くても成立します。しかしあえて入っているわけは、漢文では四言句がもっともリズム的に収まりがいいからです。二文字の句が漢文に多いのも、これが理由です。漢字は一文字が一単語ですから、主述構造も述目構造も、本来は二文字句なのですね。
しかし主部や述部、目的語に修飾を付けたい場合は三文字以上にならざるを得ません。だから主述構造と述目構造が漢文の基本構造になり、修飾構造その他は付加構造に過ぎないわけなのです。
なお接続詞「而」に繋がれた前後の関係ですが、順接にも逆接にもなり得ることはすでにお話ししました。もう一つ「而」に特徴的なのは、多くの場合、時間的な前後関係にあるか、論理的な因果関係があることです。第6文もその例で、だから”それに”と訳せるわけです。
先を進めましょう。
(原文)雖曰未学
(構造)雖-曰未学
(書き下し)未だ学ばずと曰うと雖も
(現代語訳)まだ学んでいないと言うとしても
「雖」はもととかげの一種を表す言葉でしたが、音を借りて”そうは言っても”という、逆接の接続詞として使われることがほとんどです。「雖」が形成する句や節は、その内容がすでに終わったことでも(確定条件)、未来のことでも(仮定条件)、かまわず使われます。
「雖」はまれに、”ただ~”と読んで限定や強調を意味することがありますが、あくまでまれな例です。小耳に挟むだけでいいでしょう。先を進めます。
(原文)吾必謂之学矣。
(構造)吾-必謂-之学-矣。
(書き下し)吾必ず之を学ぶと謂わ矣。
(現代語訳)私は必ず、その人が学んだと言おう。
第8文の大部分を占める「吾必謂之学」は、間に「必」(必ず)という副詞が入っていますが、「吾-必謂」で主述構造を、「必謂-之学」で述目構造を作っています。「謂」は同じ”言う”でも”論評する・評価する”の意味を含み、”その人は学んだと評価しよう”と訳せます。
第8文で解釈が分かれ得るのは「矣」の扱いで、全体の文末助詞ならば意志や断定を、「学」のみを修飾するとするなら断定・完了を意味します。
(書き下し)吾必ず之を学ぶと謂わ矣。
(現代語訳)私はその人を学んだ人と評価しよう。
b.吾必謂之学矣。
(書き下し)吾必ず之を学び矣りと謂う。
(現代語訳)私はその人を学び終えた人と評価する。
abどちらが正しいのか? 文意はどちらも取れますし、どちらも文脈としておかしくありません。こう言う場合は、好きな方で読み下し、解釈してかまいません。話者や筆者が、意味限定の責任を放棄しているからです。漢文ではよくあることで、慣れるしかありません。
顔を赤らめつつ、そそくさと佐世保に出向く奥さん(第0講参照)にさえならなければ、漢文は好きなように解釈してかまわないのです。
漢文頻出語:文末の「なり」
最後に、今回も出てきた文末の「なり」、その多義性を無理なく理解できるようにしておきましょう。
漢文の文末助詞の「なり」としては、以下の漢字が当てられます。
「焉」・「矣」・「也」(金文)
いずれも基本義は、”終わってしまった”ことです。この中で冷たく「終わった」感が強いのは、「焉」です。もとは「エン」という鳥の名でしたが、どのような鳥だったかは黄色かったということぐらいしか伝わっていません。そして文末ではもっぱら助詞として使います。
「焉」の語感を言えば、自分ではどうしようもなく、裁判で判決が下ったような感覚です。「主文。被告を懲役××年に処す。以上、閉廷!」といった感じです。それを引き継ぎ、「終焉」(終ん焉る。終わり・晩年・行き詰まり)という言葉が日本語にも入っていますね。
(漢文)片言以折獄焉。
(書き下し)片言以て獄を折め焉り。
(現代語訳)わずかな言葉で判決を言い渡してしまった。
対して意志的に終わった感が強いのは「矣」です。この字は、もと人が振り返った姿の象形でした。
(漢文)吾必報矣。
(書き下し)吾れ必ずや報い矣らん。
(現代語訳)絶対に仕返ししてやるからな。
「覚えてろー! このヤロー!」という語感です。
そしてさらっと”~なのです”と言い終える感じが、「也」です。ツンデレが好きな人にものを渡すときに言うイメージですね。
(漢文)是礼也。
(書き下し)是れ礼也。
(現代語訳)これ、プレゼント。
「也」はもと、サソリの姿でした。しかしその意味で使われることは極めてまれです。音読みでは「ヤ」と読みますが、丁度関西方言の「~や」に近いでしょうか。
お客:おっちゃん、これナンボ?
八百屋:百円や。
関東方言での「~だ・です」ですね。ただし「也」を「ヤ」と読んだ場合、文末でなく文中なら、”~よ・や”という呼びかけか、または”~は、~だ”の意味になります。単に主格を意味すると言うより、主格の性格を強調して、”~については、とりわけ~だ”の語感を含みます。
(原文)賜也、始可與言詩已矣。
(書き下し)賜也、始めて与に詩を言う可き已み矣り。
(現代語訳)賜(=子貢の名)や、初めて共に詩を語ることが出来るようになったなあ。
(原文)回也不愚。
(書き下し)回也愚かなら不。
(現代語訳)顔回は愚かではない。/顔回は愚かどころではない。
また文末の「也」を「ヤ」と読む場合は、疑問や反語になり得、それは日本古語や関西方言のの「や」と同じです。
(原文)何謂也。
(書き下し)何の謂いぞ也。
(現代語訳)何を言っているのですか。
(関西方言)「人が来た。」「誰や。」
そしてまれにですが、青銅器に鋳込まれた金文や呪いの書き付けなど、古い漢文で「やっ!」という掛け声を表す場合があります。例えば病魔を払う呪術医が発する言葉がそうです。
(現代語訳)行けやっ!/行ってしまえ!
この場合も”行ってしまえ!”と訳せるように、”終わってしまえ!”という、「也」の終わった感が共通していることに注目して下さい。
さて以上、三つの「なり」について説明しましたが、文末助詞はそもそも、発言者の感情を表す言葉です。ですから場面によって、三つの「なり」は過去や未来を言い切る言葉であり得、それゆえに断定・完了・推量・詠嘆…とたくさんの語義が出てくるわけですね。
一々こうした文法的な語義を覚えるより、基本義を確かに心得て、文脈次第で最も適切な訳語を選べるようになって下さい。それが生きた文法というものです。
それでは今回は以上です。みなさん、お疲れさまでした。
コメント
大変に勉強になりました。また面白くて楽しく学ばせていただきました。
またお越し下さい。