原文
治平之世,教化興行,群臣和於朝,百姓和於野,人自砥礪,無所是非,天下焉有朋黨哉?仲長統所謂「同異生是非,愛憎生朋黨,朋黨致怨隙」是也。東漢桓靈之朝,政在閽寺,綱紀以亂,風教浸衰,黨錮之士始以議論疵物,於是危言危行,刺譏當世,其誌在於維持名教,斥遠佞邪,雖乖大道,猶不失正。今之朋黨者,皆依倚幸臣,誣陷君子,鼓天下之動以養交遊,竊儒家之術以資大盜〈(原注:大盜謂幸臣也)〉,所謂教猱升木,嗾犬害人,穴居城社,不可薰鑿。漢之黨錮,為理世之罪人矣;今之朋邪,又黨錮之罪人矣。仲長統曰:「才智者亦奸凶之羽翼,勇氣者亦盜賊之爪牙。」誠如是言,然辨之未盡。如是者皆小才小勇,祗能用詭道入邪徑,鼠牙穿屋,虺毒螫人,如巨海陰夜,百色妖露,焉能白日為怪哉?大道之行,當齏粉矣。
書き下し
治平之世は、教化興り行われ、群臣朝於和み、百姓野於和み、人自ら砥き礪き、是非する所無ければ、天下焉ぞ朋黨有らん哉。仲長統*の所謂る、「異(ほか)なるもの同じくいて是非生まれ、愛憎もて朋黨生まれ、朋黨、怨隙を致す」是れ也。東漢桓靈之朝、政は閽寺に在り、綱紀以て亂れ、風教衰えを浸(すす)め、黨錮之士、始めて議論を以て疵(こぼ)ち物(ころ)され,是に於て言を危(けわ)しくし行いを危しくし、當世を刺(そし)り譏るは、其れ誌、名教を維持する於在り。佞邪を斥き遠ざけ、大道を乖るると雖も、猶お正しきを失わ不。今之朋黨者、皆幸臣に依り倚(もた)れ、誣(し)いて君子を陷め、天下之動きに鼓(つづみう)ちて以て交遊を養い、儒家之術を竊みて以て大盜を資(たす)け、所謂猱(さる)に教えて木に升らしめ、犬を嗾けて人を害い、城社に穴(あなうが)ちて居い、薰鑿(いぶりだ)す可から不るか。漢之黨錮、世を理めんが為之罪人矣。今之朋邪、又た黨錮之罪人矣。仲長統曰く、「才智ある者亦た奸凶之羽翼たり、勇氣ある者亦た盜賊之爪牙たり」と。誠に是の言の如くして、然るに之を辨けるや未だ盡きず。是の如き者は皆小才小勇にして、祗だ能く詭道を用いて邪徑に入り、鼠の牙の屋を穿ち、虺(まむし)の毒の人に螫(どくか)い、巨海の陰夜、百色の妖露の如し。焉んぞ能く白日の怪(あやか)しと為らん哉。大道之行わるるや、當に齏粉(こなみぢん)矣るべし。
現代日本語訳
よく治まった世の中では、教育も行き届いて、群臣は朝廷で協力し、人民は民間で協力する。人間は自分で勤め励み、互いに好き嫌いや善悪の区別が無い。そういう世で、どうして朋党が出来ようか。仲長統は言ったという。「違う者が同じ場に居るから正不正が生まれ、愛憎があるから朋党が生まれ、朋党は怨みと仲違いを必ず作る」と。その通りだ。
後漢の桓帝・霊帝の頃、実権は宦官に握られて、役人の規律もだらけ、教育も衰えが進んでいた。それを刷新しようとした役人は、史上初めてその議論を理由に、まとめて収監され、傷付けられ殺された。いわゆる「党錮の禁」である。
彼らがそんな中で反対論を強め抗議行動を激しくし、当時の世の中を批判し告発した理由は、儒教の維持を図ろうとしたからである。そうして悪党を追い払ったから、朋党など要らぬ太平の世からは懸け離れていたけれども、やはり正義にかなった行いだった。
だが今の朋党は、誰もが時代の出世人を頼りに取り巻いて、立派な君子を落とし入れ、天下の動きを大げさに言うことで結束を強め、儒教の知識を親玉の大悪党に伝授して手助けしている。いわゆるサルをおだてて木に登らせ、犬をけしかけて人に噛みつかせ、津々浦々の見えない所に隠れはびこり、いぶり出そうとしても出し切れない、というやつだ。
漢の党錮は、世を治めようとして罪科をかぶった。今のよこしまな朋党も、またまとめて収監すべき罪人である。(両者の区別はつきがたい。だから)仲長統は言った。「智恵者も凶暴な悪党の参謀になり得る。勇者も盗賊の手先になり得る」と。まことにその通りだ。だが智恵者、勇者、朋党の良い悪いは、今なお見分ける法が無い。
だから今は小ヂエや少々の勇気を持った連中が、ひたすら人を言いくるめてよこしまな稼ぎに精を出すのがせいぜいで、ネズミが家をかじり、マムシが人を咬むように、大海の闇夜のなかで、ありとあらゆる化け物が横行している。奴らが看板にするような、まともなお天道様なら、どうしてこんな如何わしいことをやろうか。その実奴らは、本当の正しい道が行われたら、あっという間に粉々になる連中だ。
訳注
李徳裕:787-850。晩唐の貴族。宰相を務めた。
仲長統:181-220。後漢末の世間師。
解説・付記
李徳裕は晩唐の時代、牛僧儒一派との激烈な政争を繰り返し、唐帝国滅亡の一因となったとされる(牛李の党争)。だが現実的手腕に長けた実務家でもあって、李徳裕ばかりが唐滅亡の原因ではない。統一中華帝国は、規模がでかいだけに少々のしくじりでは滅ばず、滅亡までにはいろいろな要因が積み重なって、つまり多臓器不全により滅びるにいたる。
唐帝国は中国に貴族制があった最後の時代で、李徳裕は趙郡李氏という指折りの名門貴族の出身だった。その先祖は戦国時代の趙の名将・李牧と言われ、鮮卑人=鐙(あぶみ)を持った匈奴出身の唐の帝室よりよほど毛並みがよい。そういう理由で李徳裕は科挙を受けることなく政界入りし、宰相の位にまで昇ったのだが、貴族が必ずしも無能で人格破綻者でないことの一例だろう。


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