原文

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北邙山上列墳塋
万古千秋対洛城
城中日夕歌鐘起
山上唯聞松柏声
書き下し
北邙山上 墳塋列び
万古千秋 洛城に対う
城中日夕 歌鐘起こるも
山上唯だ聞く 松柏の声
現代語訳
風光明媚な北邙山、その上に並ぶ王侯貴族の陵墓。
先年万年、華やぐ都の洛陽を見下ろす。
まちは賑わい、朝夕歌や鐘の音が聞こえるが、
山は松やヒノキ林に、ただ風が過ぎるだけ。
注釈
形式:七言絶句/韻:(平)庚
沈佺期:
656?~714。初唐の詩人。相州内黄(河南省安陽市内黄県)出身。字は雲卿。宋之問とともに沈宋とよばれた。唐の高宗上元二年(675)に進士に及第したが、収賄のかどで収監され、出獄後ふたたび官僚として勤務した。中宗が即位すると、讒言によって流罪とされたが、のち史官として都に戻った。→wikipedia
北邙山:
=邙山。東周・後漢の都で唐の副都だった洛陽の近郊にある丘陵地帯。風光明媚な地だったので、後漢の時代、城陽王劉社をこの地に葬って以降、王侯貴族の陵墓が多数造営された。後漢の光武帝劉秀の陵墓もこの地にある。
墳塋:
墓場。祖先の墓のある故郷のこと。
洛城:
洛陽のこと。
松柏:
松と柏(ひのき・このてがしわなどのひのきの類の総称)。
節操・長寿のたとえ。ともに常緑樹で色をかえないことから。「知松柏之後彫也=松柏の彫むに後るるを知るなり」〔論語・子罕〕。「松柏之寿」。
付記

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洛陽は漢籍を語る上で欠かせないまちで、西の長安(陝西省西安市)と並んで中国を代表する都だった。ここに初めて都を置いたのは、根拠地の鎬京(西安)を異民族に落とされた周の平王で、以降の周を東周と呼ぶ。
西の長安が、西周の鎬京・秦の咸陽・前漢の長安・隋の大興城・唐の長安として、王朝を創業した軍事都市としての印象が強いのに対し、東の洛陽は、東周の洛邑・後漢の洛陽・唐の副都洛陽として、軍事は振るわないが、その代わり文化的な印象の強いまちだった。

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また中華文明の中心たる中原という言葉も、元はといえば洛陽を中心とした黄河の下流域に広がる華北平原を意味していた。∩の字形に黄河が曲がっている内側はモンゴル語でオルドスと呼ばれ、元はといえば騎馬民族の住む土地だった。
その下辺を流れるのが黄河の支流である渭水で、長安はその流域にある。
作者の沈佺期は、中国史上唯一の女帝として知られる則天武后と同じ時代を生きた人で、その時代に進士及第というのは、掛け値無しに詩がうまかったことを物語る。のちの科挙=高級官僚採用試験では、合格者をほぼ進士と呼んだが、この時代はそうではなかったからだ。
隋に始まった科挙には、唐の時代さまざまな科目があり、法律や儒教経典の知識を問うコースもあった。その中で進士科は事実上、詩文の才だけで合格者を決めていたので、のちの進士のように、四書五経の暗記に優れていればなれる学位ではなかった。
日本では唐というと、遣唐使などのこともあって、いかにも中国らしい王朝と思われているが、実は隋と並んで漢人王朝ではない。三国の動乱以降に華北に移住した、遊牧民たる鮮卑人の政権で、帝室ももと軍閥であり、南北朝以来の名家ではなかった。
唐代は中国史上、最後の貴族制社会で、その中にあって唐の帝室・李家は、むしろ片身が狭かったと言われる。科挙を受けた者もその多くが貴族の家柄ではなく、沈佺期もおそらくは名も無き庶民の出だっただろう。それは則天武后もまた同じだった。
則天武后は貴族の反発を抑えるために、科挙出身者を重用したと言われる。沈佺期が流罪に処されたのも、則天武后の時代に出世した反動だった。ということは彼の詩文の才を明かすものではあっても、ただの貪官汚吏(ワイロ大好き役人)だったことを示すものではない。

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