tiwitter、または知らない言葉を振り回すべきではないことについて

論語訳者の論語知らず

サイトの記述で綴りがtwitterではなくtiwitterになっていた。恥ずかしいことである。

小中高大と過去に十年以上も英語の教育を受けたにもかかわらず、苦手なものや必要の薄いものでは、どうしてもこう言うことが起こる。エディター君が優秀で、入力時にミススペルは教えてくれるにも関わらず、普段htmlのタグ打ちなどで無視しているから、阻止できなかった。
夏目漱石は、『吾輩は猫である』の文中で、「ギリシア語うんぬんはよした方がいい、さもギリシア語が出来ますと云わんばかりだ、ねえ苦沙弥君」と書いている。私にとっての英語は明治人のギリシア語とほとんど変わらず、振り回していい言語ではない。

論語で孔子も「知ったかぶりするな。知っていることだけを知っていると自分に言い聞かせろ」と言い、「中身もないのに言葉を振り回しても、何の役にも立たない」と言っている。そのくせ自分はおしゃべりな孔子先生だが、だからこそ弟子を戒めたのだろう。

本サイトで論語の独自訳などしているのも、まあ漢文については誰だろうと同じ土俵に立てると勝手ながら思い込んでいるから出来ることで、英語や現代中国語、ましてロシア語のサイトを作るような技量も度胸も全くない。書きたければただコピペあるのみである。

ただし思うのは、人というのは自分に度胸や自身が備わろうと間違いはしでかすものだし、度胸と自信が揃うのを待っていたら、いつまでも何も出来ないということだ。ガガーリン少佐は点火されたロケットに乗せられ、「Поехалиパイェーハリ!(行くぞ!)」と度胸で言って偉人になった。

熱と轟音と振動の中で、少佐に生きて帰る自信があったとは思えない。生きて返す自信は設計者のコロリョフにも無かったことが記録にあり、ましてソ連領に帰還できるかは未知数で、秘密技術が漏れるのを恐れたKGBは、少佐に自殺用の拳銃(or毒薬)を渡そうとしたという。

さすがにそれはひどいとフルシチョフ以下が止めて、少佐は拳銃なしで飛び立ったのだが、行くぞ!との絶叫がなければ、今我々はスマホもPCも使えない。私がこんな事を書いてご覧に入れる事もなかった。限界を突破する蛮勇がなければ、人類も個人も飛躍できないのだろう。

こんにち、人の生き方そのものが大きく変わろうとしている中で、従来の生き方にしがみつこうとすれば、まるでタイタニック号のボートを奪い合うような騒ぎに飛び込まねばならない。自信があっても運が悪ければ、オールでぶちのめされて凍った海にドボンするはめになる。

転換期というのはそういうもので、日頃人畜無害を心掛けている私でも、すでにボートに乗った組ならば、オールどころか錨でも振り回すことだろう。となれば確立半分炎上承知のロケットに志願して乗るのも、運に左右される点ではあまり変わりがあるまい。

もちろんバクチを張れとお他人様に勧めるわけではない。私はバクチもずいぶん長く張ったし、バクチはまじめに張るものだと思っているが、どれだけ頭を絞り尽くし、出来る手立ては出来るまで打っても、運の前にはあっさり蹴散らされることをほとほと思い知っている。

孫正義氏が講演で、「私はバクチ打ちではない。そう見えるかも知れないが、力量の三割以下でしか張らないし、まして生き残れないようなバクチは張ったことがない」と言っているのをyoutubeで見たことがある。才も運もある人ならではだが、無い者はなおさらだろう。

凡人は地道に積み重ねるしかない。しかし積み重ねとはしがみつくことを意味しない。努力は日々続けるが、その向ける方向(砲口と出た!)は、ボートに向かって走るだけではいけないのだろう。ITのおかげで日々の積み重ねが容易にグラフ化できる今、それを思う。

例えばサイトのSEOでも、10年前なら目の玉が飛び出そうなアクセス解析が、google様のお恵みなら、タダで使えてしまう。こまごまとそのデータに目を遠し、ちまちまと日々作業して行けば、ぼちぼちではあるが成果が積み上がっていくのを目にすることができる。

それを喜んでもナンボにもならないが、人は金だけで喜ぶものではないし、金以外の喜びがないと、どうやら心を病んでしまうらしい。病むくらいなら、そして病んでしまったなら安上がりの薬として、ぼちぼちを眺めるのも悪くはないだろう。

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