孔子塾生にとっての目標は、仁=貴族らしさを身につけて仕官し、差別を乗り越えることで、孔子にとっての目標は、そうした新しい人材=官僚が国政に携わり、家柄血統に縛られない国を作ることだった。だが衛国には人材がいすぎて、国盗りが出来そうに無い。
論語憲問篇20で、孔子自身がそう言っている。ただし衛国は、孔子と親しい国際的任侠道の大親分、顔濁鄒の本拠地であり、政府転覆さえ企てなければ、やり手の霊公も孔子を優遇する気が十分だった。だから最初の衛国滞在から逃げ出したにも関わらず、何度か戻っているわけ。
また顔濁鄒は、弟子の子路の縁戚であり、衛国には、アキンド子貢の本店もあった。その意味で衛国は孔子にとって、第二の故郷とも言え、衛国公に味方しそうな雰囲気はあっただろう。だが孔子は冷静に、衛国公に手を貸しても、一門の利益にはならないと判断した。
孔子はいい先生ではあったが、冷徹な革命家でもあったのだ。
孔子は政治工作に放った弟子のうち、公冶長には娘を妻合わせて優遇したが、司馬牛は見殺した。革命家の孔子は、革命のためなら非情になれる人物でもあった。ただし上級貴族出の司馬牛は、孔子塾に身分差別を持ち込んだ形跡がある。それが孔子には許せなかったのである。
論語述而篇(14)要約:孔子先生は革命家でもあり、その志を同じくする弟子もいて、彼らを連れて放浪の旅に出ました。過激ではあっても有名人で、実務能力にも優れていましたから、亡命先の政治に首を突っ込む事も多かったようです。