漢字の古さからは、論語の本章を後世の創作とする証拠は無いが、本質的に革命家だった孔子は、亡命作の衛国で政府転覆工作をやり、弟子の司馬牛を見殺しにするなど、後ろ暗いことを随分やってきた。巷間「孔子は理想の政治の場を求めて放浪した」の現実がそれである。
すでに確立した政権に、政治を変えろと要求するのは、それはクーデターに他ならないからだ。その孔子が「素直に生きろ」と言われても、釈然としないものを感じる。人当たりのよい、政治工作には携わらなかった子夏あたりに、語った言葉ではなかろうか。
孔子一門は、子路・顔淵・子貢・冉有といった年長組と、子夏・子張・樊遅といった年少組に分かれる。子游はその中間ぐらいの年齢だが、グループとしては後者と言ってよい。年長組は孔子亡命前に弟子になり、放浪にも同行し、戦闘や謀略など、孔子の私兵となって働いた。
対して年少組は、年齢から孔子帰国後に入門したと思われ、孔子68歳から逝去した73歳までの、約5年間しか師弟の接触が無い。帰国後の孔子は後ろ盾の呉国が凋落したこともあって、さほど活発に政治工作を行ったわけでは無かった(孔子・論語年表)。
論語の本章は、おそらくそのような折の発言だろう。あるいは、孔子71歳の時、見捨てた弟子の司馬牛が、わざわざ魯国に来て変死しているから、自分に対して「素直に生きればよかった」という嘆きかも知れない。もしそうなら、論語の本章にはぐっと迫力が出るのである。