ある漢文読みのぼやき

先日の即位礼を見ていた時、安倍ちゃんが「私たち﹅﹅国民」と祝詞を述べていたのに引っかかりました。相手が天皇陛下だからではありません。相手が誰だろうと、一人称に敬語をつけるのに違和感を覚えるからです。「たち」は「達」、本来殿上人(てんじょうびと)への敬称です。

殿上人とは、五位以上の官人と六位の蔵人(くろうど)、とは日本史の教科書的知識です。本来は殿上の間、つまり天皇がそこにいる部屋に入れる人を殿上人と呼ぶのもまた、日本史の教科書的知識です。蔵人とは天皇の秘書で、なるほど部屋に入らねば仕事ができません。

殿上人のうち上達部(かんだちめ)、つまり参議以上の議政官を上に達する人と呼んだのは、「達」の原義を示す史実です。従って昇殿などあり得ない子は、親にとって子であり、子供という民主的風味の奇怪千万な日本語は、その実悪しき商業主義の企てが生んだものです。

泣こうがわめこうが、日本語は古い身分制度を引き継いで成立しています。つまり身分制度の影響を重々承知しながら、それはあったものだとして使わなければ正しいことばになりません。その上で身分制度のよしあしを論じるのでなければ、ただの無知無教養と不可分です。

訳者は東京の下町に住んでいますが、ごくたまに、きれいな江戸言葉を聞く事があります。そこでの一人称は「手前ども」。お客が来たら「ご案内」。案内とは知識の中に入れることであり、現代語で言う「案内」される﹅﹅﹅人の行為であることから、「ご」という敬語が頭に付く。

現代語だとつい、「案内」=案内する者の行為→だから「ご」を付けるのは間違いだという、生半可な間違った批判を受けかねない正しい敬語が、ちゃんとした江戸っ子なら話せるのです。そういった人は別に学者や教師ではありません。古風な職人だったりする。

こうした当たり前の、相手を尊重することばが出る江戸っ子は、もう少なくなってしまいました。ただしそのことばの世界は、身分制度と関係がありません。ただ、相手を敬い自分を下に置く。他者のおかげで生きているヒトに過ぎないことを、思い知らせることばです。

他者の中には自然環境も入ります。自然は敬い有り難がり、おずおずと知りうるものであり、わめいて他者に保護を強要するものではありません。一息ごとに無慮数万の微生物を、鼻の粘膜で殺している事実に思いを致す時、環境環境と叫ぶ声が、不遜極まりなく思えるのです。

訳者がいわゆる活動家に感じるのはそこです。無知無教養にもほどがある。

従属生物として殺さねば生きられない事実と縁を切った所に、名さえ売れれば儲け放題の、現代の広告主義は成り立っています。事実はどうでもいい、実利だけを求めよと。それは平気ででっち上げを書いた、歴代の中国の儒者と同じであるばかりか、現代のかの国と同じです。

さる保守系で売っている報道機関が、即位の礼に付随して「外国の元首ら」と書いていました。読んで「私たち」同等以上の恥ずかしさを感じました。仮にも外国の元首を、「ら」という卑下語で表すとは。政治的な事情はともかく、それはその国の人々を馬鹿にしています。

何も不愉快をしないのに、どうして人をおとしめることができるでしょうか。個人的にせよ組織的にせよ、集金装置としてすでに名が売れきっている報道機関人にとっては、どうでもいいことなのでしょうし、訳者のように恥ずかしさを覚える日本人も少ないのでしょう。

ただ訳者は感じるのです。綺麗な日本語を使う事に金銭的意味はすでに無い。それゆえカネに絡まぬゆえ言いましょう。左も右も●゛カばっかりだ。敬語一つ正しく使えない。思考の道具として母国語は外せないのに、どいつもこいつもまるで勉強が足りない。

母国語が不自由なら、無知から抜け出すことは出来ない。そいつのカネは時運による。

このサイトの主題である論語も同じです。九分九厘のサイトは地道に辞書を引くでなく、どっかの権威本の混ぜ合わせコピーに過ぎません。その権威本ですら極めて怪しく、自力で読もうとした本はごく少数です。カネに絡まぬゆえ言いましょう。でたらめばっかりだと。

漢文を書き下すことなく現代語訳することは、可能と言えば可能です。しかし書き下し一つまともに出来ない人で、漢文を読める人に会ったことがありません。たいていは書き下しが出来ない無能の言い逃れで、つまりは古文の知識が無く、要するに日本語が不自由なのです。

日本語が不自由なら、思考の程度も多寡が知れます。外国語で思考できるほどの漢学者にも、やはりお目にかかったことがありません。仮に東大教授だろうと同じです。つまり古文を含めた日本語の読み書きに苦労を感じない人でなければ、漢文など読めるわけがないのです。

訳者はかつて編集者として、そういう教授連と付き合った過去があります。東大教授になった途端、以後何十年も一本の論文すら書かず、定年まで税金を食うだけの人●製造機に化した人を直に知っています。国公立私立に関わらず、カネさえ目処が付けば、人は働かないのです。

日本語が不自由なら、外国語も不自由。

誰でも漢文を読めるようになるサイトを名乗る以上、これは強調せざるを得ません。誰でも漢文を読めますが、たかが大学入試程度の古文漢文につっかえているようでは、読めるわけがありません。しかし読めるようになる方法は簡単ですし、それはそうなりたい人には簡単です。

読みたくない人には、読めないのです。

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