論語129雍也篇第六(12)子の道をよろこばざる

論語雍也篇(12)要約:仁一つ取っても、孔子塾の修行は並ではありません。先生は優れた弟子にはとりわけ、厳しい修行を要求しました。実務家として優れた冉求ゼンキュウも、これには音を上げました。切って返す先生は冉求に…。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

冉求曰、「非不說子之道、力不足也。」子曰、「力不足者、中道而廢。今女畫。」

書き下し

冉求ぜんきういはく、みちよろこばざるにあらず、ちかららざるなりいはく、ちかららざるものは、中道みちなかばにしつ、いまなんぢかぎれりと。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 冉求 冉有
冉求ゼンキュウが言った。「先生の説く原則を喜ばないのではありません。力が足りないのです。」先生が言った。「力が足りない者は、道半ばでやめる。今お前は区切った。」

意訳

論語 冉求 焦り 論語 孔子 説教
冉求「先生の理想に共鳴はしますが、私には仁者の真似なんて無理です。」
孔子「(カチン!)言ったな !? やりもしないで何が無理だっ!」

従来訳

 冉求ぜんきゅうがいった。――
「先生のお説きになる道に心をひかれないのではありません。ただ、何分にも私の力が足りませんので……」
 すると、先師はいわれた。
「力が足りないかどうかは、こんかぎり努力して見たうえでなければ、わかるものではない。ほんとうに力が足りなければ中途でたおれるまでのことだ。お前はたおれもしないうちから、自分の力に見きりをつけているようだが、それがいけない。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

冉求(ゼンキュウ)

論語 冉 金文大篆 論語 求 金文
(金文)

孔子の弟子。実務に優れ、政戦両略の才があった。詳細は論語の人物:冉求子有参照。

論語 道 金文 論語 君子 諸君 孔子
(金文)

論語の本章では、”孔子が説く仁の道”。

道とはこうである、と言ってしまったが最後、一晩説教されそうな中国文化上の一大概念。訳者は”原則”という大々広義で済ますことにしている。論語では”やり方・方法・原則”と解すればまず読み損ねない。

なお「道」の詳細な語釈は、論語語釈「道」を参照。

說(説)

論語 説 金文大篆 論語 説
(金文)

論語の本章では「悦」(エツ)と音が通じて”喜ぶ”。同じ喜ぶでも、頭にもやがかかったような状態がすっきりと晴れて、うれしがること。戦乱の時代の中でモヤモヤ悩んでいたのが、「こうすれば世直しが出来るのじゃ」と孔子に教えられてすっきりしたわけ。

先秦両漢=中国古代の文章では、音が同じだと字の形にこだわらないことが多い。それが藤堂明保博士の漢字学の土台だが、理由の一は昔だからそんなに字が出そろっていなかったこと、もう一つは古典は書き写す間に写し間違いがあることによる。

力不足也

論語 足 金文 論語 違 解字
「足」(金文)

論語の本章では”先生の仁や礼には付き合いきれません”。

「足」は『学研漢和大字典』によると象形文字で、ひざからあし先までを描いたもので、関節がぐっとちぢんで弾力をうみ出すあし。捉(ソク)(指をちぢめてつかむ)・促(ソク)(間をつめて急がす)・縮(シュク)(ちぢむ)と同系のことば。

類義語の脚(キャク)は、却(キャク)(くぼむ)と同系で、ひざで折れて、うしろにくぼむあし。あしのことを中世以後の口語では足といわず、脚という。疋(ショ)は、左右あい対するあしのこと。股(コ)は、またぐとき∧型に開くところ。太もも。趾(シ)は、あしくび。腿(タイ)はもも。脛(ケイ)は、まっすぐなすね、という。

孔子の話を聞いてすっきりしたはいいのだが、その内容は居たんだかよく分からない太古の聖王の政治に戻せと言う。そのためのお作法だったり政治学だったりするわけだが、例えば現代に置き換えれば、身分制度を取り入れたり、「明日から外に出る時にはトサカをかぶりなさい」と言った所で実現するわけがない。

「滑稽」の語源となった、斉の宰相・晏嬰アンエイの言葉がそれを表している。

論語 晏嬰
今、孔子は見た目を飾り立て、上り下りの礼や作法を面倒にしましたから、世代を重ねても覚え切ることはできません。今年一年ならなおさらです。殿が孔子を用い、斉の習俗を変えようとするのは、数多い民を導く方法ではありません。(『史記』孔子世家

孔子の言う「礼」とはそういうことである。孔子の夢想した人物像が仁者であり、そのスペックが「礼」だからだ。論語の時代、弟子の中では特に多芸な冉求も、そのための革命に参加せよ、と言うより「お前もコスプレしなさい」と言われて、「とても無理だ」と思ったわけ。

論語 女 金文 論語 常盤貴子 女
(金文)

論語の本章では”お前”。女ではなく、音が通じる汝。理由は「説」と似ていて、形が似ていても意味が通じることがある。

畫(画)

論語 画 金文 論語 登記書

論語の本章では”私が付き合えるのはここまでです”。『大漢和辞典』によると、もとは図上に筆で引いた線で農地を区切って登記すること。

『学研漢和大字典』によると、会意文字で、「聿(ふでを手に持つさま)+田のまわりを線で区切ってかこんださま」で、ある面積を区切って筆で区画を記すことをあらわす。常用漢字字体は聿(ふで)の部分を略した形。

劃(カク)(区切る)・刲(ケイ)(区切る)・規(区切りをつけるコンパス)などと同系のことば、という。

弟子の中では仕事の出来る冉求には、孔子としてはコスプレ大会にも参加して欲しいところ。「うすのろ」曽子や「やんちゃ坊主」子張には言わなかっただろう。

論語:解説・付記

論語の本章は、論語に言う仁とは何かが分かっていないと、分からない。

論語 吉川幸次郎
既存の論語本では吉川本に、「食わず嫌いは、懶惰と同意義であることを、この条は痛烈に指摘する。しかし孔子の言葉の、いつものおだやかさは、失われていない」と書く。いやとんでもない。孔子は本気で怒っているのだ。自分の理想像を否定されたからである。

力不足者、中道而廢。今女畫。

普段の言葉ならゆるゆると付ける「也」や「焉」を一切言っていない。激しい語気なのだ。

孔子は論語時代の乱世を心より厭い、理想的人物=仁者が世を治めれば太平になるとあこがれた。それが高ぶるあまり、仁者のスペック=礼は否応なしに煩瑣になり、数が増え、常人には実践できるどころか、覚えるだけでも無理だと斉の家老・晏嬰アンエイに言われている(上記)。

かかる孔子の等身大仁フィギュア趣味には付き合えない、と冉有が白状したのが本章で、こんにち非趣味人が趣味人の行動の奇矯さに、時に目を背けたくなるような感情を冉求は持ったのだろう。孔子一門では実直な実務家として知られた冉求は、オタクになれなかったのである。

論語 フィギュア 魔法少女

今様いまようなら魔法少女の杖とか渡されて、「さあコスプレしなさい」と言われたようなもの。
「先生のお話はよぉーく分かりました。分かりましたが、私には付き合えませんこんなの」
「なんじゃとーっ! このタワケ者めが。わしの趣味をやりもせずこんなのとは何じゃ!!」

論語 冉有2
冉求は武将としても優れ、孔子の帰国活動に最も貢献した弟子でありながら、論語では唯一、破門を記された弟子でもある(論語先進篇16)。その理由を示すのが本章で、好き嫌いの激しい孔子は、熱く語った自分の趣味を否定され、心底冉有が嫌いになったに違いない。

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