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論語詳解122B雍也篇第六(5)原思これが宰*

論語雍也篇(5)要約:後世の創作。弟子の原憲は貧乏で、孔子先生は哀れんで、執事に雇って高給を弾みます。しかし欲の薄い原憲は、多すぎますと断りました。そんな原憲を先生は一層好ましく思い、諭して受け取らせたという作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

原思爲之宰與之粟九百辭子曰毋以與爾鄰里郷黨乎

校訂

東洋文庫蔵清家本

原思爲之宰/與之粟九百辤/子曰毋/以與爾隣里郷黨乎

  • 「辤」字:「辭」の異体字。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

原思爲之宰。與之粟九百、辭。子曰、「毋。以與爾鄰里郷黨乎。」

復元白文(論語時代での表記)

原 金文思 金文為 金文之 金文宰 金文 与 金文之 金文米 甲骨文九 金文百 金文 辞 金文 子 金文曰 金文 母 金文 㠯 以 金文与 金文爾 金文鄰 金文里 金文郷 金文乎 金文

※粟→米(甲骨文)。論語の本章は、「黨」の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国末期以降の儒者による創作である。

書き下し

原思げんしこれけにんがしらり、これたなつものここのつあたふ。いなむ。いはく、なかれ。もつなんぢとなりやどもとさとともがらあたへんと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
原思がどこかの執事になった。原思にアワ九百を与えた。断った。先生が言った。「やめよ。これをお前の近所や知り合いや故郷の人や一族に与えよ。」

意訳

原憲がどこかの大貴族の執事になった。年俸としてアワ四人分弱を与えた。
原憲「私一人では多すぎますから、断りました。」

孔子 楽
孔子「いや、取っておきなさい。余ったら、ご近所や親類縁者に配るといい。」

従来訳

下村湖人
原思(げんし)が先師の領地の代官になった時に、先師は彼に俸祿米九百を与えられた。原思は多過ぎるといって辞退した。すると先師はいわれた。――
「遠慮しないがいい。もし多過ぎるようだったら、近所の人たちにわけてやってもいいのだから。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

原思在孔子家做總管,孔子給他一萬斤糧食,他不要,孔子說:「不要推辭了,給你老家的鄉親們吧!」

中国哲学書電子化計画

原思が孔子家の執事になったとき、孔子は彼に一万斤(5t)の穀物を与えたが、彼は欲しがらなかったので、孔子は言った。「遠慮するな。お前の故郷の親戚や隣近所にやったらどうか。」

論語:語釈

原思(ゲンシ)

BC515ー?。孔子の弟子、原憲子思。姓氏は原、いみ名は憲、あざ名が子思。『孔子家語』によれば宋の出身、孔子より36年少で、孔子没後は衛国で隠居した。隠居後に子貢が訪ねると、質素な生活を楽しんでいたという話が早くは戦国時代の『荘子』『列子』など諸本に伝わる。それによると住まいはおんぼろではあるが、壊れた大かめの口を使った窓を備えるなど、見ようによってはわびさびの効いた趣味の良いものであったという。訪ねた子貢は世にこびを売って富んだことを批判され、恥じたと言うが、実は原憲がうらやましかったのかも知れない。

元 趙孟頫 甕牖図 国立故宮博物院蔵 *クリックで拡大

孔子在世当時、原憲が貧窮していたという記録はないが、本章から考えると当時から手元不如意で、思いやった孔子が給与をはずんだと考えたい。なお原憲について詳細は、論語の人物:原憲子思を参照。

呼び名が「原憲」や「子思」になっていない理由は、孔子の孫・孔キュウのあざ名も子思とされることからで、本当にあざ名が重なっていたのか、証拠は無い。孔伋もまた貧窮していたと『史記』は記す。

孔子生鯉、字伯魚。伯魚年五十、先孔子死。伯魚生伋、字子思、年六十二。嘗困于宋。子思作中庸。


孔子は鯉を生み、あざ名は伯魚。伯魚は五十歳で、孔子より先に死んだ。伯魚は伋を生み、あざ名は子思、享年六十三。宋国で困窮の生活を送った。子思は『中庸』を書いた。(『史記』孔子世家)

原 金文 原 字解
「原」(金文)

「原」の初出は西周末期の金文。”たずねる・根本を推求する”の語釈を『大漢和辞典』が載せる。字形は「厂」”がけ”+「冂」”隙間”+三点”水の滴るさま”で、原義は”みなもと”。金文では地名、人名に用いた。戦国の竹簡では原義に用いた。詳細は論語語釈「原」を参照。

思 金文 思 字解
「思」(金文)

「思」の初出は春秋末期の金文。画数が少なく基本的な動作を表す字だが、意外にも甲骨文には見えない。字形は「」”人間の頭”+「心」で、原義は頭で思うこと。金文では人名、戦国の竹簡では”派遣する”の用例がある。詳細は論語語釈「思」を参照。

憲 金文 憲 字解
「憲」(金文)

なお「憲」の初出は西周早期の金文。字形は「害」”ふた”の省略形+「目」で、覆われたものをも見通す目のさま。原義は”賢明”。金文では原義に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「憲」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”する”→”…になる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

宰(サイ)

宰 甲骨文 宰 字解
(甲骨文)

論語の本章では”執事”。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「ケン」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。

爲之宰(これがけにんがしらたり)

論語の本章では”どこかの執事”。代名詞「之」は以前の名詞を肩代わりする規則で、それに当たる名詞が前に無いときは、直前の動詞を強調する語と解するべきだが、本章の場合、”まさに執事になった”では文意が分からない。

このためか新注では今回を前回の続きとして解し、前回すでに登場している「子」=孔子の家宰と解する。対して古注では前回と今回を分けている。

『論語集釋』を参照すると、その他の儒者も誰の執事になったかいろいろなことを言っているが、どの一つにも根拠が無く、最初から「孔子の執事」と決めてかかり、それに都合の良いように論語の前章などを引き出している。だが証拠には全くなっておらず、わからないものはわからないとすべきだろう。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”与える”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」

粟(ショク)

粟 燕系戦国文字 粟 字解
(燕系戦国文字)

論語の本章では”穀物”または”アワ”。初出は燕系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「米」。「ゾク」は慣用音、「ソク」は呉音。カールグレン上古音はsi̯uk(入)で、同音は存在しない。字形は「果」+「米」で、イネ科の穀物が実ったさま。原義は”穀物”。「粟」にも「米」にも、ともに”麦以外の穀物一般”の意がある。詳細は論語語釈「粟」を参照。

九百(キュウハク)

九 甲骨文 百 甲骨文
(甲骨文)

「九」の初出は甲骨文。字形は腕の象形で、のち音を借りて数字の「きゅう」を表した。原義は”ひじ”。甲骨文では原義で、また数詞に用い、金文や戦国の竹簡でも数詞に用いた。詳細は論語語釈「九」を参照。

「百」の初出は甲骨文。「ヒャク」は呉音。字形は「帛」”きぬ”の字形の上部に含まれることから、蚕の繭を描いた形。「白」と区別するため、「人」形を加えたと思われる。甲骨文には「白」と同形のもの、上に「一」を足したものが見られる。「白」単独で、”しろい”とともに数字の”ひゃく”を意味したと思われる。詳細は論語語釈「百」を参照。

粟九百(ゾクキュウハク)

古注で孔安国がそう解釈して以降、粟九百斗と解する。論語の本章は定州竹簡論語に無く、古注も「九百」とあって単位が無く、京大蔵『開成石経論語』には「九百」としか記していない。宮内庁書陵部蔵南宋版『論語注疏』にも本文は「與之粟九百辭」とあるのみ。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰九百九百斗也辭讓不受也

孔安国
注釈。孔安国「九百とは九百斗のことだ。原憲は遠慮して受け取らなかったのだ。」(『論語集解義疏』)

孔安国は前漢前半の人物とされるが、高祖劉邦の名を避諱(はばかって使わない)しないなど、実在が怪しい人物である。とはいえ、「九百」を他の単位と考える根拠があるわけでも無い。1斗≒2リットルだから、1,800リットル、米俵換算で24.47俵、1t468kg。

辭(シ)

辞 金文 辞 字解
(金文)

論語の本章では”辞退する”。新字体は「辞」。初出は西周早期の金文。「ジ」は呉音。字形は「𤔔ラン」(乱)+「ケン」”尖った道具”で、原義は”ととのえる”。金文では”誓約する”の意に用いた。詳細は論語語釈「辞」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

毋(ブ)

毋 金文 毋 字解
(金文)

論語の本章では”やめよ”。「毋」は戦国時代以降「無」を意味する言葉として用いられた。現伝論語の中でも、「毋」が記されたのは本章が初出になる。初出は西周中期の金文。「母」と書き分けられていない。現伝書体の初出は戦国文字。論語の時代も、「母」と書き分けられていない。同訓に「無」。甲骨文・金文では「母」の字で「毋」を示したとし、西周末期の「善夫山鼎」にもその用例が見られる。詳細は論語語釈「毋」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”→”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”…で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

爾(ジ)

爾 甲骨文 爾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。

鄰(リン)

鄰 字解
(金文)

論語の本章では”隣近所”。『大漢和辞典』の第一義は”となり”。鄰は隣の異体字。初出は西周中期の金文。「鄰」の字形は初出が戦国末期の金文。字形は「阝」”家の入り口にかけたはしご”+かんじきをはいた「人」+”雨や雪の降るさま”で、雪が降っても出歩くような近い範囲のさま。原義は”となり”。西周中期の字形では、「阝」+「人」+”雨や雪”+「𠙵」になる。「𠙵」はかんじきの省略形とみるか、または天気の悪い日にもお互い声を掛け合う間柄を指すとみる。時代ごとの語義の変遷は情報が無い。詳細は論語語釈「隣」を参照。

里(リ)

里 金文 里 字解
「里」(金文)

論語の本章では、”住まう土地”。初出は西周早期の金文。字形は「田」+「土」”土地”で、原義は”農村”。春秋までの金文では原義、”裏”の意に、戦国時代の金文では長さの単位に用いた。戦国の竹簡・漢代の帛書では、加えて「理」”おさめる”の意に用いた。詳細は論語語釈「里」を参照。

鄕(キョウ)

卿 甲骨文 郷 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ふるさと”。初出は甲骨文。新字体は「郷」、「鄕」は異体字。周初は「卿」と書き分けられなかった。中国・台湾・香港では、新字体に一画多い「鄉」がコード上の正字とされる。定州竹簡論語も「鄉」と釈文している。唐石経・清家本は新字体と同じく「郷」と記す。「ゴウ」は慣用音、「コウ」は呉音。字形は山盛りの食事を盛った器に相対する人で、原義は”宴会”。甲骨文では”宴会”・”方角”を意味し、金文では”宴会”(曾伯陭壺・春秋早期)、”方角”(善夫山鼎・西周末期)に用い、また郷里・貴族の地位の一つ・城壁都市を意味した。詳細は論語語釈「郷」を参照。

黨(トウ)

党 金文 党 字解
(戦国末期金文)

論語の本章では、”ふるさとの共同体に属する者”。新字体は「党」。初出は戦国末期の金文。出土品は論語の時代に存在しないが、歴史書『国語』に春秋末期の用例がある。ただし物証とは言えない。『大漢和辞典』の第一義は”むら・さと”。第二義が”ともがら”。戦国の金文では地名に用い、”党派”の語義は前漢まで時代が下る。詳細は論語語釈「党」を参照。

鄰里鄕黨

論語の本章では”隣近所と郷里の親族知人”。古代のことゆえ、隣近所の住人は同族でもあるから、”親類縁者”と解しても良い。辞書的には家5軒=1鄰、5鄰=1里、100里=1鄕、100鄰=1黨だが、論語の本章を理解するのに、こういうカルト的な下らない知識はこだわらなくてもいい。たいがいは儒者のでっち上げだからで、それを真に受けるのは間抜けだから。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…よ・…ね”。「以與爾鄰里鄕黨乎」で、”ご近所に配るといいよ”。ため息やほっとして出る息を示す。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、定州竹簡論語に無く、先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。「粟」の字は論語の時代に不在だが、初出が甲骨文の「米」とともに、穀物一般を指した。「米」に置換すれば文字列が論語の時代に遡れるが、「黨」の春秋時代における不在はどうしようもない。

解説

上記の通り、論語の本章と前章の扱いは、分割した古注と統合した新注で異なる。

古注『論語集解義疏』

…註苞氏曰弟子原憲也思字也孔子為魯司冠以原憲為家邑宰也…註孔安國曰九百九百斗也辭讓不受也…註孔安國曰祿法所當受無以讓也…註鄭𤣥曰五家為鄰五鄰為里萬二千五百家為鄉五百家為黨也

包咸 孔安国 鄭玄
注釈。包咸「原思とは弟子の原憲である。孔子は魯国の司法大臣になって、原憲を自家と領地の執事に雇ったのである。」

注釈。孔安国「九百とは九百斗である。原思は遠慮して受け取ろうとしなかったのである。」

注釈。孔安国「常識的な給料であり、貰って当然で辞退する理由がなかったのである。」

注釈。鄭玄「家五軒で一鄰、五鄰で一里、一万二千五百家で鄉を組織する。五百家で党を組織する。」(『論語集解義疏』)

前漢前半の人物とされる孔安国は実在が怪しいが、新から後漢初期にかけての包咸、前漢後期の鄭玄は実在に疑いが無い。

後漢年表

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対して新注は次の通り。

新注『論語集注』

原思,孔子弟子,名憲。孔子為魯司寇時,以思為宰。粟,宰之祿也。九百不言其量,不可考。

論語 朱子 新注
原詩とは孔子の弟子で、いみ名は憲。孔子は魯の司法大臣だったとき、原思を執事にした。粟とは、執事の給料である。九百はその単位を記していないので、どれほどか分からない。


毋,禁止辭。五家為鄰,二十五家為里,萬二千五百家為鄉,五百家為黨。言常祿不當辭,有餘自可推之以周貧乏,蓋鄰、里、鄉、黨有相周之義。

論語 朱子 新注
毋とは”するな”の意である。五家で一鄰を、二十五家で里を、一万二千五百家で郷を、五百家で党を組織する。”するな”と孔子が言ったのは、常識的な給与であり遠慮の必要が無かったからである。余ったら自分の裁量でまわりの貧者に配ればよく、おそらく鄰・里・郷・党では、こうした互助が行われていた。


程子曰:「夫子之使子華,子華之為夫子使,義也。而冉子乃為之請,聖人寬容,不欲直拒人。故與之少,所以示不當與也。請益而與之亦少,所以示不當益也。求未達而自與之多,則己過矣,故夫子非之。蓋赤苟至乏,則夫子必自周之,不待請矣。原思為宰,則有常祿。思辭其多,故又教以分諸鄰里之貧者,蓋亦莫非義也。」

論語 程伊川
程頤「孔子先生が子華を使いに出したのは、先生の使いであり、道理にかなっている。冉子が手当を求めが、聖人は太っ腹で、直に”やり過ぎだ”とは言わなかった。だから手当が安いので、もっと出してやりなさいと言った。

冉求が付け足しを求めると、それより少なく渡そうとしたのは、付け足す道理が無いと思ったからだ。冉求は自分では手当の多寡を決められなかったから、結局出し過ぎてしまったが、だから孔子は多すぎると小言を言った。もし公西赤が貧乏だったら、先生は必ず手当をはずんだはずで、冉有に言われるまでも無かっただろう。

原思の場合は執事になったのだから、一時的な手当ではなく給料だった。原思は多すぎると断ったが、だからこそ近所や親戚の貧者にに配りなさいと教えた。おそらくこれも道理にかなっていなくはない。」


張子曰:「於斯二者,可見聖人之用財矣。」

張載
張載「この二人に対する扱いを見れば、聖人のお金の使い方が分かる。」

余話

金気を抜くなら

ちなみに2018年コシヒカリ買い取り価格は1等で30kg=6050円、3等で5200円という(JAしまねHP)。社会情勢も品種も換算基準も違う無茶な計算だが、1等で29万6749円、3等で25万44776円となる。となると「九百(斗)」は月給ではないだろうか。

ただし無茶ながら前回のように平均年収で換算すると、周代のアワ1リットルは約1万円だから、900斗だと1,800万円。これは月給ではなく、かなり高額の年俸と考えていい。これは宮崎説による換算に、かなり近い数字でもある。

宮崎市定
前回の宮崎本と『大漢和辞典』を参照すると、粟1日分は1.28リットルで、1斗≒2リットルだから、900斗は1406.25日分になる。これは3.85人が1年食える給与、金額で約1,617万円だから、こちらでも年棒と想像できる。これならご近所づきあい・親類づきあいが出来そうだ。

『史記』によると孔子が魯国で受け取っていた給与は「粟六萬」と言う。これも単位が記されていないが、斗であるとするなら、孔子は収入の1.5%を原憲に与えたことになる。

なお昭和のずいぶん遅くまで、人一人は一日三合の米飯を食べていた記憶が訳者にはある。日本の1石=1年分の飯米とするのはこの基準によるのだが、あまり金のありそうなことを書かない宮沢賢治は、「一日玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」と言っている。

宮沢賢治
味噌ト少シノ野菜しかおかずがなければ、四合食べるのも合点がいくし、四合の白米ではなく、滋養豊富な玄米なら、炭水化物のカロリーだけでなく、充分なビタミン・ミネラルが摂れるのかも知れない。中年以降のお腹には、とりわけよろしい健康食になりそうだ。

ともあれ訳者の体験として1日3合とすると、米1日分は0.54リットルになる。周代の中国人は、その2.37倍のアワを1日分としたことになるのだが、これは食費以外の諸色も含んでいるのだろうか? それともアワの栄養価はそれほど低いのだろうか?

文科省のサイトによると、精白アワ100gの炭水化物は69.7g、対して農水省サイトによると、精白コメ100gのそれは37.1g。精白すると倍近くのカロリーがアワにはあることになる。むろん論語時代では玄アワ?だろうから多少違うだろうし、小粒なアワとそれよりは大粒なコメの、ますで計る体積と、重量の違いを無視することにもなる。
アワ 粟

その結果、訳者の数理的不得手を世間にさらすことになるのだが、アワはコメに劣ることはなさそうだ、と言いたい。やはり粟1日分の1.28リットルは、食費以外を含んだ一日量と考えたい。

加えて以上は、宮崎先生の根拠を示さぬ一日量の受け売りであり、なにかとトボけたことをお書きになる宮崎先生の冗談であれば、全てご破算とあいなる。その上実在も怪しい孔安国が、中国人らしい数字のでたらめを書いたとすると、もう誰にも事実は分からない。

論語 吉川幸次郎
吉川本では「粟九百」について荻生徂徠をコピペして、「900斛=日本の8石8升を月給とし、年俸は97石」という。ついでに「徂徠が月給であるとした根拠はあきらかではないが」とあるが、高校日本史程度の知識があればわけもない。

建前としては年俸97石=97人が1年間食べる米の量になる。8石8升が年俸なら、関ヶ原後に大幅に減知された米沢藩あたりしかあり得ない薄給。

会津120万石から米沢15万石に転封された上杉家は、家臣団をほとんど召し放たなかったので、「金物の、金気を抜くなら上杉様」と江戸っ子に馬鹿にされるほど困窮した。そんな8石8升の年俸では、さすがの原憲も遠慮しないだろうし、ご近所に配る余裕があるわけがない。

97石でも、江戸時代の幕臣で言えばようよう旗本か御家人かの境目で、知行地は与えられず禄米取り。幕臣が借金取り怖さに、道で札差に出会うと横町にそれた、のは日本史の常識と言っていい。織豊政権期の軍役なら2.5人弱で、当人と従者1人を出陣させられる程度の知行。

むしろ疑うべきは月給か年俸かではなく、「900斛=日本の8石8升」の換算の方だろう。決定的なのは「コク」と「」(慣用音)の混同で、『大漢和辞典』によると1斛=10トウ、周代の容量だと約20リットル。900斛≒18,000リットルとなる。

斛:十斗也。从斗角聲。(『説文解字』巻十五斗部9441)

対して江戸幕府の法定量である新京枡1升が約1.8039リットル、徂徠の言う8石8升は808升、約1,457.55リットル。周代900斛≒18,000リットルの江戸石高換算としてぜんぜん足りないし、意味なく論語古注の「斗」を「斛」に読み替えたのは、無茶と言うよりほかに無い。

訳者は日本史について、高校教科書を超える知識を知らないのだが、徂徠の時代には「斗」を「斛」と解したのだろうか。現存する論語の最古の注である、宮内庁書陵部蔵南宋版『論語注疏』にも「孔曰九百九百斗」とあって、「斛」とは記していない。

斗 金文 斛 金文
「斗」「斛」(金文)

なお漢字「斗」の初出は甲骨文だが、「斛」の初出は戦国末期の金文で、しかも字形から、どうやら「百斗」の意であるらしい。

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