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論語詳解194泰伯篇第八(10)勇を好みて貧*

論語泰伯篇(10)要約:後世の創作。武芸自慢が貧乏になると暴れ出す。情けの無い者も貧乏になると暴れ出す。なるほどそうかも知れません。ただし論語の時代、お金は存在しませんから、「貧」の字も存在しなかったのでしたが…。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰好勇疾貧亂也人而不仁疾之巳甚亂也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰好勇疾貧亂也/人而不仁疾之已甚亂也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「好勇疾貧、亂也。人而不仁、疾之已甚、亂也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 好 金文勇 金文疾 金文 亂 金文也 金文 人 金文而 金文不 金文仁 甲骨文 疾 金文之 金文已 矣 金文甚 金文 亂 金文也 金文

※仁→(甲骨文)。論語の本章は、貧の字が論語の時代に存在しない。「疾」「亂」「也」「仁」「之」「已」「甚」の用法に疑問がある。本章は前漢儒による創作である。

書き下し

いはく、いさこのみてまづしきをにくまば、みだるるなりひとにしなさけあらるもの、これにくむこと已甚はなはだしからば、みだるるなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
先生が言った。「勇気を好んで貧しさを憎めば、乱れる。人であって憐れみの心が無い者は、貧しさを憎めば乱れる。」

意訳

孔子 人形
仁とは何かをお尋ねかな? 人を憐れむ事でござる。喧嘩っ早い奴は、貧乏になるとすぐに暴れ出す、これは分かりやすいが、他人の悲しみを思いやれない奴も、貧乏になるとすぐに暴れ出すのでござる。つまり仁のなさけが無い者は、ろくなもんじゃないのでござるよ。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「社会秩序の破壊は、勇を好んで貧に苦しむ者によってひき起されがちなものである。しかしまた、道にはずれた人を憎み過ぎることによってひき起されることも、忘れてはならない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「崇尚勇猛而討厭貧困的人,是禍害;被人唾棄的沒良心的人,是禍害。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「勇猛を尊んで貧困を嫌がる人は、もう災いでしかない。人にツバをかけられる良心の無い人は、もう災いでしかない。」

論語:語釈

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

好(コウ)

好 甲骨文 好 字解
(甲骨文)

論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。

勇(ヨウ)

勇 金文 勇 字解
(金文)

論語の本章では、”勇気がある”。現伝字形の初出は春秋末期あるいは戦国早期の金文。部品で同音同訓同調の「甬」の初出は西周中期の金文。「ユウ・ユ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「甬」”鐘”+「力」で、チンカンと鐘を鳴るのを聞いて勇み立つさま。詳細は論語語釈「勇」を参照。

(シツ)

疾 甲骨文 論語 疾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”憎む”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”+向かってくる「矢」で、原義は”急性の疾病”。現行の字体になるのは戦国時代から。別に「疒」の字が甲骨文からあり、”疾病”を意味していたが、音が近かったので混同されたという。甲骨文では”疾病”を意味し、金文では加えて人名と”急いで”の意に用いた。詳細は論語語釈「疾」を参照。

貧(ヒン)

貧 楚系戦国文字 曽子
(楚系戦国文字)

論語の本章では”貧しい”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「分」+「貝」で、初出での原義は確認しがたい。「ビン」は呉音。詳細は論語語釈「貧」を参照。

亂(ラン)

亂 金文 乱
(金文)

論語の本章では、”乱暴を働く”。新字体は「乱」。初出は西周末期の金文。ただし字形は「イン」を欠く「𤔔ラン」。初出の字形はもつれた糸を上下の手で整えるさまで、原義は”整える”。のち前漢になって「乚」”へら”が加わった。それ以前には「司」や「又」”手”を加える字形があった。春秋時代までに確認できるのは、”おさめる”・”なめし革”で、”みだれる”と読めなくはない用例も西周末期にある。詳細は論語語釈「乱」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 論語 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”~でありかつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”常にあわれみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まさに”。直前が動詞であることを強調する語で、意味内容を持っていない。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

巳(シ)→已(イ)

論語の本章では”はなはだ”。

『学研漢和大字典』「已」条

「はなはだ」とよみ、「きわめて」と訳す。程度がはげしすぎる意を示す。▽単独の用例は少なく、「已甚」などと多く用いる。

現存最古の論語本である定州竹簡論語は本章全体を欠き、漢石経も欠く。唐石経は同じく「巳」と記し、東洋文庫蔵清家本は「已」と記す。清家本は唐石経より前の古注系論語を伝承しており、唐石経を訂正しうる。従って「巳」→「已」へと校訂した。

なお唐代頃までは、「巳」”へび”と「已」”すでに”と「己」”おのれ”は相互に異体字として通用した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

巳 甲骨文 巳 字解
(甲骨文)

唐石経は「巳」と記す。初出は甲骨文。字形はヘビの象形。「ミ」は呉音。甲骨文では干支の六番目に用いられ、西周・春秋の金文では加えて、「已」”すでに”・”ああ”・「己」”自分”・「怡」”楽しませる”・「祀」”まつる”の意に用いた。詳細は論語語釈「巳」を参照。

已 甲骨文 已 字解
(甲骨文)

清家本は「已」と記す。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。

甚(シン)

甚 金文 不明 字解
(金文)

論語の本章では”はなはだしい”。この語義は春秋時代では確認できない。「ジン」は呉音。初出は西周早期の金文。初出の字形は「𠙵」”くち”または「曰」”いう”+「一」または「二」+「𠃊」”かくす”・”かくれる”。ほかに「○」+「乍」”大ガマ”の字形もある。由来と原義は不明。春秋末期までに人名・器名のほか、”たのしむ”の用例がある。詳細は論語語釈「甚」を参照。

疾之已甚(これをにくむことはなはだし)

論語の本章では、”あまりに貧乏を嫌うと”。

この句には複数の解がある。伝統的には、「之」=前句の「人而不仁」と解し、「これにくむことすではなはだしからば」と読み、解釈は”不仁な者を極度に嫌うと”。

対して訳者は、「之」=「貧」と解し、「之を疾むことはなははなはだしからば」と読み、解釈は”貧乏を憎むことが激しければ”。

「已甚」はどちらも”甚だしい”の意で、読みがくどくなるため上掲訓読ではまとめた。論語の時代に熟語はほとんど存在しないが、本章の場合「貧」があることによって後世の創作が疑われるので、「已甚」を熟語として解した。そうでなくとも、「とてもとても」と言葉を重ねることが春秋時代になかったとは思えない。

「之」=「貧」と解釈した理由は、以下のような対句構造が見えるため。

好勇 疾貧 →亂也。
人而不仁 疾之已甚

ただし論語の時代に対句構造は有力ではなく、孔子の肉声として対句が言われるなら、それはすでに書き記された何かを読み上げていることになる。ここからも本書が後世の創作である可能性を示す。

だがもし「好勇疾貧」の句が後世の追加だとするなら、伝統的な解釈にも理がある。つまり本章は、貨幣の存在しない論語の時代にはない「貧」を論じていないとすれば、「人而不仁」以降だけで孔子の肉声として成立しうる。

子曰、「人而不仁、疾之已甚、亂也。」
子曰く、人にし而仁ならざらるは、之を疾むこと已に甚だしからば、乱るるなり。

先生が言った。貴族らしくない者は、あまりに嫌うと、乱れる。

ただし問題がある。論語の時代、「乱」は”おさめる”であって”みだれる”ではない。句末の「也」は断定の意味をまだ獲得していないと思われる。「疾之已甚」と「亂也」で主語が異なる。従って上掲の通り、「之」=「貧」と解した。

春秋戦国時代までの中国語は、一文字一単語が基本で、熟語の数が至って少ない。対して現代中国語は二文字一単語が基本で、単漢字は助辞などの限られた数しかない。このことは論語に特別な意味を持たせており、熟語を知らなくとも単漢字の語義を追えば、意味が分かることになる。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語に存在しない。ただそれと同時代の『塩鉄論』に一部引用がある。それ以前には春秋戦国を含め、先秦両漢の引用も再録も無い。

前漢年表

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賢良曰:「古者,篤教以導民,明辟以正刑。刑之於治,猶策之於御也。…孔子曰:『人而不仁,疾之已甚,亂也。』故民亂反之政,政亂反之身,身正而天下定。是以君子嘉善而矜不能,恩及刑人,德潤窮夫,施惠悅爾,行刑不樂也。」


はな垂れ儒者「昔は、手厚く民を教育して導き、刑法を明らかにして司法を正した。刑罰と行政の関係は、鞭と馬車の関係と同じだ。…孔子は言った。”仁=憐れみの心がない者は、何かを憎むと暴れ出す”と。だから仁など持たない民が暴れ出したら政治を反省し、政治が乱れたら為政者が反省し、自分自身を正しくしてやっと天下が治まる。だから君子は善良な者を褒め讃え、能のない者を憐れみ、犯罪者にも恩を施し、貧乏人に利益を与え、恵み与えることを喜ぶだけであり、刑罰を下すのはイヤイヤながらするに過ぎない。」(『塩鉄論』後刑2)

一見いい事を言っているようだが、全くの空理空論で、人間は刑罰の歯止めが無ければ欲望のままにどんなにむごいことでも平気でする。詳細は論語子罕篇23余話「DK畏るべし」を参照。

漢以降の帝政中国政治史は常に、事態の収拾を図る実務家と、このようないちゃもんを付けて引きずり下ろそうとする馬鹿者儒者との抗争だった。実務家も権力につくまでは同じ事をしていたから、どちらも同じ穴のムジナである。

論語の本章を創作した動機もここから来るもので、孔子生前とは違いひょろひょろばかりだった儒者が、「いくさに行くのはイヤだよ」と言い、「仁とは何かを知っている我ら儒者を優遇しなさい」と言っている。前者には同感できるが、後者は図々しくて真に受けられない。

解説

論語の本章の前半は事実上、この論語泰伯編2の一部焼き直しで、ただ篇を膨らますためだけに作られたと見なして良い。

  • いさにしのりくんばすなはみだる。(論語泰伯編2)
  • いさこのみてまづしきをにくまば、みだるるなり。(本章)

なお本章もまた、呉の使節との応対と解釈できる。酒に酔った使節が宴席で無茶でも始めた場面。刀を抜いて「一つ剣舞を披露いたす」とか言って。『史記』にはそんな場面がある。孔子は「ちょっとトイレに」などと言い、中座してぼやいていると考えると面白い。

「貧」はどうやりくりしても論語の時代に遡れない。「貝」が含まれていることが示すように、「貧」とは貨幣に不自由することだが、論語の時代、貨幣は事実上存在しない。強いて言えば穀物や布、奴隷などがその代わりをした。孔子もアワで給与を受け取っている

なお後半の「人而不仁、疾之已甚、亂也」は、本章が史実とするなら”貴族らしいたしなみの無い者は、貧乏を忌み嫌うことが激しければ、乱れるなあ”と解せる。史実であるためには「也」は詠歎でなくては困るが、これは無理がある。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子曰好勇疾貧亂也註苞氏曰好勇之人而患疾已貧賤者必將為亂也人而不仁疾之已甚亂也註孔安國曰疾惡大甚亦使其為亂也疏子曰至亂也 云好勇疾貧亂也者好勇之人若能樂道自居此乃為可耳若不能樂道而憎疾已之貧賤則此人必為亂也故繆協曰好勇則剛武疾貧則多怨以多怨之人習於武事是使之為亂也云人而不仁疾之已甚亂也者夫不仁之人當以理將養或冀其感悟若復憎疾之太甚則此不仁者近無所在必為逆亂也故鄭康成曰不仁人疾之太甚是使之為亂也

本文「子曰好勇疾貧亂也」。
注釈。苞氏「武勇を好む人が貧賤を嫌うと、必ず乱を起こす。」

本文「人而不仁疾之已甚亂也」。
注釈。孔安国「あまりに嫌うと、やはり乱を起こすことになる。」

付け足し。先生は乱れの至りを言った。「好勇疾貧亂也」とは、武勇を好む人が、もし自分の境遇に満足して暮らすならそれでいいが、もし満足できないと、貧しく身分の低い境遇に怒り出す。こう言う人は必ず乱を起こす。

だから繆協が言った。「好勇とは剛武のこと、疾貧とは多怨のこと、多怨の人が武術を習うとその人に乱を起こさせることになる。」

「人而不仁疾之已甚亂也」とは、憐れみの心が無い人には、必ず道理を教えて躾け、その悟りを願うのだが、もしあまりに嫌われたら、その情け知らずは身の置き所が無くなって、必ず反乱を起こすということだ。

だから鄭康成が言った。「情け知らずが嫌われすぎると、反乱を起こすことになるのだ。」

新注『論語集注』

好,去聲。好勇而不安分,則必作亂。惡不仁之人而使之無所容,則必致亂。二者之心,善惡雖殊,然其生亂則一也。

好の字は尻下がりに読む。武勇を好んで自分の境遇に満足しないと、必ず反乱を起こす。情け知らずを嫌って受け入れてやらないと、必ず反乱を起こす。二つの場合は善悪の違いはあっても、叛乱を引き起こす点では違わない。

余話

すっぱりさっぱり

論語の本章を創作した前漢儒の意図は、場面設定として孔子と呉の使節の応対と考えられるからには、「勇」があって「仁」の無い呉が、「貧」ゆえに「乱」を起こしている、と非難することにあったのは明白だ。それを裏付ける史料もある。

哀公十七年…夏,公會吳于鄫,吳來徵百牢,子服景伯對曰,先王未之有也,吳人曰,宋百牢我,魯不可以後宋,且魯牢晉大夫過十,吳王百牢,不亦可乎,景伯曰,晉范鞅貪而棄禮,以大國懼敝邑,故敝邑十一牢之,君若以禮命於諸侯,則有數矣,若亦棄禮,則有淫者矣,周之王也,制禮上物,不過十二,以為天之大數也,今棄周禮,而曰必百牢,亦唯執事,吳人弗聽,景伯曰,吳將亡矣,棄天而背本,不與,必棄疾於我,乃與之。


哀公十七年(BC478)…夏、哀公は露国近郊のショウの地で呉王の夫差と会見することになった。呉は北上してきて百牢(牛・豚・羊の焼肉セット100人前)を出せと要求してきた。魯の貴族・子服景伯が回答して言った。

「先王の制度にそんな話を聞いたことがありません。」呉の代表は言い返した。「宋は百牢を出したぞ。魯が宋のように出来ないとは言わせない。それに以前、魯は晋の家老に十牢以上を出したと言うではないか。我が呉王殿下に百牢出してもいいではないか。」

景伯「あの晋の范鞅は図々しく無茶苦茶な男で、しかも大国の権威を笠に着て威張ったので、仕方なく十一牢出しました。呉王殿下がもし諸侯に立派な方だと言われたいなら、礼法の限度に従って頂きたい。さもないと、強欲な野蛮人よと笑われますぞ。

周王陛下の定めでは、何事も差し上げ物は十二を超えてはならないとされております。天の運行は一年十二か月、すなわちそれが数の限りだからです。それを無視して百牢出せと言われる。欲の皮の張りすぎというものです。」こう抗議したが呉は聞き入れなかった。

景伯「呉は長くないぞ。天に背き人の世の掟をないがしろにしている。だが百牢出さねば恨みを買うことになる。出してやるのはやむを得まい。」(『春秋左氏伝』哀公十七年)

呉は長江伝いに楚を討って勝ち、越を下した後、海伝いに斉を討って勝った。孔子存命中の大国と言えば、まず北方の晋と南方の楚、そして東方の斉だったが、三大国の二国を打ち破った当時の呉は、とりあえず軍事大国だった。だがポッと出の哀しさ、その力に深みが無かった。

上記の通り魯に無理強いした後、呉は晋と対決して敗れ、するすると陽が落ちるように滅びてしまったのだが、それには孔子も一枚絡んでいる。弟子の子貢を越に送り、呉の留守を狙えとそそのかした。実際に呉が越に滅ぼされるのは孔子没後だが、してやられたには違いない。

呉の深みの無さは、根本的には国力が貧弱だったからだが、直接的には自身の軍事力を何が支えているか知らなかったからだ。呉は海軍国(シーパワー)だったが、陸軍国(ランドパワー)ではなかったから、水路による補給が出来ない晋との競り合いには、押しつぶされて負けた。

地政学

このシーパワーとランドパワーという地政学用語、訳者の若年までは口に出すことを事実上禁じられていた。現代地政学の祖はドイツのハウスホーファーだが、それゆえ地政学の本を読んだだけでナチ呼ばわりされ、学術論文で一言でも地政学風味を書いたら失格になった。

史学を専攻するには地政学が欠かせないはずだが、絶版でない本は一冊しか無かった。

これは当時から今もなお文系業界を牛耳っている連中が、どいつもこいつもredか外国の回し者ばかりなのが原因で、red主義は神の代わりにマルクスと独裁者を拝む宗教だから、異教徒は皆殺し、反対意見は悪徳呼ばわり。論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」を参照。

だが今では地政学の本が、本屋に平積みになっている。中露朝韓が日本に悪事ばかり働くので、怯えた日本人の切なる要求あってのことだが、だから価値判断を世の中に任せるとバカを見る。宗教もなんたら主義も流行り物で、過ぎ去ればかぶき踊りとしか思えない。

例えば前世紀末期の日本では、サッカーのファンでないと人間扱いされなかった。ファンになるのは好む人の自由だが、ただのたま蹴りと無関心なのもまた自由のはず。しかし同一化圧力の強い日本ではそうでない。だがそもそもその圧力が、悪党の企てでないと誰が言えよう。

他には訳者が高校生の時、二次大戦の潜水艦乗りの回想録を読んでいたら、級友の一人に𠮷外扱いされた。あの侮蔑と怯えを足しっぱなしにした目は、生涯忘れないだろう。訳者の通った高校は、いわゆる県内の「いい子」の集まりで、級友も親や教師に擦り込まれてそうなった。

訳者の世代の親はともかく、教師は九分九厘がredだったから、「北朝鮮はこの世の天国」とか、「軍のぐの字もダメ」とか、平気で子供に擦り込んでいた。力ある者にとってのみ一方的に都合の良い道徳もその一つで、どうやら訳者の世代は奴隷として教育されたらしい。

論語は無慮二千年間、そうした人を奴隷化する擦り込み教材として用いられてきた。だが歎くには及ばない。世の人格者の数は常に少ないのだから、親や教師が身勝手なのは理の当然だからだ。しかも歎いても過去は取り返しが付かない。だが未来は自覚次第で救いうる。

そもそもこんなむごい宇宙に、劣情のまま平気で子を放り出す程度には、親は身勝手だ。教師も同様で、浅学非才をかえり見ず説教をして世を渡ろうというのだから、動機が極めて図々しい。どちらにも例外はあるが、それでも後者に至っては、聖職者などと自称した。

特に公立の教師は愚劣だった。red的価値観から、労働者だから最も尊く、さらに帝政日本的価値観の残滓から、官だから民より尊いというわけだ。同様の傲慢は国鉄にもあり、その滅亡の発端は、敗戦後に引き揚げ者を大量に雇用したことにある。まずこれで人件費が膨らんだ。

次に引き揚げ者の中に、中ソでredになった連中が大量に含まれていた。収容所で平気で戦友をKGBに売り飛ばしたような動物が生き残った。まさに『夜と霧』の世界で、立派な人からまず死んでいった。生き残ったredが帰国して国鉄に入ると、乱暴と身勝手の限りを尽くした。

その一例が定期的なストというやつで、年に一度はそうやって仕事をさぼった。

事情は公営公共交通機関どこでもだいたい同じで、いわゆる市バスのたぐいは破落戸ゴロツキがハンドルを握っていた。都営は目立つから控えめで、訳者自身が実見した悪党は地元と京都市だけだが、全国から来た大学の同期の話から、その手の田舎役人がまともな話を聞いたことが無い。

だがそんな過去は過ぎ去った。今は一刻も早く、自分の未来を救わねばならない。

生まれつき不逞のやからだった訳者は、親や教師の話は半分しか信じなかった。信じた残り半分を思い返せば、訳者にとって一つも有利に作用したとは思えない。人は無意識のうちに、自らを滅ぼす価値観を植え付けられてしまう。恐ろしいことだが、自覚すればやめられる。

この「常識」は捨て去るべきか。そうと断じたら、すっぱりと手を切ればさっぱりする。

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