論語491子張篇第十八(20)君子の過つや

論語子張篇(20)要約:為政者が間違いを起こすと、部下や民衆がみんな見ている。隠し通すことは出来はしない、と弟子の子貢。その代わり、改めればそれも見られているから、と。要するに「過ちを改めるに憚るなかれ」と同じお説教。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

子貢曰、「君子之過也、如日月之食*焉。過也、人皆見之。更也、人皆仰之。」

*武内本:食、清家本蝕に作る。

書き下し

子貢しこういはく、君子くんしあやまつや、日月じつげつしよくごとり。あやまひとみなこれる。あらたむるひとみなこれあふぐ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

子貢が言った。「為政者が間違いを起こすのは、まさに日食・月食のようであるに違いない。間違いを起こすと、人はみなそれを見る。改めると、人はみな仰ぎ見る。」

意訳

論語 子貢 遊説
子貢「為政者たる者、間違いが露見せずには済まないぞ。日食や月食と同じで、やらかすと部下民衆みんなが見ているし、改めると部下民衆みんながやはり見ている。」

従来訳

子貢がいった。――
「君子の過ちは日蝕や月蝕のようなものである。過ちがあると、すべての人がそのかげりを見るし、過ちを改めると、すべての人がその光を仰ぐのだから。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

子貢

論語 子貢

論語では孔子の弟子で、弁舌の才を孔子に評価された孔門十哲の一人、端木賜子貢のこと。

君子

論語 君 金文 論語 子 金文
(金文)

論語の本章では”貴族・指導者・地位の高い者”。教養人、「諸君」という呼びかけの意味もあるが、ここではそう理解しないと文意が通らない。

過也

論語 過 金文 論語 也 金文
(金文)

論語の本章では”間違いを起こすと”。ここでの「也」は断定の「なり」ではなく、”~については、それは”という主題を強調する働きをしている。「也」は日本古語の「や・か」と同様、主格の指示・疑問・反語・詠嘆の意味を持ち、奇しくも音が「や」で一致している。

これは偶然と言うよりも、日本語が中国語を取り入れたのかも知れない。

論語 如 古文 論語 如 字解
(古文)

論語の本章では”~のようであ”。甲骨文には見られるのに、金文では未発掘の珍しいことば。『字通』による原義は、祈祷文を入れた容れ物を前に巫女が祈る姿だという。

日月之食

論語 食 金文
「食べ」(金文)

論語の本章では”太陽や月の食”=”日食や月食”。古代中国では、日食や月食は天災の一つと捉えられ、恐れると共に為政者は身を慎んで回復を願った。

論語 蝕 秦系戦国文字
(秦系戦国文字)

武内本によると、原文「食」は清家本=日本伝の古い論語の定本では、「蝕」とあるという。『学研漢和大字典』によると文字通り虫+食で、むしばむこと。古い書体は甲骨文・金文はおろか古文にすら見られず、秦系戦国文字から見られる。

もし論語の本章が子貢在世当時のことばを伝えるものだとすると、おそらくは「食」を後世書き換えたのだろう。

焉(エン)

論語 焉 金文 論語 焉 字解
(金文)

論語の本章では”(とりもなおさず)~なのだ”。

原義はエンと言う名の黄色い鳥で、巫女がその羽で祭器をさすって神意を問うたと『字通』にあるが、その意味で使われることはめったにない。漢文では概ね断定・完了の意を示し、”そうなってしまった・そうであるに違いない”を表す。

人皆見之

論語 皆 金文 論語 見 金文
「皆」「見」(金文)

論語の本章では”人々が皆それを見る”。「見」は同じ”みる”でも、目立つものが否応なく人の目に入ることで、意図的に見ることではなく、むしろ「見える」を意味する。日食月食は高い所にあるわけだから、目立つ上に災害として誰もが目に止める、というここと。

論語 更 金文
(金文)

論語の本章では”あらためる”。

『学研漢和大字典』によると会意文字で、丙は股(モモ)が両側に張り出たさま。更はもと「丙+攴(動詞の記号)」で、たるんだものを強く両側に張って、引き締めることを示す、という。

一方『字通』では、もと㪅に作り、丙+攴。丙は武器などの台座の形で、商・矞などはその形に従う。攴は打つこと。金文に丙を重ね、その下から攴を加える形があり、更改・変更のための呪的な方法と思われる。『説文解字』三下に「改なり」とあり、改はもと攺に作り、巳(蛇)をつ呪詛の行為。これによって事態の変改を求める。變(変)は神に祈禱する意の言の両旁に呪飾を加え、これを殴って事態の変更を求める意。更・改・変はみな相似た方法で事態の変改を求める呪的方法を示す字である。みな禍殃を祓うことをいう。国語で「さらに」は、「あらためて」「あたらしく」の意がある、とある。

論語 仰 古文
(古文)

論語の本章では”仰ぎ見る”。甲骨文~戦国文字までには見られず、古文から見られる。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、右側は、高くたって見おろす人と低くひざまずいて見あげる人との会意文字。仰はそれを音符とし、↓↑の方向にかみあう動作を意味する。迎(ゲイ)(→の方向に来る者を←の方向に出迎えて→←型に出あう)と同系のことば、という。

『字通』では、声符は卬(コウ)。卬は二人相対する形であるが、上下の関係を以ていえば、上からは抑、下からは仰をなり、左右では迎となる。仰は『説文解字』八上に「挙ぐるなり。人に従い、卬に従う」と会意に解するが、その訓も字義に適切ではなく、字もその構造法からは形声としてよい。卬の繁文で、仰ぐことをいう。『詩経』小雅・車カツに「高山は卬ぐ」と、なお卬の字を用いている、とある。

論語:解説・付記

文字の古さといい、実際に政務に携わった子貢の発言であることといい、論語の本章は史実を伝えていると言っていいだろう。

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