論語詳解486子張篇第十九(15)吾が友張や

論語子張篇(15)要約:友人の子張は難しいことでもやってのけるが、仁者ではない、と弟子の子游。孔子先生ですら、自分では仁者ではないと言いました。弟子の子張に仁者を求めるというのは、無理というものではありますが…。

論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文・白文

子游曰、「吾友張也、爲難能也、然而未仁。」

書き下し

子游しいういはく、ともちやうくしがたきをなりしかいまじんならず。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

子游が言った。「私の友人の子張は、やりにくいことをする。そうではあるが、まだ仁者ではない。」

意訳

論語 子游 論語 子張
子游「子張のやつは難しいことでもやってのける。だが仁者じゃないな。」

従来訳

論語 下村湖人

子游がいった。―― 「友人の張(ちょう)は、困難なことをやりとげる男ではあるが、まだ仁者だとはいえない。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

子游

論語 子游

論語では孔子の若い弟子で、文学の才を孔子に評価された孔門十哲の一人、エン子游を指す。

論語 吾 金文 論語 吾
(金文)

論語の本章では、”私の”。原義は”ことば”=「語」の原字だが、「我」とともに音を転用して一人称となった。中国語は論語の頃まで格変化の名残が残っており、「吾」は主に主格と目的格に用いた。対して「我」は目的格に用いた。

論語 友 金文 論語 友 解字
(金文)

論語の本章では”友人”。互いに腕を曲げてかばい合うような関係の人物を言う。対して「朋」は、同格に並び立つような関係の人物を言う。

論語 子張

論語の本章では、孔子の若い弟子で、孔門十哲には入っていないがそれに次ぐ言及が論語に残る、セン孫師子張を指す。孔子からは”何事もやり過ぎ”と評された。

論語 也 金文
(金文)

論語の本章では、片や「や」と読み、主格を強調する働きをし、片や「なり」と読み、句末に付いて断定の意を示す。

爲(為)難能

論語の本章では、”難しいことをする”。「難能」は修飾語→被修飾語の関係で、”出来ることが難しいこと”を意味する。

論語 然 金文 論語 然
(金文)

論語の本章では”確かにそうである”。原義は焼き肉の脂がたれて燃える姿。のち、然を指示詞ゼン・ネンに当て、それ・その・そのとおりなどの意をあらわすようになった。

論語 而 金文 論語 而 解字
(金文)

論語の本章では”そして”。原義は柔らかいヒゲ。ただしその意に用いられることは少なく、古くから音を転用して「それ」「その人(なんじ)」の意に用い、また指示詞から接続詞に転じて、「そして」「それなのに」というつながりを示す。詳細は論語語釈「而」を参照。

論語 未 金文
(金文)

論語の本章では”まだ~でない”。原義は木のまだのびきらない部分を描いたもので、まだ…していないの意をあらわす。

論語 仁 古文 論語 仁
(古文)

論語では、常時無差別の愛を言う。『字通』による原義は、人の為に敷物を敷いて上げる姿と言う。詳細は論語における仁を参照。

論語:解説・付記

論語の本章は、史実性については文字から見てもあり得るが、子游の肉声かどうかとなると確証は無い。仁者を認定できるほど、子游が偉いとも思えないし、子游がそこまで思い上がっていたかどうかも知り難い。ただしただの軽口というのなら、あり得る話ではある。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。未だ人を斬ったことが無い。刀(登録証付)の手入れは毎日している。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回す。覚悟致せ。
斬首
このナイスガイについてはこちら

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)