論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子游曰、「吾友張也、爲難能也、然而未仁。」
書き下し
子游曰く、吾が友張也、能くし難きを爲す也、然し而未だ仁ならず。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
子游が言った。「私の友人の子張は、やりにくいことをする。そうではあるが、まだ仁者ではない。」
意訳
子游「子張のやつは難しいことでもやってのける。だがまだ貴族らしいとは言えないな。」
従来訳
子游がいった。―― 「友人の張(ちょう)は、困難なことをやりとげる男ではあるが、まだ仁者だとはいえない。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子游
論語では孔子の若い弟子で、文学の才を孔子に評価された孔門十哲の一人、言偃子游を指す。
吾
(金文)
論語の本章では、”私の”。原義は”ことば”=「語」の原字だが、「我」とともに音を転用して一人称となった。中国語は論語の頃まで格変化の名残が残っており、「吾」は主に主格と目的格に用いた。対して「我」は目的格に用いた。
友
(金文)
論語の本章では”友人”。互いに腕を曲げてかばい合うような関係の人物を言う。対して「朋」は、同格に並び立つような関係の人物を言う。
張
論語の本章では、孔子の若い弟子で、孔門十哲には入っていないがそれに次ぐ言及が論語に残る、顓孫師子張を指す。孔子からは”何事もやり過ぎ”と評された。
也
(金文)
論語の本章では、片や「や」と読み、主格を強調する働きをし、片や「なり」と読み、句末に付いて断定の意を示す。
爲(為)難能
論語の本章では、”難しいことをする”。「難能」は修飾語→被修飾語の関係で、”出来ることが難しいこと”を意味する。
然
(金文)
論語の本章では”確かにそうである”。原義は焼き肉の脂がたれて燃える姿。のち、然を指示詞ゼン・ネンに当て、それ・その・そのとおりなどの意をあらわすようになった。
而
(金文)
論語の本章では”そして”。原義は柔らかいヒゲ。ただしその意に用いられることは少なく、古くから音を転用して「それ」「その人(なんじ)」の意に用い、また指示詞から接続詞に転じて、「そして」「それなのに」というつながりを示す。詳細は論語語釈「而」を参照。
未
(金文)
論語の本章では”まだ~でない”。原義は木のまだのびきらない部分を描いたもので、まだ…していないの意をあらわす。
仁
(古文)
論語の本章では、”貴族らしさ”。常時無差別の愛などの意味は、孔子没後一世紀後の孟子が言いだした話。本章は史実を疑う理由がないので、孔子在世当時の語義で解釈すべき。詳細は論語における仁を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、史実性については文字から見てもあり得るが、子游の肉声かどうかとなると確証は無い。仁者を認定できるほど、子游が偉いとも思えないし、子游がそこまで思い上がっていたかどうかも知り難い。ただしただの軽口というのなら、あり得る話ではある。