論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子夏曰、「百工居肆、以成其事。君子學、以致其道。」
書き下し
子夏曰く、百なす工は肆に居り、以て其の事を成す。君子は學び、以て其の道を致す。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
子夏が言った。「さまざまな職人は仕事場にいることで、その仕事を仕上げる。君子は学ぶことで、するべき仕事を達成する。」
意訳
同上
従来訳
子夏がいった。――
「もろもろの技術家はその職場においてそれぞれの仕事を完成し、君子は学問において人間の道を極める。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子夏
論語では孔子の若い弟子、卜商子夏を指す。
百工
(金文)
論語の本章では、”さまざまな職人”。「百」は種類の多さを表しており、具体的数値ではない。
居
(金文)
論語の本章では”居る”。原義は腰を落ち着けてその場に座ること。
肆(シ)
(古文)
論語の本章では”工房”。商業施設を指す場合があり、日本語の「書肆」などにその名残がある。甲骨文~戦国文字には見られない言葉で、古文にはさまざまな字形で見られる。古文は必ずしも古い文書とは言えないから、本章は秦漢帝国時代に成立した可能性がある。
「肆」は『学研漢和大字典』によると並べて広げる・連ねるの意で、日本語の「みせ」の語源になった「見世棚」と奇しくも一致している。言葉としては漢字の通例通り多義語で、”ほしいまま(にする)・ながい・ ゆえに・ ここに・殺してさらす”などの意がある。
また類義語の「店」同様、”宿屋”の意があり、必ずしも商業施設のみを指さない。現代中国語の「飯店」(ファンティエン)は、”hotel”に宿泊施設の意を含めて当てた音訳。「肆」に関する儒教的説明は、漢代に創作された法螺話に過ぎない。
成其事
「成」(金文)
論語の本章では、”仕事を仕上げる”。「成」は単に作業をすることではなく、完成させることを意味する。
致其道
「致」(金文)
論語の本章では、”志を達成する”。「道」はどうとでも訳せる極めてあいまいな表現で、君子の「道」は”君子がやりたがること・すべきこと”とでも訳すしかない。「致」の原義は届けることで、ここでは達成すると訳した。
論語:解説・付記
論語の本章はただつまらないだけでなく、王朝時代の中国が続く間、君子=為政者階級の怠慢と無能を弁護するお墨付きになった。「道」が何を指しているか不明なのがくせもので、業績が無くとも「道を致しているのだ」と言い張れば、それが通ったからである。
歴代の中国王朝は、統治のための政府と言うより、特権階級である役人を食わせるための装置で、出自が怪しい出来たて王朝がまず始めたのは、官僚採用試験である科挙だった。識字率が極めて低い社会だったから、字が読める連中に特権を与えないと、即座に打倒されたからだ。
その上試験内容はポエムや古典だったから、受かった役人に行政能力があったわけではなく、おつむの程度も実は怪しい。暗記は得意だったかも知れないが、数理的推論が出来ない脳みそに、先を見通して政策を打つなどできないからだ。いわば私立文系バカだったといっていい。
訳者もその一人だから、その無能や推して知れる。しかしそれでもかまわなかった。実際の行政は地方や利権に根付いたボスと、その手先である世襲の下役人(胥吏という)が行ったからで、科挙官僚はよけいな行政改革さえしなければ、いくらワイロを取ってもかまわなかった。
これは言い換えると、良心的な官僚が、始めから出ないように仕組まれたからくりと言える。しかもそれは中華文明と分かちがたく一体化しているから、現代に至るまで改まらなかった。その結果が王朝の交代ごとに出る、すさまじい数の死者であり、それに伴う地獄である。
儒者は学んでどんな道を致したのか。収賄とポエム書きに他ならない。