論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子夏曰、「日知其所亡、月無忘其所能、可謂好學也已矣。」
書き下し
子夏曰く、日に其の亡き所を知り、月に其の能くする所を忘るる無からば、學を好むと謂ふべき也る已矣。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
子夏が言った。「毎日自分にない所を知り、毎月自分に出来ることを忘れないのなら、学問を好むと評価してしまってよい。」
意訳
子夏「自分に出来ない事を身につけようと毎日励み、出来たことを忘れぬよう毎月稽古するなら、学問好きだと言って良いだろうな。」
従来訳
子夏がいった。――
「日ごとに自分のまだ知らないことを知り、月ごとに、すでに知り得たことを忘れないようにつとめる。そういう心がけであってこそ、真に学問を好むといえるだろう。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子夏
論語では孔子の弟子で孔門十哲の一人、卜商子夏のこと。
其(キ)
(金文)
論語の本章では多様な解釈があり得る。原義は農具の箕で、漢文では多くの場合”その”という指示詞。本章では指事代詞として”自分の”として解しうるが、他に疑問の”もし”とも解せるし、意味内容を持たない助辞として解することも出来る。詳細は論語語釈「其」を参照。
所亡
(金文)
論語の本章では”欠けた部分”。被修飾語←修飾語の語順は甲骨文時代の漢文の文法で、論語の時代ではすでに逆順になっていた。しかし完全に逆順に取って代わられはせず、結果として漢文の文法を原則のないものにした。
本章はほぼ間違いなく孔子没後の付け足しで、おそらくは漢代に論語が膨張する過程で付加された章だろうが、付け足した儒者が古文をてらって敢えてこのような語順にしたかどうかまでは断定できない。しかし古そうに見せようとする意図があったとは言える。
「所」について詳細は論語語釈「所」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では、”~だと評価する”。同じ「いう」でも、価値判断を行って品定めすることを意味する。
也已矣
伝統的な読みでは、三字で「のみ」と読み下す。「也」は断定、「已」は”終わる”、「矣」もまた断定・完了。直訳すると”~であってしまったのである・~であってしまってしまった”。
論語:解説・付記
論語の本章はまことにつまらないお説教であり、人を奮い立たせる点がまるでないのだが、それに対応するように、言い廻しがもって回っている上にニセ古文の疑いがある。おそらくは漢代の儒者が、ハッタリと膨らましのために書いた作文だろう。
そもそも孔子の思想では、「学を好む」ことにそれほど価値はなかった。論語為政篇14にあるように、「学問を好むだけでは君子と言えない」。学問はあくまで修養の入り口であり、本章の言うように、自分に欠けた点を常に意識しているなら、その段階をとうに超えている。
「知るを知るとし、知らざるを知らざる」なら、それはすでに「知」だから(論語為政篇17)。本章を捏造したと思しき漢代の儒者は、孔子の意図を理解できなかったか、あるいは自分たちが独占した「知」というものを、よほど価値あるものとして売り出したかったらしい。
本章の成立のうさんくささと内容の空疎は、いみじくも中華思想の神髄がどこにあるかを示している。繰り返しで恐縮だが、実利はことのほか重んじるが、事実はどうでもいいのだ。それゆえに中華文明は比類無い強靱さを示し、今日唯一生き残った古代文明として存在している。
こんにちの世界で、今だ独裁制を続ける中国を、とりわけ経済界の人は高く評価したがる傾向にある。確かに目覚ましい経済成長を遂げ、民主制の国には出来ないある種の効率性を持っている。しかしそれが望ましいのだろうか。自分事として、そんな国に住みたいのだろうか。
にわか中国通には用心した方がいい。まるでものが見えていないおそれがあるからだ。