論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子張曰、「執德不弘、信道不篤、焉能爲有、焉能爲亡。」
書き下し
子張曰く、德を執るに弘からず、道を信ずるに篤からずんば、焉んぞ能く有りと爲し、焉んぞ能く亡しと爲さむ。
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逐語訳
子張が言った。「能力を獲得するについて幅広くなく、先生の教えを信じるについて熱心でなければ、どうして有ると言えようか。どうして無いと言えようか。」
意訳
子張「少しばかり修行して、生半可に先生の教えを受け取っただけの連中には、学の有るも無しもないものだ。」
従来訳
子張がいった。――
「何か一つの徳に固まって、ひろく衆徳を修めることが出来ず、正道を信じても、それが腹の底からのものでなければ、そんな人は居ても大して有りがたくないし、いなくても大して惜しくはない。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子張
論語では、孔子の高弟の一人。孔門十哲には入っていないが、その理由は年齢の若さゆえと思われる。つまり孔子の放浪など危機の時代に、同行できなかったことにあるだろう。師匠の孔子からは、何事に付け”やり過ぎ”と評された。
ただし孔門十哲の一人・子夏とは4つ若いだけで、恐らく年齢ゆえに孔子は放浪に子夏を連れていけなかったし連れなかったし、連れて行きたくなかった*と思われるので、同じく同行しなかった子張を、年齢を理由に”十哲ではない”と評価を下げるのは意味が無いと思う。
*衣食住も医療も何もかも当ての無い旅に、11歳の子供を連れて行こうと思うわけがない。
執德(徳)
(金文)
論語の本章では、”能力を高める”。論語での「徳」は”能力・人の持つ人格的迫力”を意味し、道徳とは関係が無い。「執」は『学研漢和大字典』によると「手かせ+人が両手を出してひざまずいた姿」の会意文字であり、確実にとらえること。つまり能力を獲得する意になる。
『学研漢和大字典』を編んだ藤堂博士の論語本では、「徳」を”人が生まれつき持っている素直な本性”と解し、それにはそれなりの根拠があるが、それでは理解できない章が論語には多数ある。従って賛成できないし、盲目的に”道徳”と解するのはもっと賛成できない。
詳細は論語における「徳」を参照。
信道
(金文)
論語の本章では”孔子の説いた教えを信じる”。「道」とは人が行き来するみちのことで、この語義に関しては漢字を呪術的に解釈する傾向のある『字通』でも変わりはない。孔子は自分が人の進むべき道の創造者であるとは思っていなかった。
弟子の子張ならなおさらで、子張が信ずべき道と言えば、孔子の説いた教えに他ならない。同様の例は同じく弟子の冉有の発言として、論語雍也篇12に「子の道を説ばざるにあらず」として記されている。
これに対して伝統的な解釈では、この「道」に重々しい意味を見いだそうとして、”道義”などと訳すが、それは却って論語をわかりにくくしているだけに思う。
芸事を習った方にはおわかり頂けると期待したいが、お師匠様は例えば”ここに足を置きなさい。視線は真っ直ぐ正しなさい。得物は親指は添えるだけで小指で握りなさい”と一々教えて下さる。その通りにしないと技が効かない。それが「道」ということだ。
篤(トク)
(秦系戦国文字)
論語の本章では、「厚」と同様に”あつく”。この文字は甲骨文・金文には見えず、秦系戦国文字と古文から見られる。古文での字形は安定しておらず、竺やに記されることがある。
この字が古文に見られる事から、論語の本章が新しい成立であるとは断定できないが、言葉やその音に対応する文字が作られなかった程度には、珍しい言葉だったことが想像できる。
焉能爲有、焉能爲亡
論語の本章では、”どうしてあると言えようか、どうしてないと言えようか”。「焉」はもとエンという名の黄色い鳥のことだが、漢文ではその意味で使われることはほとんど無く、文頭では疑問辞に、文末では完了・断定の助辞として用いられる。詳細は論語語釈「焉」を参照。
論語の本章について武内本は、「この章道徳理想を高くすべきを説く、小徳は有無を論ずる価値も無しとなり」と記す。つまり少々孔子の教えをかじり、少しばかり信じただけでは、習ったも習わないも無いものだ、とこの句を解する。新古の注も同様に言う。
従って訳者も同様に解したが、”有る無しも言えない”は「莫有無也」など簡潔に言えるにも関わらず、「どうして」と強調した言い廻しの上に、同じ語句の繰り返しをしているのは、もったいぶった言い廻しで、「やり過ぎ」子張らしいと言える。
論語:解説・付記
論語の本章について従来訳の最終部分「そんな人は~」は、むしろ新古の注に従った重厚な訳と言うべきで、特に反論すべきとは思わない。漢文には事実上文法が無いからで、大勢の人が「うまいこと言った」と感じれば、それがその時代の正統的な訳になる。
漢文は意思の伝達という、言語のある機能を放棄している。その意味で実用品と言うよりも、芸術作品に近い。それも前衛芸術で、分かる人だけに分かるものでもある。つまり文の意味は筆者にしか分からず、その筆者にも分かっていない可能性すらある。
それでもあり得ない解釈を削ることは出来る。訳者がもったいを削るのもその一環だ。