論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
席不正不坐
校訂
東洋文庫蔵清家本
席不正不坐
慶大蔵論語疏
席不1正不〔口二土〕2
- 虫食い。
- 「坐」の異体字。「唐左羽林軍長史姚重曒墓誌」刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……坐。鄉人飲酒,杖者253……
標点文
席不正、不坐。
復元白文(論語時代での表記)
坐
※論語の本章は、「坐」の字が論語の時代に存在しない。「席」の用法に疑問がある。
書き下し
席正しから不らば、坐ら不。
論語:現代日本語訳
逐語訳
席が正しくなければ座らない。
意訳
決められた席次通りに自分の席が置かれていないと、座らなかった。
従来訳
座席のしき物がゆがんだり曲がったりしたままでは坐られない。
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
坐席沒擺正,不坐。
座席が正しく並べられていないと、座らなかった。
※宮中席次通りに席が並んでいないと、蹴立てて帰っちゃった、と解せる。
論語:語釈
席*(セキ)
(金文)
論語の本章では”座布団”。仮に”座るべき定位置”と解しても、これらの語義は明瞭には、春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。一説に甲骨文とするが、字形が「因」で”しきもの”の意。初出の字形は「厂」”屋根”+「巾」布の敷物”。座布団の意。「廿」が加わったのは戦国文字からで、「廿」”にじゅう”ではなく「𠙵」”くち→ひと”の意。座布団に人が座ったさま。春秋時代以前では、身の回りのしつらえであろうと想像できるのが一例あるのみで、実は”座布団”・”座席”だったかどうか定かでない。詳細は論語語釈「席」を参照。
「席」の近音で類語に「藉」”草で編んだ敷物”がある。時代劇などで「狼藉者」と言うのは、狼は寝るときに下草を押し広げて寝るので、狼藉=狼の寝床であり、狼のような者を指すようになった、という。出典は『史記』滑稽伝・淳于髡列伝で、淳于髡は奴隷出身の丸坊主頭という異色の学者。斉の威王に仕えた。
日暮酒闌,合尊促坐,男女同席,履舄交錯,杯盤狼藉,堂上燭滅,主人留髡而送客,羅襦襟解,微聞薌澤,當此之時,髡心最歡,能飲一石。
日が暮れて宴会もたけなわになり、乾杯してお互い「どうぞどうぞ」と言って座るように促し、男女が交じり合い、座布団を敷いて座り、杯や料理の皿が散らかって、座敷のともし火が油が切れるほど長い間飲み、主人は私を引き止めて帰る客を見送り、下着も丸見えになるほど襟がくつろいで、ほのかに体臭も漂っている。
私はこんな宴会が大好きで、これなら酒は一石まで飲めます。
論語時代にも斉国は大国だが、一旦亡んで公室が変わり、田氏の国となったので田斉という。威王はその最盛期の王で、都城の稷門の下に邸宅を与えて学者を優遇した。それらの学者を稷下の士という。孔子の教説を商材にして、儒学に宗教的神秘性を持たせた希代の世間師・孟子もその一人。対して同僚の淳于髡は外交使節として活躍し、威王を喜ばせた。
その慰労の宴会で淳于髡が気の置けない酒宴の例として言ったのが「杯盤狼藉」で、器や座布団が散らかっている様子を言う。なお孟子は、次代の宣王に仕え燕国を攻めさせた。これが恨みを買い、のちに斉は一旦滅び、殿様は惨殺されるほどの被害を受けた。迷惑な人である。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
正(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”正しい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。論語の時代までに、地名・祭礼名、”征伐”・”年始”のほか、”正す”、”長官”、”審査”の意に用い、また「政」の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。
『定州竹簡論語』論語為政篇1の注釈は「正は政を代用できる。古くは政を正と書いた例が多い」と言う。その理由は漢帝国が、秦帝国の正統な後継者であることを主張するため、始皇帝のいみ名「政」を避けたから。結果『史記』では項羽を中華皇帝の一人に数え、本紀に伝記を記した。
本章では、「正」をどう解釈するかで文意がまるで変わってくる。『学研漢和大字典』は原義を、「まっすぐに進むさま」といい、『字通』は原義を、”強制を加えて治めること”という。
前者の”まっすぐであること”と解すと、しわくちゃなどになって乱れた席には座らない、ということになり、後者の”政治的強勢”と解すと、自分の決められた席次ということになる。いずれが正しいとも言いかねるが、おそらく後者だろう。
鎌倉から江戸時代にかけて朝廷に実権が失われても、日本人の序列が官位で決まったように、中国で朝廷の席次の上下は一大事であり、宮殿の前庭に立って儀式に参加するにも、殿中で政治を議論するにも、席次が厳密に定められていた。いわゆる上座下座の区別が厳しい。
これは現代中国に至るまでそうで、諸国でナントカ大臣に当たる人物でも、共産党の席次が低い者の発言は、当てにならないしあまり相手にもされない。孔子も魯の宰相職にあったとき、席次にふさわしい祭祀のお下がりが来なかったので、国を出たと史記は言う。
現代の論語読者なら、何でそんなことで、と思っても無理ないが、これは魯国公からも、貴族団からも「お前は要らない」と言うに等しいイヤガラセだったわけで、自力で身分差別を乗り越え這い上がった、つもりだった孔子は、これに耐えられるほど面の皮を厚く出来なかった。
さてそれでも、「座席そのものの乱れ」と解すなら、こう訳せる。
坐*(サ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”座る場所”。初出は甲骨文とされるが字形がまるで違う。その後は戦国文字まで絶えており、殷周革命で一旦失われた漢語と解するのが理に叶う。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。甲骨文の字形は「㔾」”跪いた人”+「因」”敷物”。楚系戦国文字の字形は「月」”肉体”+「土」。秦系戦国文字では上半分が背中合わせの「月」。同音は「痤」”腫れ物”のみ。「ザ」は呉音。戦国時代から、”すわる”・”連座する”の意に用いた。論語の時代の”すわる”は、おそらく「居」と言った。詳細は論語語釈「坐」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔口二土〕」と記す。「唐左羽林軍長史姚重曒墓誌」刻。
論語:付記
検証
論語の本章は短いながら前漢中期の定州竹簡論語に含まれ、文字史的に春秋時代に遡れないから、戦国時代以降の創作と判定できる。前漢中期の『史記』孔子世家には、「席不正、不坐。」と全文が載る。おそらく本章は、前章に続けて前漢儒による創作だろう。
解説
論語の本章を前後の章から切り分けたのは新注からで、すでに書いたように大した理由はない。論語郷党篇6の「君子は紺緅を以て」から論語郷党篇12の「康子薬を饋る」の前まで、一つながりに記されたことは上掲定州竹簡論語からも分かる。
だが古注の時代からすでにこれは長すぎるとされ、郷党篇6「君子は紺緅を以て」~7「斉には必ず明衣あり」、8「食は精を厭わず」、9「席正しからざらば」~10「郷人の飲酒には」の途中、10「郷人の飲酒には」の残り、11「人を他邦に問わば」の五つに分けている。
さて例によって、論語は短いほど解釈が難しい。中国で中国で椅子とテーブルの生活が根付いたと確実に分かるのは唐帝国からで、それ以前は日本の古式同様、座布団を敷いて座り、ちゃぶ台のような低い机を用いて食事や作業の用を足した。
対して椅子と高い机の生活は、おそらく西方世界からもたらされ、日本へは遣唐使の持ち帰った「グローバルスタンダード」な習慣として、奈良朝から平安朝初期にかけて流行した。
桓武天皇/空海
しかし論語時代は本編にもあるように、床の上にござや畳のようなものを敷き、その上に草や毛皮で作った座布団を敷いて座った。日本も平安中期以降はそれに戻り、百人一首の絵札のように畳に座った。しかし本家中国では椅子とテーブルが根付き、唐帝国では皇帝と大臣が同じテーブルにつき、お茶を飲みながら政治について侃々諤々の議論をした。
ところが次の宋王朝になると、大臣は立ったまま皇帝のお指図を承るようになり、明清帝国に至っては、土下座して皇帝のお言葉を頂戴した。ただし座布団生活は古式ゆかしい風習として絶えはせず、清の雍正帝も書斎では座布団に座って全中国からの報告書に返事を書いた。
論語時代の座席が椅子ではなく敷物だったことは、『孔子家語』にも記されている。
孔子之守狗死。謂子貢曰:「路馬死則藏之以帷,狗則藏之以蓋。汝往埋之。吾聞弊帷不棄,為埋馬也;弊蓋不棄,為埋狗也。今吾貧無蓋,於其封也,與之席,無使其首陷於土焉。」(『孔子家語』子貢問25)
孔子家の番犬が死んだ。
孔子「これ子貢や、飼い馬が死んだときにはカーテンで包んでやり、飼い犬が死んだときには車の日傘で包んでやるものだ。手間を掛けるが、弔ってやってくれ。だから話によると、破れたカーテンを捨てないのは飼い馬のため、破れ傘を捨てないのは飼い犬のため、という。今ワシは貧乏でな、手持ちの傘が無いから、敷物を出してやろう。これで犬を包み、土へ頭をじかに埋めるようなことがないようにしてやってくれ。」
また、丁寧さを表す作法として、あえて自分の席を”避ける”ことがあった。
子夏問於孔子曰:「顏回之為人奚若?」子曰:「回之信賢於丘。」曰:「子貢之為人奚若?」子曰:「賜之敏賢於丘。」曰:「子路之為人奚若?」子曰:「由之勇賢於丘。」曰:「子張之為人奚若?」子曰:「師之莊賢於丘。」子夏避席而問曰:「然則四子何為事先生?」子曰:「居!吾語汝。夫回能信而不能反,賜能敏而不能詘,由能勇而不能怯,師能莊而不能同。兼四子者之有以易吾,弗與也。此其所以事吾而弗貳也。」(『孔子家語』六本12)
子夏「顔回とはどういう人ですか。」
孔子「顔回の正直はワシにまさる。」
子夏「子貢はどういう人ですか。」
孔子「子貢の目敏さはワシにまさる。」
子夏「子路はどういう人ですか。」
孔子「子路の勇気はワシにまさる。」
子夏「子張はどういう人ですか。」
孔子「子張の押し出しはワシにまさる。」
その誰よりも年下で気弱な子夏は、自分の席を避けて、恐る恐る聞いた。
子夏「ではどうしてお四方は、先生の弟子になっているのでしょう?」
孔子「まあ、座れ。教えてやろう。顔回は正直が過ぎて、頼みを断り切れぬ所がある。子貢は目敏すぎて、言わんでもいいことを言ってしまう。子路は勇ましすぎて、慎重に敵勢を観察できない所がある。子張は押し出しが強すぎて、誰も友達づきあいしてやらない。それに四人の出来ること全部をまとめてワシと張り合っても、敵いっこない。だから四人とも、腰を低くしてワシの弟子であり続けておるわけだな。」
※與:ここでは「かなう」。”相手になる”。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
席不正不坐
本文「席不正不坐」
(注釈なし)
新注『論語集注』
席不正,不坐。謝氏曰:「聖人心安於正,故於位之不正者,雖小不處。」
本文「席不正,不坐。」
謝良佐「聖人は心が正しさに位置して動かない。だから座席が正しくないと、少しでも気になって座らない。」
余話
蒙古も嫌がる
閉じた世界では閉じた論理が正義になる。誰も行きたがらない寒村で、村八分が流行るのはその一例。その渦中にある人間には、事の正否が判断できない。都会の現代人も例外でない。あらゆる人間が環境という閉じた世界で生きているからには、あらゆる人間に当否は判定不能。
江戸大名には定期的に将軍のご機嫌伺いをする義務があった。その江戸城中での控え室を伺候席という。大名は石高や官位のほか、どの間があてがわれるかで家格が決まった。ゆえに少しでも上席に上ろうと当人はあせり、家臣は時に腹を切るの切らないのの騒ぎを起こした。
後世から見れば下らない様式美だが、それまでの武士の現実がひどすぎた。『男衾三郎絵詞』では門前を通りがかる人を暇つぶしで射殺しているが、史実の鎌倉武士も同様だった。いざ元寇だというので博多に集まると、「どうせ燃えちゃうんだから」と略奪して街を焼いた。
二十世紀より前の人類史上、モンゴル帝国ほど大規模かつ残忍に人を殺した例は、ヨーロッパによるアメリカやオーストラリア大陸での原住民虐殺が肩を並べるだけだった。イギリス人はタスマニア人を狩猟対象にして絶滅させたが、モンゴルは時に人間以外までみな殺した。
太祖複進攻八米俺,察合台長子莫圖根中流矢卒。太祖最愛此孫,及城破,遇生物悉戮之,名其地曰卯庫爾干。
チンギス・ハンが再びバーミヤンに侵攻した。攻撃中に次男チャガタイの長男*、モエトゥケンが矢に当たって戦死した。チンギス・ハンは孫の中で一番愛していたので、陥落後にバーミヤンの住民ばかりでなく、目にしたあらゆる生物を皆殺し、そうするようモンゴル軍に命じた。そしてバーミヤンをマウ・クルカン(忌まわしい都市)と呼んだ。(『新元史』巻一百七・太祖諸子二)
*ペルシア語史料によっては、庶出も含めると次男らしい。
そのモンゴル兵すら、鎌倉武士を嫌がった。この時出陣した鎌倉武士は、日本全土から向かったらしい。ゆえに元軍の無残が、津軽の子守歌にまでムクリ・コクリ(蒙古・高麗)として伝わっているのだが、同時に武士の野蛮性が、日本中で普遍的だった説を補強する。
対してモンゴル侵攻軍は士気も低かった。もともと日本を攻め取ろうと考えたのはフビライ・ハ-ンではない。攻めろとけしかけたのは高麗人だった。文永・弘安の役、前者では高麗人は元軍の主力、後者では南宋人の次に多かったが、もちろん鎌倉武士にうんざりしただろう。
戦国の武士も、いわゆる武士道とはぜんぜん関係ない。武士は稼ぎ目当ての人殺しだった。江戸も初期までは同様で、名君の誉れ高い水戸の黄門様は、肝試しで抜刀し、泣き叫んで逃げる無宿人を斬り殺した。武士が変わるのは、徳川綱吉がしつこく儒教を説教してからである。
それより前に、様式美で武士の蛮行を止めようとしたのが織豊政権だった。秀吉は千利休を取り立て、武士を躾けようと企んだ。茶道の「和敬静寂」とは、ささいなことで人を斬り殺す当時の武士に、作法という目に見えないタガをはめ、和ませ敬わせ静寂にする心得だった。
気分次第で罪無き家臣を斬り殺した細川三斎は、戦場での勇者でもあったが、三斎までもが茶道に夢中になったのは、利休の凄みを伝えている。血なまぐさい戦国の「リアル」を、様式美が圧倒したのに驚くべきだ。現代なら通り魔を制圧できる茶道家というわけだ。
武道家でも制圧は難しかろう。しかも通り魔が出たらさっさと逃げて、物理的距離を取るのが現代武道の教えるところで、制圧に向かう現場の警官は気の毒だ。さる事件で刃物男相手に、数人がかりへっぴり腰で、おっかなびっくりかかっていたが、無理も無いと同情している。
江戸初期の宮本武蔵が説いた殺人術「兵法」は、江戸期を経て明治になって、やっと「武道」に変化した。その直前の江戸武術が、幕末から戊辰戦争にかけて、どれほどの血を流したかわからない。武蔵の『五輪書』に哲学を、現代武道に殺人術を求めるのは共に間違っている。
平成ごろに「古武道」なるものが流行った。世情不安が世人を戦闘術へと駆り立てたのだろう。だが訳者の見る限り、言い出したNHK文化人のは、それらしい演武で、素人をびっくりさせるお座敷芸に過ぎない。だが道場主の先生方は、客集めに必死でその言葉に飛び付いた。
話を席次に戻せば、漢儒もささいな宮中席次を争った。後漢の帝室はそれに付け込んで、抜群の功績に「席を絶つ」”格別の座席を設ける”待遇を与えた(『後漢書』馬援伝「與九卿絕席」など)。その結果、学者も博士官の席を目当てに、ニセ文書や悪口やワイロの限りを尽くした。
詳細は後漢というふざけた帝国を参照。その醜態は後漢もまだ早い和帝の時代からだった。
樊準(が上奏して言った。)「現代はまじめに勉強する者がほとんどおらず、平気で行儀外れのことを仕出かす者がはなはだ多うございます。博士は地位にふんぞり返って講義もせず、儒者は口げんかばかりやらかして口先に精神が浮ついております。つまり寡黙なまじめ人間になろうとせず、ガヤガヤとうるさい口車ばかり練習しているのです。」(『後漢書』樊宏伝)(『後漢書』樊宏伝)
だが人界とは常にこういうものであるらしい。そう覚悟して生きるしかない。
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