論語:原文・白文・書き下し
原文(唐開成石経)
孔子曰求周任有言曰陳力就列不能者止危而不持顚而不扶則將焉用彼相矣且爾言過矣虎兕出於柙龜玉毀於櫝中是誰之過與冉有曰今夫顓臾固而近於費今不取後丗必爲子孫憂
※「將」字のつくりは寽。
校訂
諸本
東洋文庫蔵清家本
孔子曰求周任有言曰陳力就烈不能者止/危而不持顚而不扶則將焉用彼相矣/且氽言過矣虎兕出扵柙龜玉毀櫝中是誰之過與/冉有曰今夫顓臾固而近於費/今不取後世必爲子孫憂
- 「將」字のつくりは寽。
- 「氽」字は音「トン」訓「うかべる」。「ナムチ」とふりがなあり。「爾」の異体字「尒」(『敦煌俗字譜』所収)に類似。京大本・宮内庁本は「爾」と記す。
- 「扵」字は「〔才仒〕」。「於」の異体字。「司隸校尉楊君石門頌」(後漢)刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
「求!周任有言曰:『陳力就464……有曰:「今夫[顓]465……憂。」
標点文
孔子曰、求、周任有言。曰、陳力就烈、不能者止。危而不持、顚而不扶、則將焉用彼相矣。且爾言過矣。虎兕出於柙、龜玉毀櫝中、是誰之過與。冉有曰、今夫顓臾、固而近於費。今不取、後世必爲子孫憂。
復元白文(論語時代での表記)
顚
焉
柙
毀
顓
※危→(甲骨文)・將→(甲骨文)・兕→(甲骨文)・櫝→賈・固→(戦国金文)・近→幾。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「危」「扶」「將」「過」「與」「夫」「固」「必」の用法に疑問がある。本章は少なくとも漢儒による改変がある。
書き下し
孔子曰く、求、周任には言有り。曰く、力を陳ねて烈に就き、能はざる者止むと。危くし而持え不、顚而扶け不らば、則ち將た焉んぞ彼の相に用き矣む。且つ爾の言過て矣。虎兕柙於り出で、龜玉櫝の中於毀るるは、是れ誰之過ちぞ與。冉有曰く、今夫れ顓臾は、固くし而費於近し。今取ら不らば、後の世必ず子孫の憂を爲さむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
〔前回からの続き〕
孔子が言った。
「求よ。(いにしえの名臣)周任が言ったではないか。力を尽くして厳しい職務に当たり、能力が及ばなければ辞めると。(主人が)危うくても支えず、倒れても助けないなら、つまりどうにもこうにも、どうしてあの家の執事として役に立つのか。さらにお前の言葉は間違っている。虎や犀が檻から逃げだし、亀の甲羅や宝石が宝箱の中で壊れたなら、これは誰の過ちか。」
冉有が言った。
「今あの顓臾は、(守りが)固くて(季孫家根城の)費邑の近くにあります。今占領しないと、後の世に必ず子孫の憂いとなるでしょう。」
意訳
孔子「冉有、昔の偉い人は言った。精一杯働いて激務に耐え、どうしようも無くなったらやめると。それに引き換え、お前は補佐役失格だぞ。主家が危機にあるのに助けようともしない。例えばだ、屋敷で飼っていた猛獣が逃げた、宝箱の中身が割れた、それで飼育係や納戸役が、知りませんでした、で済むと思うか。」
冉有「顓臾は守りが堅い上に、季氏の根城、費邑のすぐそばです。今取りつぶさないと後世の憂いになります。」
従来訳
先師がいわれた。――
「求よ、昔、周任という人は『力のかぎりをつくして任務にあたり、任務が果せなければその地位を退け。盲人がつまずいた時に支えてやることが出来ず、ころんだ時にたすけ起すことが出来なければ、手引きはあっても無いに等しい』といっているが、全くその通りだ。お前のいうことは、いかにもなさけない。もしも虎や野牛が檻から逃げ出したとしたら、それはいったい誰の責任だ。また亀甲や宝石が箱の中でこわれていたとしたら、それはいったい誰の罪だ。よく考えて見るがいい。」
冉有がいった。――
「仰しゃることはごもっともですが、しかし現在の顓臾は、要害堅固で、季氏の領地の費にも近いところでございますし、今のうちに始末をしておきませんと、将来、子孫の心配の種になりそうにも思えますので……」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「冉求,有句老話說:『在其位就要盡其責,不然就辭職』,危險時不支持,跌倒時不攙扶,要你這個助手何用?而且,你還說錯了,虎兕跑出籠子,龜玉毀在盒中,是誰的錯?」冉有說:「現在顓臾城牆堅固,又離費城很近,現在不奪過來,將來會成為子孫的後患。」
孔子が言った。「冉求、昔からの言い伝えにこうある、”職に就いたらその責任を果たせ。出来なければ辞めろ”と。つまずき転んだときに助け起こさない、それならお前のような補佐役に何の用がある? しかも、お前の話は間違っている。トラやサイが檻から逃げ出し、亀の甲や玉が宝箱の中で割れたら、それは誰のあやまちだ?」冉有が言った。「今の顓臾は城壁が強固です。また費邑から距離が近く、今奪い取らなければ、将来子孫の災いになりかねません。」
論語:語釈
孔 子 曰、「求 周 任 有 言 曰、『 陳 力 就 列、不 能 者 止。』危 而 不 持、顚 而 不 扶、則 將 焉 用 彼 相 矣。且 爾 言 過 矣 虎 兕 出 於 柙、龜 玉 毀 於 櫝 中、是 誰 之 過 與。」冉 有 曰、「今 夫 顓 臾、固 而 近 於 費。今 不 取、後 世 必 爲 子 孫 憂。」
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章は例外の一つで、あるいは季孫家の執事である冉有を対等に扱った可能性がある。詳細は論語先進篇11語釈を参照。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
論語の本章では敬称「孔子」のほか、「子孫」として”子供”の意にも用いている。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
求(キュウ)
孔子の弟子、冉求子有のこと。いみ名が「求」であざ名が「子有」。目上の孔子が呼びかけるので、いみ名を呼んだ。また冉有が孔子にへり下って自称として用いている。
冉有は後世、子路と共に政才を評価され、新興武装士族だった冉一族のおそらく当主。武将としても活躍した。詳細は論語の人物・冉求子有を参照。
「求」(甲骨文)
「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。同音は「求」を部品とする漢字群多数だが、うち甲骨文より存在する文字は「咎」のみ。甲骨文では”求める”・”とがめる”の意が、金文では”選ぶ”、”祈り求める”の意が加わった。詳細は論語語釈「求」を参照。
周任(シュウジン)
(金文)
論語の本章では、周代初期の名臣として知られた人物のこと。「シュウ・ジン」という読みは漢音(遣唐使時代に伝わった発音)で、「ス/シュ・ニン」は呉音(遣唐使より前に日本に伝わった発音)。辞書的には論語語釈「周」・論語語釈「任」を参照。
論語の本章のほかには、孔子が「学に志し」た(論語為政篇4)かぞえで十五才、昭公五年(BC537)の『春秋左氏伝』に次の通り名が見える。
周任有言曰,為政者不賞私勞,不罰私怨
周任は言ったそうです。「為政者は勝手な働きには褒美を取らせず、勝手な恨みの結果出た行動は罪を問わないものです」と。
それよりはるか前、隠公六年(BC717)にも次の通り名が見える。
周任有言曰,為國家者,見惡如農夫之務去草焉,芟夷蘊崇之,絕其本根,勿使能殖,則善者信矣。
周任は言ったそうです。「国を治める者は、農夫が雑草を見つけるとせっせと刈り取ろうとするように、悪事を嫌うものです。刈って積み上げ、根こそぎ絶やし、悪事の増えようが無くなって、やっと善人に信用されます」と。
また論語と同じく定州漢墓竹簡に含まれていた『孔子家語』曲礼子貢問篇に、『春秋左氏伝』昭公五年と同じ言葉が載るほか、次のように見える。
周任有言曰:「民悅其愛者,弗可敵也。」
周任は言ったそうです。「民がお上の恩情を喜んでいる間は、その国にかなう敵は居ません」と。
先秦両漢の周任に関する記事はあともう一つ、前漢初期の『新語』に一箇所、「周任は呂望(=太公望)を(文王に)推薦した」という記事が見える。つまり前漢初期には、周王朝創業の功臣の一人とされていたことになる。
世の論語本には「史官(=記録官)だった」と見てきたようなことを書いているのがあるが、それは唐太宗李世民の勅撰で編まれた『群書治要』の注に「周任,古之良史也」と書いてあるのをコピペしただけで、注には例によって何も論拠が書いていない。しかも西周か滅んでから唐が出来るまでに、1,400年が過ぎている。デタラメを信じるのはもうやめよう。
以下は訳者の推測だが、「任」のカールグレン上古音はȵi̯əm(平/去)で、「人」「仁」ȵi̯ĕn(平)ときわめて近い。つまり”周の(立派な)人”の意であり、儒教を広めるためにありもしない理想の制度を過去の周王朝になすりつけた、漢儒がやらかしそうな創作名である。
「任」そのものの意味も”仕事”であり、ここから唐儒の”古之良史”というデタラメが生まれた。「史」は史官=記録官ばかりとは限らず、ひろく文書行政に携わる役人一般も意味するから、唐儒の頭の中では、”周の立派で有能な役人”程度の意味に読んだだろう。
有(ユウ)
「有」(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”ことば”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
周任有言(シュウジンにはことのはあり)
論語の本章では、”周任は言葉があった”。直後の「有」と「曰」は共に述語動詞で主語は共に「周任」。「周任言へる有り、曰く~」と訓読するのが通説だが、「有」の主語は「言」ではない。ただし正しい訓読の結果として、”周任はこう言った、~”と意訳するのは構わない。
訓読「には」は格助詞「に」+係助詞「は」で、「いとやむごとなききはにはあらねど」(『源氏物語』)、「目にはさやかに見えねども」(藤原敏行)の例がある。
陳(チン)
九年衛鼎・西周中期
論語の本章では”連ねる”。類字の「陣」は初出が不明で、カールグレン上古音がdʰi̯ĕn(去)であり、同音同調で字形も似ているため、「陳」が転用されたとみられる。現在は「陣」としての「陳」の用例が春秋末期までに見つかっていないが、おそらく古くから「陣」として用いていたと想像できる。
「陣」は〔阝〕”階段”+〔車〕”戦車”で、戦車隊が主力だった西周~春秋時代、連隊>大隊>中隊>小隊のように、階層立てて戦車を配置し部隊を編成すること、またそうして編成した部隊を前線で展開して陣立てを作ること。
「陳」の初出は西周中期の金文。字形は〔阝〕”はしご”+〔東〕で、原義は不明。春秋末期までに確認できる語義は、国名や人名のみ。うち国名の「陳」は、「曹」と並んで孔子存命中に滅亡した諸侯でもある。詳細は論語語釈「陳」を参照。
力(リョク)
(甲骨文)
論語の本文では”能力”。初出は甲骨文。「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。
就(シュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”従事する”。初出は甲骨文。同音からは原義を求めがたい。字形は上下に「亯」(享)+「京」で、「亯」は”祖先祭殿”を、「京」は”高地にある都市”を意味する。甲骨文では地名に用いられ、金文では”逐う”・”つけ加える”、人名、”進む”を意味したという。”従事する”の語義は”つけ加える”の派生義と考えられる。詳細は論語語釈「就」を参照。
列(レツ)→烈(レツ)
唐石経は「列」と記し、清家本は「烈」と記す。晩唐の開成三年(837)に完工した唐石経より、日本の正和四年(1315)に書写された東洋文庫蔵清家本の方が新しいのだが、日本には唐石経が刻まれるより以前、おそくとも隋代に古注系の論語が伝わって(慶大蔵論語疏)伝承された。
それに対し唐石経は、当時さまざま文字列に異同のあった儒教経典を統一するために刻まれたから、当時の都合によって文字を書き換えた箇所が少なからずある(論語郷党篇19など)。従って論語の文字列としては、清家本の方が古い姿を伝えていると言える。
これに従い、「列」→「烈」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
「列」は論語の本章では”つらなる”。論語では本章のみに登場。事実上の初出は西周末期の金文。字形は〔歹〕+〔刀〕で、頭を持って切り裂くこと。西周の金文では擬声音に用いた。春秋時代以前の用例はこの一例のみ。戦国の金文や竹簡では、”ならぶ”・”裂く”の意に用いた。詳細は論語語釈「列」を参照。
(甲骨文)
「烈」は論語の本章では”はげしい”。初出は甲骨文。ただし字形は「歹」+「水」。初出の字形は「歹」”凶事”+「水」。激しい降雨のさま。現行字形は「歹」+「刂」”刀で斬る”+「灬」”火”。刀で斬ってなきがらを焼くさま。甲骨文から”はげしい”の意に用いた。西周・春秋の金文、戦国文字では「灬」を欠く「剌」で「烈」を表した。部品で同音の列を「烈に通ず」と『大漢和辞典』は言うが、その用例は春秋時代以前に見られない。詳細は論語語釈「烈」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~の場合は”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
止(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”辞任する”。初出は甲骨文。字形は足の象形。甲骨文から原義のほか、”やむ”・”とどまる”と解しうる用例がある。また祭りの名の例も見られる。詳細は論語語釈「止」を参照。
危(ギ)
(甲骨文)
論語の本章では”あやうい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「厃」。「㔾」が加わるのは戦国文字から。字形は諸説あるが由来不明。ただし、甲骨文として比定されている字形は曲がった下向きの矢印であることでは一致しており、”高いところから落っこちる”ことではなかろうか。「キ」は慣用音。甲骨文で”落ちる”の意に用いた。金文の出土例は殷代末期のみで、短文に過ぎて語義を判読しがたい。詳細は論語語釈「危」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でありかつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
持(チ)
(金文)
論語の本章では”保持する”→”支える”。論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文。ただし字形は「寺」。字形は音符〔止〕+〔又〕”て”。手で持つこと。春秋の字形には「寺」のほか「𠱾」も見られる。「ジ」は呉音。西周の金文から”保持する”の意に用いた。詳細は論語語釈「持」を参照。
顚(テン)
(戦国金文)
論語の本章では”ひっくり返る”。論語では本章のみに登場。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。台湾や中国では、「顛」がコード上の正字体として扱われている。字形は「眞」(真)”人を釜ゆでにする”+「頁」”大きな頭”で、原義は”釜ゆでのいけにえ”。詳細は論語語釈「顚」を参照。
扶(フ)
(金文)
論語の本章では”助ける”。論語では本章のみに登場。初出は殷代末期の金文だが、その後戦国時代まで途絶えており、殷周革命で一旦滅んだ漢語と考えるのが筋が通る。字形は音符〔夫〕+〔又〕”手”。成人男性に手を添える形。殷代末期には人名の一部に用い、戦国最末期になって”たすける”の意に用いた。詳細は論語語釈「扶」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~ならつまり”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
將(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”どうにもこうにも”。”~であるのに、さらに~だ”の意。この語義は春秋時代では確認出来ない。
『学研漢和大字典』「將」条
「はた」とよみ、「または」「しかし」「それとも」「まあ」と訳す。判断を加えて、少しの間を置き別の判断を追加する意を示す。「若非侵小、将何所取=若(も)し小を侵すに非(あら)ずんば、将(は)た何くにか取る所あらん」〈(晋が)もし小国を侵さなければ、いったいどこに攻め取る土地がありますか〉〔春秋左氏伝・襄二九〕
新字体は「将」。初出は甲骨文。字形は「爿」”寝床”+「廾」”両手”で、『字通』の言う、親王家の標識の省略形とみるべき。原義は”将軍”・”長官”。同音に「漿」”早酢”、「蔣」”真菰・励ます”、「獎」”すすめる・たすける”、「醬」”ししびしお”。春秋末期までに、”率いる”・”今にも~しようとする”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「将」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「いずくんぞ」と読んで、”どうして”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
「焉」は助動詞「つ」「ぬ」「たり」「り」のいずれにも訓みうるから、訓読には工夫が要る。
用(ヨウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”用いる”→”役立つ”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”~で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。
彼(ヒ)
(金文)
論語の本章では”あの”。初出は春秋末期の金文。ただし字形は「皮」。現行字形の初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」。字形は〔𠙵〕〔丨〕”へび”+〔勹〕”皮”+〔又〕”手”。蛇の皮を剥く姿。同じ字形が西周中期「九年衛鼎」(集成2831)に”かわ”として用いられており、”かれ”に用いるのは仮借。春秋末期の金文から”あの”の意に用いた。詳細は論語語釈「彼」を参照。
相(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”執事”。一家の取締役。初出は甲骨文。「ソウ」は呉音。字形は「木」+「目」。木をじっと見るさま。原義は”見る”。甲骨文では地名に用い、春秋時代までの金文では原義に、戦国の金文では”補佐する”、”宰相”、”失う”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”相互に”、”補助する”、”遂行する”の意に用いられた。詳細は論語語釈「相」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)…である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
且(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”その上”。初出は甲骨文。字形は文字を刻んだ位牌。甲骨文・金文では”祖先”、戦国の竹簡で「俎」”まな板”、戦国末期の石刻文になって”かつ”を意味したが、春秋の金文に”かつ”と解しうる用例がある。詳細は論語語釈「且」を参照。
爾(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。
東洋文庫蔵清家本(正和四年1315写)が「氽」と記すのは字は「尒」の誤字で、宮内庁蔵清家本(嘉暦二年~三年1327-1328写)では「爾」と記している。伝承では清家本のうちもっとも古い京大本(徳治三年1308以前写?)でも「爾」と記している。
過(カ)
(金文)
論語の本章では”あやまち”。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
虎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”トラ”。字形はトラの象形。詳細は論語語釈「虎」を参照。
兕(シ)
(甲骨文)
論語の本章ではサイのような大型の猛獣の一種。『学研漢和大字典』によると一説に”サイ”だという。先秦両漢の辞書・字書には語釈が無い。初出は甲骨文。金文は発掘されていない。殷周革命で一旦滅んだ漢語である可能性がある。再出は戦国最末期「睡虎地秦簡」。字形は頭が大きく、角の生えた動物の象形。現行字形は凹んだ頭を持つ動物で、横から見たサイは耳と角が突出し頭が凹んで見える。「ジ」は呉音。甲骨文では200件ほど用例があるが、ほぼ全て象形したような大型動物を指すと解せる。戦国最末期「睡虎地秦簡」では、甲骨文同様の大型動物の皮を指すと解せる。詳細は論語語釈「兕」を参照。
戦国から漢にかけて編まれた『小載礼記』には「天子之棺四重;水兕革棺被之」とあり、wikipediaサイ条には「スマトラサイとジャワサイは、特に河川や沼の周辺に好んで生息する」といい、現在も東南アジアに分布するサイはスマトラサイとジャワサイという。「水兕」がそれにあたり、そうでない「兕」はインドサイかもしれない。
なお初期仏典に「犀の角のように一人歩め」というように、インドサイの角は一本、スマトラサイは二本、ジャワサイは一本という。別の動物に見えてもおかしくない。
出(シュツ)
(甲骨文)
論語の本章では”逃げ出す”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~から”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
柙(コウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”けものを閉じこめるおり”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。ただし字形は〔木虍㚔〕。現行字形の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。初出の字形は〔木〕+〔虍〕”虎の頭”+〔㚔〕”かせ”で、猛獣を閉じこめておく檻。同音は「狎」、「匣」。楚系戦国文字で”牢屋”の意に用いた。詳細は論語語釈「柙」を参照。
龜(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”カメ”。甲骨文に代表されるように、亀甲を占いに用い、また宝物として用いた。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形はカメの象形。甲骨文から”カメ”の意に用いた。詳細は論語語釈「亀」を参照。
玉(ギョク)
論語の本章では”宝石”。初出は甲骨文。字形は数珠つなぎにした玉の象形。甲骨文から”たま”の意で用いた。詳細は論語語釈「玉」を参照。
中国では宝物としてヒスイの類の緑石を重んじた。現行字形は「王」に一点加えたものだが、「王」の字形はまさかりの象形から来ているので、全く由来が違う。
毀(キ)
(戦国金文)
論語の本章では”壊れる”。初出は戦国中期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔兒〕+〔殳〕。子供を鞭打つさま。異体字に「毁」。同音に「燬」”火・焼く”、「烜」”乾かす・あきらか”。戦国時代から”減らす”・”攻める”・”壊す”の意に用いた。詳細は論語語釈「毀」を参照。
櫝(トク)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”宝箱”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「賈」。字形は「木」+「士」+「罒」+「貝」。「貝」はタカラガイ、「罒」は網で、財宝となるタカラガイをすなどるさま。「士」はそれに蓋をしてしまっておくさま。「木」は財宝をしまっておくための容器が木箱であることを示す。同音に「獨」(独)、「賣」を部品とする多数の漢字群。戦国時代の用例は、語義が未詳。詳細は論語語釈「櫝」を参照。
中(チュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の中”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では、”これは”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」”見つめる”+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
誰(スイ)
「誰」(金文)
論語の本章では”だれ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。字形は字形は「䇂」”小刀”+「𠙵」”くち”+「隹」だが由来と意味は不詳。春秋までの金文では”あお馬”の意で用い、戦国の金文では「隹」の字形で”だれ”を意味した。詳細は論語語釈「誰」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では「や」と訓読して”~か”。疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
冉有(ゼンユウ)
(甲骨文)
孔子の弟子。 姓は冉、名は求、あざ名は子有。本章ではあざ名で呼んでおり敬称。本章冒頭で孔子が「求」と呼んでいるのと同一人物。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。
「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
今(キン)
(甲骨文)
論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「亼」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。
夫(フ)
(甲骨文)
論語の本章では「それ」と読んで”そもそも”の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
顓臾(センユ)
論語の本章では、魯国領内にある半独立の小国。詳細は論語季氏篇1a解説を参照。
(篆書)
「顓」の初出は定州漢墓竹簡。論語の時代に存在しない。ただし地名・人名の場合、同音近音のあらゆる漢語が候補になり得る。字形は〔耑〕”草木のみずみずしい様”+〔頁〕”大きな頭”。原義不明。同音に「専」。戦国中末期の竹簡に「耑□」とあり、「顓頊」と釈文されている。文献時代では、地名・人名に用いた。詳細は論語語釈「顓」を参照。
(甲骨文)
「臾」の初出は甲骨文。論語では本章のみに登場。字形は〔臼〕”手2つ”の間に〔人〕。人を引き回すさま。甲骨文での語義は明らかでない。西周の金文では官職名、または人名の一部に用いた。詳細は論語語釈「臾」を参照。
固(コ)
(金文)
論語の本章では守りが”固い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。字形は「囗」+「十」+「曰」だが、由来と意味するところは不明。部品で同音の「古」が、「固」の原字とされるが、春秋末期までに”かたい”の用例がない。詳細は論語語釈「固」を参照。
近(キン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”近い”。初出は楚系戦国文字。戦国文字の字形は「辵」(辶)”みちのり”+「斤」”おの”で、「斤」は音符、全体で”道のりが近い”。同音には”ちかい”の語釈を持つ字が『大漢和辞典』にない。論語時代の置換候補は「幾」。部品の「斤」も候補に挙がるが、”ちかい”の用例が出土史料にない。詳細は論語語釈「近」を参照。
費(ヒ)
論語では魯国の都市。季孫家の根拠地。子路が代官を務めたことがある。
(金文)
文字は春秋時代には「弗」と書き分けられず、初出は春秋早期の金文。同音に「朏」(上)”薄暗い月”、「昲」(去)”さらす”・”かがやく”。字形は「弗」”…でない”+「貝」”財貨”で、財貨を費やすこと。戦国時代の金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「費」を参照。
取(シュ)
(甲骨文)
論語の本章では”取る”→”占領する”。初出は甲骨文。字形は「耳」+「又」”手”で、耳を掴んで捕らえるさま。原義は”捕獲する”。甲骨文では原義、”嫁取りする”の意に、金文では”採取する”の意(晉姜鼎・春秋中期)に、また地名・人名に用いられた。詳細は論語語釈「取」を参照。
後(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”のちの”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「幺」”ひも”+「夂」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。
世(セイ)
(金文)
論語の本章では”時代”。初出は西周早期の金文。「セ」は呉音。字形は枝葉の先で、年輪同様、一年で伸びた部分。派生して”世代”の意となった。春秋までの金文では”一生”、”世代”、戦国時代では”人界”を意味した。戦国の竹簡では”世代”を意味した。詳細は論語語釈「世」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”~になる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
孫(ソン)
(甲骨文)
論語の本章では”孫”。「子孫」として”末裔”の意。初出は甲骨文。字形は「子」+「幺」”糸束”とされ、後漢の『説文解字』以降は、”糸のように連綿と続く子孫のさま”と解する。ただし甲骨文は「子」”王子”+「𠂤」”兵糧袋”で、戦時に補給部隊を率いる若年の王族を意味する可能性がある。甲骨文では地名に、金文では原義のほか人名に用いた。詳細は論語語釈「孫」を参照。
憂(ユウ)
(金文)
論語の本章では”心配のたね”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章について、文字史上から論語の時代そのままの文章でないことは明らかだが、内容面含めて総合的な検証は、最終部分である論語季氏篇4検証で行うこととする。とりあえず本章では、孔子晩年に季孫家による小国併合騒ぎがあったこと、ゆえに本章は伝説としては史実を伝える可能性があるのを指摘するに止める。
解説
本章の事件と似た邾国乗っ取り事件が、『春秋左氏伝』哀公七年(BC488)の伝に記されている。
夏。覇者の国・呉に呼びつけられて、魯は周辺諸国との不可侵を誓わされた。
だが筆頭家老・季康子は、家老職を継いだばかりで鼻息が荒い。呉王が帰ったのをいいことに、すぐ隣の邾国を乗っ取ろうと悪だくむ。そこでご馳走を用意して家老一同を招き、「どうであろう」。言わいでか、とマジメ人間の子服景伯が言う。
「小国が大国に仕えるのが信で、大国が小国を守り育てるのが仁です。」「…。」
「つまり大国に逆らうのは不信で、小国をいじめるのは不仁です。そもそも民は、まちを取り囲む城壁があるから安心して暮らせますし、城は人徳で保たれます。信と仁、この二つの徳を踏みにじれば、ろくな事にならないでしょう。」
(ケッ、何言ってやがる、偽善のお説教屋め。そんなんでこの乱世を生き残れるか!)と、これもやる気満々の次席家老、孟懿子が言う。「いかがでござる、おのおの方。何かウマく乗っ取る妙案はないものか。」家老が次々に答えた。
「昔、夏王朝の始祖・禹が、この指止まれ、と殿様方を集めたら、頭を下げに来たのが万人居たと言います。でもどしどし滅んで、今では数十しか残っていません。大国が小国を可愛がらず、小国が大国を敬わないからこうなったのです。」
「左様。邾は魯より小さいとは言え、目と鼻の先のお隣さんでござる。なのに連年、季どの以下ご三家は非道いことばかりしてきた。だから呉に止められた。これではいずれ天罰が下るに決まっております。拙者は黙って見過ごせませぬ。」
「それがしもです。確かに邾もたいがいで、道徳的には我が魯と大して変わりませんが、天はみそなわしておられましょう。今の邾公がバカ殿だからと言って、これ以上押し込んだら、今度こそ天罰が下ります。何より呉王が黙っていますまい。」
と言われて、季康子も孟懿子も、すっかりニガい顔をして、会はお開きになった。
そこで秋。反対を振り切って勝手に邾に攻め込んだ。外城の門に押しかけた所でも、チンカンとまだ魯国の鐘が聞こえるほど両国は近い。「季どの、孟どの、おやめなされ!」と家老たちが退き鐘を鳴らすが、欲に目がくらんだ両人は聞き流す。
一方邾国の家老、茅成子があるじの殿様に言った。「盟約違反です。呉に助けて貰いましょう。」「何を言っておる。」と殿様。「そちの耳はギョウザであるか? 日ごろ魯の連中が拍子木を打ってすら、ここまで聞こえるんじゃぞ?」「…。」
「なのに呉国はどんだけ遠いのじゃ。二千里(≒810km)もあるではないか。行くだけで三ヶ月かかるわい。当てになるものか。それに我が邾軍とて、魯軍相手に不足はないぞ? このワシが一つ、奴らの目にもの見せてくれよう。」
ああやっぱりバカ殿だ、と茅成子は自領の茅に引き籠もってしまう。
魯軍はついに城門を破り、邾国になだれ込む。殿様の屋敷を占拠すると、昼間ゆえに兵隊は手当たり次第略奪を始めた。邾軍はさっさと逃げ散り、城民と共に繹山に隠れる。一方一旦始まった魯軍の乱暴は止まらなくなり、夜も略奪に忙しい。
負けて呆然としていた邾の殿様・益は捕まり、亳という高台のやしろに閉じ込められる。「ケケケ、首ちょん切ってオソナエにしちゃおうかな~」とさんざんいびられた。ついで負瑕のまちに監禁され、この時繹山に逃げた民も巻き添えを食う。
それで今でも負瑕には、繹とよばれる横丁がある。
一方引き籠もっていた茅成子は、さすがに高みの見物を決め込むわけにも行かず、絹やなめした牛革など、強欲で知られた呉王に贈る、なけなしのワイロを持って呉に向かった。宮廷で平グモの如く床にはいつくばり、呉王を前に一席ぶつ。
「魯は近くの大国・晋をナメ切っており、覇者の国・呉は遠いからと言ってタカをくくっています。兵も多いからとつけ上がって、殿と誓ったばかりの盟約を破る。ご足労頂いたご家老どのの顔も、丸つぶれですぞ。」「ふむ、けしからんな。」
「それで我が邾をば踏みつぶしたのですが、我らは身が可愛くて、こうやってご挨拶に参ったのではございません。殿のご威光に傷が付くのを恐れているのでございます。ご威光に曇りあらば、我が邾はどうなりましょうや。」「そうじゃな。」
「魯の奴ら、夏には鄫で誓約したのに、秋になってもうこのザマです。こんな好き勝手を許しておくようでは、誰もが殿をナメてかかり、仕え申す諸侯はおりませぬぞ?」「む!」「それに魯の戦車は800両、邾のそれは600両。」「それで?」
「魯は殿に誓った盟約を踏みにじる謀反人ですが、我が邾は殿の忠実な家来でございます。忠臣を謀反人に呉れておやりになるおつもりですか? どうか良くお考え下さいませ。」「よろしい。」呉王は救援を承諾した。
余話
(思案中)
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