論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
孔子曰、「求、周任有言、曰、『陳力就列*、不能者止。』危而不持、顚而不扶、則將焉用彼相矣。且爾言過矣。虎兕出於柙*、龜玉毀於櫝中、是誰之過與*。」冉有曰、「今夫顓臾、固而近於費。今不取、後世*必爲子孫憂。」
校訂
武内本
清家本により、與の下に也の字を補う。烈、唐石経列に作る。列とは位なり。釋文云、匣一本柙に作る、此本(=清家本)一本に同じ。釋文後世の二字なし、云一本後世必に作ると、此本一本に同じ。
定州竹簡論語
「求!周任有言曰:『陳力就464……有曰:「今夫[顓]465……憂。」
復元白文(論語時代での表記)
顚
柙
毀
櫝
顓
※危→(甲骨文)・將→(甲骨文)・焉→安・兕→(甲骨文)・固→股・近→斤。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「則」「與」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
孔子曰く、求、周任言へる有り、曰く、力を陳ねて列に就き、能はざる者止むと。危くし而持えず、顚而扶けざらば、則ち將た焉んぞ彼る相を用ゐ矣む。且つ爾の言過て矣。虎兕柙於り出で、龜玉櫝中於毀るるは、是れ誰之過ちぞ與。冉有曰く、今夫れ顓臾は、固にし而費於近し。今取らずんば、後世必ず子孫の憂を爲さむ。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
〔前回からの続き〕
孔子が言った。
「求よ。(歴史家の)周任が言ったではないか。力を尽くして家臣の列に連なり、能が及ばなければやめると。主人が危うくても支えず、倒れても助けないなら、補佐役が何の用になるのか。さらにお前の言葉には間違いがある。虎や犀が檻から出、亀の甲羅や玉が宝箱の中で壊れたなら、これは誰の過ちか。」
冉有が言った。
「今の顓臾は、守りが固くて費邑の近くにあります。今取らねば、後の世に必ず子孫の憂いとなるでしょう。」
意訳
孔子「冉有、補佐役失格だぞ。屋敷で飼っていた猛獣が逃げた、宝箱の中身が割れた、それで飼育係や納戸役が、知りませんでした、で済むと思うか。」
冉有「顓臾は守りが堅い上に、季氏の根城、費邑のすぐそばです。今取りつぶさないと後世の憂いになります。」
従来訳
先師がいわれた。――
「求よ、昔、周任という人は『力のかぎりをつくして任務にあたり、任務が果せなければその地位を退け。盲人がつまずいた時に支えてやることが出来ず、ころんだ時にたすけ起すことが出来なければ、手引きはあっても無いに等しい』といっているが、全くその通りだ。お前のいうことは、いかにもなさけない。もしも虎や野牛が檻から逃げ出したとしたら、それはいったい誰の責任だ。また亀甲や宝石が箱の中でこわれていたとしたら、それはいったい誰の罪だ。よく考えて見るがいい。」
冉有がいった。――
「仰しゃることはごもっともですが、しかし現在の顓臾は、要害堅固で、季氏の領地の費にも近いところでございますし、今のうちに始末をしておきませんと、将来、子孫の心配の種になりそうにも思えますので……」下村湖人先生『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「冉求,有句老話說:『在其位就要盡其責,不然就辭職』,危險時不支持,跌倒時不攙扶,要你這個助手何用?而且,你還說錯了,虎兕跑出籠子,龜玉毀在盒中,是誰的錯?」冉有說:「現在顓臾城牆堅固,又離費城很近,現在不奪過來,將來會成為子孫的後患。」
孔子が言った。「冉求、昔からの言い伝えにこうある、”職に就いたらその責任を果たせ。出来なければ辞めろ”と。つまずき転んだときに助け起こさない、それならお前のような補佐役に何の用がある? しかも、お前の話は間違っている。トラやサイが檻から逃げ出し、亀の甲や玉が宝箱の中で割れたら、それは誰のあやまちだ?」冉有が言った。「今の顓臾は城壁が強固です。また費邑から距離が近く、今奪い取らなければ、将来子孫の災いになりかねません。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
孔 子 曰、「求 周 任 有 言 曰、『 陳 力 就 列、不 能 者 止。』危 而 不 持、顚 而 不 扶、則 將 焉 用 彼 相 矣。且 爾 言 過 矣 虎 兕 出 於 柙、龜 玉 毀 於 櫝 中、是 誰 之 過 與。」冉 有 曰、「今 夫 顓 臾、固 而 近 於 費。今 不 取、後 世 必 爲 子 孫 憂。」
求
(金文)
論語の本章では、孔子の弟子・冉求子有の本名。孔子は師匠という目上なので、本名を呼ぶことが許される。
周任(シュウジン)
(金文)
論語の本章では、周代の名臣として知られた人物のこと。おそらく架空の人物。「シュウ・ジン」という読みは漢音(遣唐使時代に伝わった発音)で、「ス/シュ・ニン」は呉音(遣唐使より前に日本に伝わった発音)。辞書的には論語語釈「周」・論語語釈「任」を参照。
論語の本章と同様、『春秋左氏伝』にも二カ所で「周任言えるあり」として言葉が記録されている。しかし論語時代の情報はこれ以上はない。
周任有言曰,為國家者,見惡如農夫之務去草焉,芟夷蘊崇之,絕其本根,勿使能殖,則善者信矣。
周任言える有りに曰く、国を治める者は、悪を見たら農夫が一生懸命草を引くように、刈り取って積み上げ、根本から断ち切ってしまえ。繁殖できないようにしてしまえば、よき者が伸びるだろう。(隠公六年・BC717)
周任有言曰,為政者不賞私勞,不罰私怨
周任言える有りに曰く、為政者は我が身のために働いた者を褒めず、個人的な怨みは罰しない。(昭公五年・BC537)
周任を言い回り始めたのは前漢の儒者で、論語と上掲『左伝』のほかは『新語』に一箇所、『孔子家語』に二箇所のみ。あとは前後漢帝国以前の誰も言及していないから、漢儒がこしらえたニセの歴史人物である可能性が高い。
世の論語本には「史官(記録官)だった」と見てきたようなことを書いているのがあるが、それは唐太宗李世民の勅撰で編まれた『群書治要』の注に「周任,古之良史也」と書いてあるのをコピペしただけで、注には例によって何も論拠が書いていない。しかも西周か滅んでから唐が出来るまでに、1,400年が過ぎている。デタラメを信じるのはもうやめよう。
以下は訳者の推測だが、「任」のカールグレン上古音はȵi̯əm(平/去)で、「人」「仁」ȵi̯ĕn(平)ときわめて近い。つまり”周の(立派な)人”の意であり、儒教を広めるためにありもしない理想の制度を過去の周王朝になすりつけた、漢儒がやらかしそうな創作名である。
「任」そのものの意味も”仕事”であり、ここから唐儒の”古之良史”というデタラメが生まれた。「史」は史官=記録官ばかりとは限らず、ひろく文書行政に携わる役人一般も意味するから、唐儒の頭の中では、”周の立派で有能な役人”程度の意味に読んだだろう。
陳力就列、不能者止
「陳」(金文)
論語の本章では、”力を出し尽くして家臣の列に連なり、それでも能力が足りなければ辞職せよ”。「陳」とは陳列というように、店の棚に商品を出すように並べることで、”自分のありとあらゆる技能を展示して就職・在職せよ、そうできなければ辞めろ”ということ。
「陳」の初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、古くは「東(袋の形)二つ+攴(動詞の記号)」の会意文字。土嚢(ドノウ)を一列にならべることを示した。陳はその略体にさらに阜(土もり)を加えた字で、土嚢を平らに列をなしてならべること、という。詳細は論語語釈「陳」を参照。
「就」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「京(おおきいおか)+尤(て)」の会意文字で、大きい丘に設けた都に人々を寄せ集めるさまを示す。よせ集めてある場所やポストにひっつけること。転じて、まとめをつける意にも用いる、という。詳細は論語語釈「就」を参照。
「列」は論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文だが、珍しいことに上古音が一切分かっていない。『学研漢和大字典』によると「歹(ほね)+刀」の会意文字で、一連の骨(背骨など)を刀で切り離して並べることを示す、という。対して『字通』では、殷のむやみな斬首と首祭りに淵源を持つという。詳細は論語語釈「列」を参照。
危而不持、顚而不扶
「危」(金文大篆・甲骨文)
論語の本章では、”危ないのに支えない、倒れたのに助けない”。
「危」の初出は甲骨文。金文は発掘されていない。『学研漢和大字典』によると「厂(がけ)+上と下とに人のしゃがんださま」の会意文字。あぶないがけにさしかかって、人がしゃがみこむことをあらわす、という。『字通』もだいたいそのようなことを言う。上掲の金文大篆を見るとそう思える。だが甲骨文はとてもそうには見えない。詳細は論語語釈「危」を参照。
「持」(金文)
「持」は論語では本章のみに登場。初出は春秋末期の金文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、寺は「寸(て)+(音符)之(シ)」の会意兼形声文字。手の中にじっと止めること。持は「手+(音符)寺」で、手にじっと止めてもつこと、という。詳細は論語語釈「持」を参照。
「顚」(金文大篆・篆書)
「顚」初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。置換できる候補も無い。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、眞(=真)の金文は「匕(さじ)+鼎」の会意文字。鼎(かなえ)の中にさじで物をみたすことをあらわす。篆文(テンブン)は「人+首の逆形」の会意文字で、人が首をさかさにして頭のいただきを地につけ、たおれることを示す、という。詳細は論語語釈「顛」を参照。
「扶」(金文)
「扶」は論語では本章のみに登場。初出は殷代末期の金文。『学研漢和大字典』によると「手+(音符)夫」の形声文字で、手の指四本をわきの下にぴたりと当てがってささえること。夫は発音を示し、意味に関係がない、という。詳細は論語語釈「扶」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
將(将)
(金文)
論語の本章の今回では、”きっと~だろう・~のはず”の意で、判断を加えたうえの推量の意を示す。これに反語が加わっているので、”いったい全体~だろうか”の意となる。詳細は論語語釈「将」を参照。また「まさに」の詳細は、漢文読解メモ「まさに」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では、「いずくんぞ」と読んで、疑問を示すことば。原義はエンという黄色い鳥のことだとされるが、儒者が一杯機嫌で書いたホラである疑いがある。初出は戦国時代末期の金文。論語の時代に存在しないが、「安」が置換候補となる。詳細は論語語釈「焉」を参照。
彼
(金文)
論語の本章では”覆う”→”保護する”。カールグレン上古音はpia(上)。この場合は指示代名詞”あの”で解釈すると意味が分からない。指示する対象が無いし、「其」と違って”その”の意が無いからだが、どの論語本も分かったような振りをして誤魔化している。
論語の本章では「被」bʰia(上)”おおう”の音通で、「彼相」で”保護する補佐役”の意。「被相」と共に『大漢和辞典』にも見えない漢語だが、本章を偽作した後世の儒者は、古くささを演出するために、あえてわけの分からない漢字を用いたと断じうる。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、皮は、たれたなめしがわを又(手)で向こうに押しやるさま。披(かぶせる)の原字。彼は「彳(いく)+(音符)皮」で、もと、こちらから向こうにななめに押しやること。転じて、向こう、あちらの意となる、という。詳細は論語語釈「彼」を参照。
相
(金文)
論語の本章では”補佐役”。初出は甲骨文。”見る”の意があり、面倒を見る人。『学研漢和大字典』によると「木+目」の会意文字で、木を対象において目でみること。AとBとがむきあう関係をあらわす、という。詳細は論語語釈「相」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)…である”。初出はおそらく西周早期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
且(ショ)
(金文)
論語の本章では”かつ・加えて”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると物を積み重ねたさまを描いたもので、物を積み重ねること。転じて、かさねての意の接続詞となる。また、物の上に仮にちょっとのせたものの意から、とりあえず、まにあわせの意にも転じた、という。詳細は論語語釈「且」を参照。
爾
(金文)
論語の本章では”お前”。冉求を指す。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると柄にひも飾りのついた大きいはんこを描いた象形文字。璽(はんこ)の原字であり、下地にひたとくっつけて印を押すことから、二(ふたつくっつく)と同系のことば。またそばにくっついて存在する人や物をさす指示詞に用い、それ・なんじの意をあらわす、という。詳細は論語語釈「爾」を参照。
過(カ)
(金文)
論語の本章では”あやまち”。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
虎兕(コジ)
「虎」(金文)「兕」(古文)
論語の本章では、”虎とサイ”。「虎」の詳細は論語語釈「虎」を参照。「兕」は論語では本章のみに登場。野牛と解する説もある。
初出は甲骨文。金文は発掘されていない。『学研漢和大字典』によると「兕」は象形文字で、古代の中国の山野に野生していた、ジという一本の角がある獣の姿を描いたもの、という。一方『字通』では、『説文解字』に「野牛の如くして青色、その皮は堅く厚く、鎧をつくのによい。象形文字」とあるのを引き、上部は角の形だという。また『周礼』には兕を用いた鎧が六種記されており、武具の材とした、という。また角は酒器に用いたという。
どうやら野牛と考えるよりも、サイだとした方が正解のように思う。詳細は論語語釈「兕」を参照。
出(シュツ/スイ)
(甲骨文)
論語の本章では”逃げ出す”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
於
(金文)
論語の本章の今回では、場所を示す指示詞。訳語はその都度変わる。
柙(コウ)
(古文)
論語の本章では”けものを閉じこめるおり”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音の匣は語義を共有するが、初出は楚系戦国文字。『学研漢和大字典』によると「木+(音符)甲(ふたをする)」の会意兼形声文字で、押(おさえこむ)・匣(コウ)(ふたつきの箱)・狎(コウ)(おさえられておとなしくなる)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「柙」を参照。
龜(亀)玉
(金文)
論語の本章では”亀の甲羅とたま”。どちらも貴重な宝物として扱われた。「亀」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によるとかめを描いた象形文字で、外からまるくかこう意を含み、甲らでからだ全体をかこったかめ、という。詳細は論語語釈「亀」を参照。
「玉」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると細長い大理石の彫刻を描いた象形文字で、かたくて質の充実した宝石のこと。三つの玉石をつないだ姿とみてもよい。楷書では王と区別して丶印をつける、という。詳細は論語語釈「玉」を参照。
毀(キ)
(金文)
論語の本章では”壊れる”。初出は戦国中期の金文。論語の時代に存在しない。置換候補も存在しない。『学研漢和大字典』によると「土+(音符)毇(キ)(米をつぶす)の略体」の会意兼形声文字で、たたきつぶす、また、穴をあけて、こわす動作を示す、という。詳細は論語語釈「毀」を参照。
櫝(トク)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”小箱”。宝物などをしまっておく箱。ひつぎを意味する場合がある。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音多数だが、日本語音で同音同訓の漢字に、論語の時代まで遡り得るものはない。詳細は論語語釈「櫝」を参照。
誰(スイ)
(金文)
論語の本章では”だれ”。初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると「言+(音符)隹(スイ)」の形声文字で、惟(イ)・維(イ)は、「これ」の意をあらわす指示詞に用い、その変形した誰は、だれの意をあらわす疑問詞にして用いる。言語の助詞なので、言べんを加えた、という。詳細は論語語釈「誰」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…か”。疑問を示す。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”…と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
漢文の読解では、”与える”・”~と”・”~か”の三つを知っておけばかなり間に合う。
夫
(金文)
論語の本章の今回では、”あれ”という指示詞。漢文の読解では、”おっと”・”男”・”肉体労働者”・”あれ”・”そもそも”の意を知っておけばかなり間に合う。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると大の字にたった人の頭に、まげ、または冠のしるしをつけた姿を描いた象形文字で、成年に達したおとこをあらわす、という。詳細は論語語釈「夫」を参照。
顓臾(センユ)
(金文)
論語の本章では、魯国領内にある半独立の小国。詳細な語釈は前回の語釈を参照。
固
(金文)
論語の本章では”守りが堅い”。初出は戦国時代末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「股」。『学研漢和大字典』によると古は、かたくひからびた頭蓋骨を描いた象形文字。固は、「囗(かこい)+音符古」の会意兼形声文字で、周囲からかっちりと囲まれて動きのとれないこと、という。詳細は論語語釈「固」を参照。
近
(秦系戦国文字)
論語の本章では”近く”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はghi̯ənで、同音に”ちかい”を意味する漢字は無い。論語時代の置換候補は、近音の「斤」。詳細は論語語釈「近」を参照。
費
(金文)
論語の本章では、魯国門閥家老家筆頭・季氏の根拠地となっているまち。
出典:http://shibakyumei.web.fc2.com/
文字的には論語語釈「費」を参照。
取
(金文)
論語の本章では”攻め取る”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「耳+又(て)」の会意文字で、捕虜や敵の耳を戦功のしるしとして、しっかり手に持つことを示す、という。詳細は論語語釈「取」を参照。
憂(ユウ)
(金文)
論語の本章では”心配のたね”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。
論語:付記
前回に引き続き、論語の本章も戦国時代以降の儒者による捏造。顓臾の実在は疑わしいが、魯の門閥家老が勝手に隣の小国を攻め滅ぼした話が、『春秋左氏伝』哀公七年(BC488)の伝に記されている。
夏。覇者の国・呉に呼びつけられて、魯は周辺諸国との不可侵を誓わされた。
だが筆頭家老・季康子は、家老職を継いだばかりで鼻息が荒い。呉王が帰ったのをいいことに、すぐ隣の邾国を乗っ取ろうと悪だくむ。そこでご馳走を用意して家老一同を招き、「どうであろう」。言わいでか、とマジメ人間の子服景伯が言う。
「小国が大国に仕えるのが信で、大国が小国を守り育てるのが仁です。」「…。」
「つまり大国に逆らうのは不信で、小国をいじめるのは不仁です。そもそも民は、まちを取り囲む城壁があるから安心して暮らせますし、城は人徳で保たれます。信と仁、この二つの徳を踏みにじれば、ろくな事にならないでしょう。」
(ケッ、何言ってやがる、偽善のお説教屋め。そんなんでこの乱世を生き残れるか!)と、これもやる気満々の次席家老、孟懿子が言う。「いかがでござる、おのおの方。何かウマく乗っ取る妙案はないものか。」家老が次々に答えた。
「昔、夏王朝の始祖・禹が、この指止まれ、と殿様方を集めたら、頭を下げに来たのが万人居たと言います。でもどしどし滅んで、今では数十しか残っていません。大国が小国を可愛がらず、小国が大国を敬わないからこうなったのです。」
「左様。邾は魯より小さいとは言え、目と鼻の先のお隣さんでござる。なのに連年、季どの以下ご三家は非道いことばかりしてきた。だから呉に止められた。これではいずれ天罰が下るに決まっております。拙者は黙って見過ごせませぬ。」
「それがしもです。確かに邾もたいがいで、道徳的には我が魯と大して変わりませんが、天はみそなわしておられましょう。今の邾公がバカ殿だからと言って、これ以上押し込んだら、今度こそ天罰が下ります。何より呉王が黙っていますまい。」
と言われて、季康子も孟懿子も、すっかりニガい顔をして、会はお開きになった。
そこで秋。反対を振り切って勝手に邾に攻め込んだ。外城の門に押しかけた所でも、チンカンとまだ魯国の鐘が聞こえるほど両国は近い。「季どの、孟どの、おやめなされ!」と家老たちが退き鐘を鳴らすが、欲に目がくらんだ両人は聞き流す。
一方邾国の家老、茅成子があるじの殿様に言った。「盟約違反です。呉に助けて貰いましょう。」「何を言っておる。」と殿様。「そちの耳はギョウザであるか? 日ごろ魯の連中が拍子木を打ってすら、ここまで聞こえるんじゃぞ?」「…。」
「なのに呉国はどんだけ遠いのじゃ。二千里(≒810km)もあるではないか。行くだけで三ヶ月かかるわい。当てになるものか。それに我が邾軍とて、魯軍相手に不足はないぞ? このワシが一つ、奴らの目にもの見せてくれよう。」
ああやっぱりバカ殿だ、と茅成子は自領の茅に引き籠もってしまう。
魯軍はついに城門を破り、邾国になだれ込む。殿様の屋敷を占拠すると、昼間ゆえに兵隊は手当たり次第略奪を始めた。邾軍はさっさと逃げ散り、城民と共に繹山に隠れる。一方一旦始まった魯軍の乱は止まらなくなり、夜も略奪に忙しい。
負けて呆然としていた邾の殿様・益は捕まり、亳という高台のやしろに閉じ込められる。「ケケケ、首ちょん切ってオソナエにしちゃおうかな~」とさんざんいびられた。ついで負瑕のまちに監禁され、この時繹山に逃げた民も巻き添えを食う。
それで今でも負瑕には、繹とよばれる横丁がある。
一方引き籠もっていた茅成子は、さすがに高みの見物を決め込むわけにも行かず、絹やなめした牛革など、強欲で知られた呉王に贈る、なけなしのワイロを持って呉に向かった。宮廷で平グモの如く床にはいつくばり、呉王を前に一席ぶつ。
「魯は近くの大国・晋をナメ切っており、覇者の国・呉は遠いからと言ってタカをくくっています。兵も多いからとつけ上がって、殿と誓ったばかりの盟約を破る。ご足労頂いたご家老どのの顔も、丸つぶれですぞ。」「ふむ、けしからんな。」
「それで我が邾をば踏みつぶしたのですが、我らは身が可愛くて、こうやってご挨拶に参ったのではございません。殿のご威光に傷が付くのを恐れているのでございます。ご威光に曇りあらば、我が邾はどうなりましょうや。」「そうじゃな。」
「魯の奴ら、夏には鄫で誓約したのに、秋になってもうこのザマです。こんな好き勝手を許しておくようでは、誰もが殿をナメてかかり、仕え申す諸侯はおりませぬぞ?」「む!」「それに魯の戦車は800両、邾のそれは600両。」「それで?」
「魯は殿に誓った盟約を踏みにじる謀反人ですが、我が邾は殿の忠実な家来でございます。忠臣を謀反人に呉れておやりになるおつもりですか? どうか良くお考え下さいませ。」「よろしい。」呉王は救援を承諾した。