論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子貢曰、「管仲非仁者與。桓公殺公子糾、不能死、又相之。」子曰、「管仲相桓公、霸諸侯、一匡天下、民到于今受其賜。微管仲、吾其被髮*左衽*矣。豈若*匹夫匹婦之爲諒也、自經於溝瀆、而莫之知也。」
校訂
武内本
被髮、漢書終軍伝編髪に作る、注云編読て辮となすと、蓋し被編辮同音相通ず、辮髪左衽は夷狄の俗。衽釋文袵に作る。若の字唐石経旁添。
定州竹簡論語
子曰:「管中非仁者與?桓公殺公子糾,不能死,有a[相]381……壹b□天下,到c于今382……
- 今本”有”作“又”字。
- 今本”壹”作”一”字。
- 今本”到”字前有”民”字。
→子貢曰、「管中非仁者與。桓公殺公子糾、不能死、有相之。」子曰、「管仲相桓公、霸諸侯、壹匡天下、到于今受其賜。微管仲、吾其被髮左衽矣。豈若匹夫匹婦之爲諒也、自經於溝瀆、而莫之知也。」
復元白文
衽
諒
瀆
※貢→江・管→官・仁→(甲骨文)・桓→亘・糾→丩・壹→一・被→皮・矣→已・豈→其。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による捏造である。
書き下し
子貢曰く、管仲は仁者に非ざる與。桓公公子糾を殺すも、死する能はず、又之を相けたり。子曰く、管仲桓公を相けて諸侯に霸たらしめ、天下を一たび匡し、民今于到るまで其の賜を受く。管仲微りさば、吾其れ髮を被り衽を左にし矣む。豈に匹夫匹婦の諒を爲す也、自ら溝瀆於經れ而之を知る莫きに若かん也。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
子貢が言った。「管仲は仁者ではないのですか。桓公が公子糾を殺しても、死ねませんでした。その上桓公を助けました。」
先生が言った。「管仲は桓公を助けて諸侯の覇者にし、天下を一度に正しくし、民は今になるまでその恩恵を受けている。管仲がいなかったら、私は髪をざんばらにして、左前の服を着ていただろう。どうしてつまらぬ男女のように、操を立てて自分から溝に身を投げあるいはくびれ死にし、誰にも知られないままであるのと同じだろうか。」
意訳
子貢「管仲は仁者じゃないんじゃありませんか? 桓公が主君の公子糾を殺しても後を追わず、その上かたきの桓公を補佐して宰相になりました。」
孔子「管仲は桓公を補佐して諸侯の覇者に押し上げ、天下の乱れを一度に正した。民は今になってもそのおかげを被っている。管仲が居なかったら、私は今ごろザンバラ髪に、左前のみっともない服を着るハメになっていただろう。そのあたりの愚夫愚婦が、つまらぬ忠義立てをして我から身投げをしたり、首を吊ったりして、誰も知る人はいませんでした、と言うのとは違うのだ。」
従来訳
子貢がいった。――
「管仲は仁者とはいえますまい。桓公が公子糾を殺した時、糾に殉じて死ぬことが出来ず、しかも、桓公に仕えてその政を輔佐したのではありませんか。」
先師がこたえられた。
「管仲が桓公を輔佐して諸侯聯盟の覇者たらしめ、天下を統一安定したればこそ、人民は今日にいたるまでその恩恵に浴しているのだ。もし管仲がいなかったとしたら、われわれも今頃は夷狄の風俗に従って髪をふりみだし、着物を左前に着ていることだろう。管仲ほどの人が、小さな義理人情にこだわり、どぶの中で首をくくって名もなく死んで行くような、匹夫匹婦のまねごとをすると思ったら、それは見当ちがいではないかね。」
現代中国での解釈例
子貢說:「管仲不是仁人吧?齊桓公殺公子糾時,管仲不能為公子糾殉死,反做了齊桓公的宰相。」孔子說:「管仲做齊桓公的宰相,稱霸諸侯,一匡天下,人民現在還都享受到他的恩惠。沒有管仲,恐怕我們還要受愚昧人的侵擾。豈能拘泥於匹夫匹婦的小睗小信?自縊於溝瀆而不為人知呢。」
子貢が言った。「管仲は仁者じゃないですね?斉の桓公が公子糾を殺したとき、管仲は公子のために殉死出来ませんでした。かえって桓公の宰相になりました。」孔子が言った。「管仲は桓公の宰相になって、諸侯の旗頭と讃えさせた。一度天下をまとめると、人民は今もみなその恩恵を受けている。もし管仲がいなかったら、我々は蛮族に侵入されただろうと恐れる。つまらない男女のような小さな信義にこだわれるか?自分で首を吊ったり身投げしたりして、誰も識る者はいないのだぞ?」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子 貢 曰、「管 仲 非 仁 者 與。桓 公 殺 公 子 糾、不 能 死、有(又) 相 之。」子 曰、「管 仲 相 桓 公、霸 諸 侯、壹(一) 匡 天 下、(民) 到 于 今 受 其 賜。 微 管 仲、吾 其 被 髮 左 衽 矣 豈 若 匹 夫 匹 婦 之 爲 諒 也、自 經 於 溝 瀆、而 莫 之 知 也。」
管仲
「管」(金文大篆)
?ーBC645。姓は管、名は夷吾、字は仲。中国春秋時代における斉の政治家で、桓公に仕え、覇者に押し上げた。公子糾のお付きだったが命を助けられ、桓公の宰相となった。
なお白川漢字学によると、「中」の形はもともと”仲”の意味で使われた。
(甲骨文・金文・篆書)
それが”中”を意味するようになったのは篆書のうち小篆になってからで、つまり始皇帝の文字統一政策の中で、字形の入れ替わりがあったと分かる。”中”を意味する漢字の形は次の通り。
(甲骨文・金文・篆書)
仁者
論語の本章が史実か後世の創作かで意味が異なる。史実なら、孔子在世中の意味で”貴族らしい者”。創作なら孔子より一世紀後に孟子が言った「仁義」=”憐れみ・なさけのある者”。詳細は論語における仁を参照。
桓公
「桓」(金文大篆)
? – BC643年、在位BC685年 – BC643年。春秋時代の斉の君主。姓は姜、名は小白、おくりなは桓。斉の公子で、内乱を避けて莒国に逃亡し、帰国して即位すると名宰相の管仲に政治の一切を任せ、初の覇者となった。
公子糾(キュウ)
「糾」(金文大篆)
公子糾は斉の殿様即位レースで、桓公=公子白のライバルだった人。即位し損ねて斉の圧力で殺された。管仲と共にお付きだった召忽は、後を追って自殺した。
又→有
論語の本章では”さらに”。定州竹簡論語の「有」は「肉+〔音符〕又」で、「又」と同様に”さらに輪をかけて・その上に加えて”の語意がある。詳細は論語語釈「有」を参照。
覇
(金文・篆書)
=覇者。実権を失っていた周王に代わり、諸侯の旗頭となって天下を安定させ、異民族の侵入を打ち破り、周王の宗主権を守る、実力の卓越した殿様。斉の桓公、晋の文公はその代表で、それ以外は立場によって誰を覇者と呼ぶかは異なる。
論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると残月や新月のときのほんのり白い月の全形を示したもの。ただしその意味は多くは魄(ハク)の字であらわし、霸はむしろ伯(ハク)(男の長老)や父(フ)(おやじ分)に当て、諸侯のボスや長老の意に用いる,と言う。詳細は論語語釈「覇」を参照。
匡(キョウ)
(金文・篆書)
”正す”こと。桓公は異民族を討伐し、それぞれ勢力が拮抗していたため争いが絶えなかった春秋諸侯国に、ひとまずの秩序を作り上げた。
到
(金文)
論語の本章では”…まで”。
初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字。到は「至+(音符)刀」。至は、矢が一線に届くさま。刀は、弓なりにそったかたな。まっすぐ行き届くのを至といい、弓なりの曲折をへて届くのを到という、という。詳細は論語語釈「到」を参照。
被
論語の本章では”かぶさる”。髷を結わないでざんばらにした髪の状態を言う。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しないが、『字通』に「皮に表面に被るものの意がある」という。詳細は論語語釈「被」を参照。
髮
(金文)
論語の本章では”髪の毛”。論語では本章のみに登場。
初出は西周早期の金文。ただし字形は「𩠙」。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。「髟(かみの毛)+(音符)菩(ハツ)(はねる、ばらばらにひらく)」で、発散するようにひらくかみの毛、という。詳細は論語語釈「髪」を参照。
衽
論語の本章では”えり”。論語では本章のみに登場。
初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音で部品の壬に”えり”の語釈は『大漢和辞典』に無い。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。「衣+(音符)壬(ジン)(中に入れこむ)」で、内側に入れこむ衣の部分、と言う。詳細は論語語釈「衽」を参照。
被髮左衽(ヒハツサジン)
「左」(金文)
ざんばら髪(いわゆる落ち武者スタイル)と左前の服。
論語時代の中華文明圏では、貴族の男性はまげを結い、かんざしで止めて冠をかぶるもので、女性は冠こそかぶらないものの、かんざしで髪を結い上げた。共にスカート(裳)をはき、上衣のあわせは右前(右側の布地が体に対して手前。右側を前に出すことではない)だった。
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対して異民族の多くは髪をまとめず、あるいは大部分を剃ってしまい(弁髪)、衣服のあわせは論語本章の記述から、左前が多かったと思われる。ただし後世には異民族にも右前が広がったらしく、いわゆるチャイナドレスはモンゴル人や満州人の衣服の変形だが、右前である。
右利きの人が右前の服を着れば右腕が動かしやすく、懐にも手を入れやすい。人類はおおむね右利きが多いと言うから、左前の利点は弓の弦が引っかかりにくいことぐらい。ここから先は想像だが、管仲も孔子も現在の山東省の人だから、異民族に左前の衣服が多かったのでは?
山東省の異民族を東夷と言い、夷は弓に巧みなことの象形と言われるから。対して後のモンゴル人も弓に巧みだったが、現伝するチンギスハーンの肖像画は右前。『蒙古襲来絵詞』に描かれた蒙古兵も右前に見える。もっとも、攻め込んだ軍勢のほとんどは高麗人だったという。
歴史のいつかの時点で、異民族に右前が浸透したらしいが、訳者にはこれ以上分からない。
諒
論語の本章では”誠意”。
初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。「言+(音符)京(キョウ)・(リョウ)(=亮。あきらか)」。明らかにものをいう。転じて、はっきりわかること、という。詳細は論語語釈「諒」を参照。
經/経
(金文)
論語の本章では”縊れ死ぬ”。論語では本章のみに登場。
初出は西周末期の金文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。巠(ケイ)は、上のわくから下の台へたていとをまっすぐに張り通したさまを描いた象形文字。經は「糸+(音符)巠」で、糸へんをそえて、たていとの意を明示した字、という。詳細は論語語釈「経」を参照。
原義は縦糸だが、『春秋公羊伝』昭公十三年など、論語の時代には”縊れ死ぬ”の意でも用いられた。
瀆
論語の本章では”溝”。排水のためのドブ川を言う。論語では本章のみに登場。
初出は前漢の篆書。論語の時代に存在しない。部品の賣」に”ひろめる・あざむく・うらぎる”の語釈はあるが、”みぞ”は『大漢和辞典』にない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声。賣(イク)は「貝(財貨)+睦(ボク)(目をよせ合う)の略体」からなり、衆目をごまかして財物をぬきとること。必は「水+(音符)賣」で、水をぬきとる通水溝、という。詳細は論語語釈「瀆」を参照。
莫之知
(金文)
”これを知る者が無い”。つまり”誰も知りませんでした”。not-O-Vの倒置表現。
論語:解説・付記
論語の本章も前章同様、政治の全てを宰相に任せた桓公と、宰相として好き放題に政治をいじくれた管仲の君臣コンビをあこがれた、漢帝国の儒者の願望を、勝手に論語に書き加えたに過ぎない。ただし、「仁者」を孔子の言ったそれの意味で解しているのが、やや不可解。
だが論語の贋作に見られる特徴、長い・他章で不使用の漢字がある・孔子の頭が悪い、を伴っている。人文的に頭が悪いとは、人が悪く、相手を打ち負かそうとし、言い逃れる、という特徴を言う。ものの分かった人は、分かっているからこそ人がいいのである。
人文とは人を知ることであり、目の前の人間にもこういう事情がある、と思いやれる修行を言う。思いやった結果、やはり許せずにぶちのめすことはありうるが、始めから相手を対等の人間として見ないのとはまるで違う。だから人文的に頭のいい人は、人柄がいいのだ。
孔子が説いた人格修養は、実にこうした人間像に他ならない。相手を許すのは、知らないからでも、自分が弱いからでもない。孔子の生前の君子は、戦士を兼ねるからには、素手で人を殴り殺せるのが条件だった。だからゆえなく人を見下げないし、恐るべきは恐れたのだ。
孔子や論語を理解しようとすれば、人文的に接近するしかない。理系の知識は古代中国を理解するのにあまり役に立たないし、社会科学系はなおさらどころか、時に論語を読み誤る危険さえある。その一つが、古代中国の制度なるものを持ち出して、論語や孔子を説くことだ。
法や制度がそのまま社会の実態を反映するわけではない。「ごめんで済んだら警察要らん」と俗に言う。社会が制度の通りなら、古代ギリシアの英雄譚は半減する。ペルシア軍が迫ったら、ギリシア人はただ火を焚けばいい。平伏したペルシア兵は、戦どころでなかったはずだ。