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論語詳解334憲問篇第十四(2)克伐怨欲行わざる’

論語憲問篇(2)要約:芸術家肌の原憲は、恥に続いて仁とは何かを孔子先生に問います。私の生き方は、仁と言えるでしょうかと。そんな簡単なものじゃないぞと、原憲をたしなめたと言われますが、実は質問者は原憲とは限りません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

克伐怨欲不行焉可以爲仁矣子曰可以爲難矣仁則吾不知也

校訂

武内本

史記此章を引く、上に子思曰の三字を冠し、可以爲仁矣の矣の字乎に作る。蓋し又以て原憲の問とする也、矣乎同義。唐石経史記剋克に作る。

東洋文庫蔵清家本

尅伐怨欲不行焉可以爲仁矣/子曰可以爲難矣仁則吾不知也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……焉,可以為仁矣乎?」子曰:「可363……

標点文

「尅、伐、怨、欲、不行焉、可以爲仁矣乎。」子曰、「可以爲難矣、仁則吾不知也。」

復元白文(論語時代での表記)

克 金文 伐 金文 夗 怨 金文 谷 不 金文行 金文 可 金文㠯 以 金文為 金文仁 甲骨文矣 金文乎 金文 子 金文曰 金文 可 金文㠯 以 金文為 金文難 金文矣 金文 仁 甲骨文則 金文吾 金文不 金文智 金文也 金文

※怨→夗・欲→谷・仁→(甲骨文)。論語の本章は、「焉」字が論語の時代に存在しないが、無くとも文意はほぼ変わらない。「行」「乎」の用法に疑問がある。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。

書き下し

しのぎうちうらみもとめおこなはれるは、もつもののふいはく、もつかたしとり。もののふすなはわれらざるかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
「人を打ち負かす、武力攻撃する、うらむ、欲張る、これらがないなら貴族らしいと言えますか。」
先生が言った。「行いがたい事柄だとは言える。貴族らしいかどうかは私には全く分からないなあ。」

意訳

誰か「人を力まかせに打ち破り、武力で攻め立てる。何事にも「ひどい」とうらみを言い、そして欲張り。こうしたことがなければ、立派な貴族と言えますか。」

孔子 悩み
孔子「あ? 君子たるもの、有事に戦場働きが出来んでどうする。それにうらみと欲張りは程度の差こそあれ、人がついついやってしまうことだ。だからやらないで済ますのは難しいとは言えるが、それで立派な貴族かどうかは、私には分からんよ。」

従来訳

下村湖人

憲がたずねた。――
「優越心、自慢、怨恨、食欲、こうしたものを抑制することが出来ましたら、仁といえましょうか。」
先師がこたえられた。
「それが出来たらえらいものだが、それだけで仁といえるかどうかは問題だ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

問:「好勝、自誇、怨恨、貪婪,這幾種毛病都沒有的人,可以算仁嗎?」孔子說:「可以算難得了,算不算仁我不知道。」

中国哲学書電子化計画

問い「人に勝ちたがる、威張りたがる、恨み妬む、むさぼる、これらが毛ほども無い人は、仁と言えますか。」孔子が言った。「行いがたいことだとは言えるが、仁かどうかは私には分からない。」

論語:語釈

()、 。」 、「 。」


克(コク)→尅*(コク)

論語の本章では”勝つ”→”打ち負かして追い込む”。現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分を欠損し、唐石経は「克」と記し、清家本は「尅」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。従って「克」→「尅」へと校訂した。語義は変わらない。

論語 克 甲骨文 克 解字
(甲骨文)

「克」の初出は甲骨文。字形はかぶとに飾りを付け凱旋する人。甲骨文から”勝つ”・”勝ち取る”の意に用い、派生義として”~できる”の意に用いた。戦国の金文からは明瞭に”…出来る”の意に用いた。詳細は論語語釈「克」を参照。

剋 隷書 剋 字解
「剋」前漢隷書

清家本は「尅」と記す。論語顔淵篇1では「剋」と記している。初出は不明。論語の時代に存在しない。字形は〔克〕+〔寸〕で、日本では「剋」の異体字として扱われ、台湾では「克」「尅」「剋」は相互に異体字として扱われている。「剋」は兜をかぶり刀を持った武装兵の姿。同音に「刻」、「克」。りっとう「剋」は戦国最末期から”勝つ”の意に用いられたが、すん「尅」は先秦両漢の文献に見えない。論語時代の置換候補は部品の「克」。「剋」の詳細は論語語釈「剋」を参照。

伐(ハツ)

伐 甲骨文 伐 字解
(甲骨文)

論語の本章では”武力で攻撃する”。初出は甲骨文。「バツ」は慣用音。呉音は「ボチ」。字形は「人」+「戈」”カマ状のほこ”で、ほこで人の頭を刈り取るさま。原義は”首を討ち取る”。甲骨文では”征伐”、人の生け贄を供える祭礼名を意味し、金文では加えて人名(弔伐父鼎・年代不詳)に用いた。戦国の竹簡では加えて”刈り取る”を意味したが、”誇る”の意は文献時代にならないと見られない。詳細は論語語釈「伐」を参照。

怨(エン)

怨 楚系戦国文字 夗 怨 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”うらみ”。うらみのなかでも、いじめられたうらみを言う。初出は楚系戦国文字で、論語の時代に存在しない。「オン」は呉音。同音に「夗」とそれを部品とする漢字群など。論語時代の置換候補は「夗」。現伝の字形は秦系戦国文字からで、「夗」”うらむ”+「心」。「夗」の初出は甲骨文、字形は「夊」”あしを止める”+「人」。行きたいのを禁じられた人のさま。原義は”気分が塞がりうらむ”。初出の字形は「亼」”蓋をする”+うずくまった人で、上から押さえつけられた人のさま。詳細は論語語釈「怨」を参照。

欲(ヨク)

欲 楚系戦国文字 欲 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”求める”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義がある。詳細は論語語釈「欲」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まかり通る”。自分の不人情を気にしないで好き勝手に行動すること。この語義は春秋時代では確認出来ない。漢代の漢語では「行車」のように、障害なく進む、あるいは進ませる事を意味した。

字の初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「ぬ」と読んで、”…てしまう”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

可以(カイ)

論語の本章では”~できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「クーイー」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。

先秦甲骨金文簡牘詞彙庫 可以

「先秦甲骨金文簡牘詞彙庫」

可 甲骨文 可 字解
「可」(甲骨文)

「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

以 甲骨文 以 字解
「以」(甲骨文)

「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 貴族
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では”…てしまう”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本では”~か”。疑問の意。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

可以爲仁矣乎

句末の「乎」を欠いた唐石経・清家本の文字列では、”(克伐怨欲がなければ)仁と言ってよい”と質問者が開き直ったと読んでも、文法上全く誤りではない。ただし論語時代の中国語も他言語同様、調子で平叙文か疑問文かを切り分けられた可能性がある(現代中国語の標準語、北京語では不可能)。さらに定州竹簡論語による校訂の結果、句末に疑問辞「乎」が付け加わったので、やはり疑問文として読むべき。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

難(ダン)

難 金文 難 字解
(金文)

論語の本章では”めったにない”→”難しい”。初出は西周末期の金文。新字体は「難」。「ダン」の音で”難しい”、「ダ」の音で”鬼遣らい”を意味する。「ナン」「ナ」は呉音。字形は「𦰩カン」”火あぶり”+「鳥」で、焼き鳥のさま。原義は”焼き鳥”。それがなぜ”難しい”・”希有”の意になったかは、音を借りた仮借と解する以外にない。西周末期の用例に「難老」があり、”長寿”を意味したことから、初出の頃から、”希有”を意味したことになる。詳細は論語語釈「難」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”~については”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

知(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

定州竹簡論語は、普段は「智」の異体字「𣉻」と記すが、本章では簡を欠いている。文字的には論語語釈「智」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「かな」と呼んで詠嘆の意。「なり」と読んで断定の意とも解せるが、この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、「焉」字が春秋時代に遡れないものの「焉」字は事実上「也」字の異体字であり、置き換えることが出来る。従って文字史上から、史実の孔子の発言として扱う。

論語 焉 金文 也 金文
「焉」「也」(金文)

また孔子の説いた「仁」とは春秋時代の”貴族らしさ”であり、「怨欲」はともかく、「克伐」は当時の貴族=君子の看板商売だった。つまり従軍するから特権があったのだが、「克伐」なしでは貴族らしいとは言えないと本章で孔子が言ったのも、そういう背景がある。

人畜無害な非「克伐怨欲」人は、一見よろしい人のように思えるものの、非「怨欲」人などどこにもいないと年長の孔子は見切った上に、非「克伐」人は君子ではあり得ず、それでも君子と言われたいと居直る弟子に対して、ホンモノの「克伐怨欲」人である孔子が、それじゃ君子じないよ、とたしなめた言葉と言える。

解説

朱子 新注
本「論語詳解」のページタイトルに記した算用数字は、朱子に従った通し番号だが、論語の本章には質問者の主語がない。従って前章の続きと解して、質問者を原憲(→人物図鑑)だとするのが一般的だが、前章は偽作が確定している。つまり本章の質問者は、誰なのか分からない。

しかも原憲は、その姿がはっきりと史料に記されない。

以下は想像だが、貧乏がうたわれる割に原憲が一生仕官しなかったのは、能力か人柄に難があったからだろう。孔子の弟子で仕官しなかったと論語や史料に書いてあるのは、原憲と顔淵ぐらいのもので、他は三年もするとお呼びがかかって次々と仕官していった(論語泰伯篇12)。

カント
それなのに原憲が売れ残ったのは、それなりの理由があったとするべきだろう。カント先生のように、「ケーニヒスベルグ大学の正教授じゃないといやだ」と言い張ってお呼びを断り続けるのもいいが、カント先生の場合はたぐいまれな能があったから、それでよかった。

ところが原憲には、カント先生並みのプライドはあっても、能がなかったのだろう。実際原憲が何かしたという話は、論語も史料も沈黙している。ただ晩年に住まった庵は、壊れた大瓶の口を窓に使ったという、品のいい住まいとする伝説がある。つまり芸術家肌だったのだ。

原憲居魯,環堵之室,茨以蒿萊,蓬戶甕牖,桷桑而無樞,上漏下濕,匡坐而絃歌。子貢乘肥馬,衣輕裘,中紺而表素,軒不容巷,而往見之。原憲楮冠黎杖而應門,正冠則纓絕,振襟則肘見,納履則踵決。子貢曰:「嘻!先生何病也!」原憲仰而應之曰:「憲聞之:無財之謂貧,學而不能行之謂病。憲、貧也,非病也。若夫希世而行,比周而友,學以為人,教以為己,仁義之匿,車馬之飾,衣裘之麗,憲不忍為之也。」子貢逡巡,面有慚色,不辭而去。原憲乃徐步曳杖,歌商頌而反,聲淪於天地,如出金石。天子不得而臣也,諸侯不得而友也。故養身者忘家,養志者忘身,身且不愛,孰能忝之。《詩》曰:「我心匪石,不可轉也;我心匪席,不可卷也。」

趙孟頫『甕牖図』国立故宮博物院蔵 原憲

趙孟頫『甕牖図』国立故宮博物院蔵

原憲が魯で住んだのは、一部屋だけに垣根を巡らせた小さな小屋で、いばらが茂り、よもぎを綴って戸の代わりにし、割れた大瓶の口を窓枠にし、桑の枝で屋根を架け、開き戸を設けなかった。雨漏りがし、大水では容赦なく雨が流れ込んだが、原憲は居住まいを正して琴を弾き、歌を歌った。

そんな原憲を子貢が訪ねた。肥えた馬に車を牽かせ、上等な毛皮のコートを着て、上着は真っ白な絹を羽織り、中着は紺屋に染めさせた上物の青い麻を着ていた。だが車が大きすぎて、原憲の住まう貧民街に入れず、やむなく歩いて会いに行った。

原憲は荒い紙の冠にヒシの枝の杖を突いて門まで出迎えた。冠は真っ直ぐにかぶっていたが、緒が切れており、粗末な着物に痩せたひじが見え、靴は踵が無くなっていた。

子貢「ああ、兄者は病気になってしまわれた。」

原憲はあごを上げて言った。「世間でこう言いますね。財産が無いのを貧乏と言い、学んでも実行できないのを病気という、と。私は貧乏ではありますが、病気ではありません。もし出世したいなら、あなた方学友の真似をしたでしょう。そもそも学問とは自己修養のためにあり、仁義をごまかし、立派な車に乗り、上等の着物を着るようなことは、私には耐えられません。」

子貢はうろたえて、恥ずかしさに顔が真っ赤になった。何も言うことが出来ず、そのまま帰ってしまった。原憲は杖を突いてゆるゆると歩き、詩経の商頌の歌を繰り返し歌った。その声はよく響き、鋳たての青銅のような輝きを思わせた。

ああ、天子には本当の臣下は居ない。諸侯に本当の友人は居ない。人は皆一人なのだ。だから我が身を大切にする者は家族を構いつけない。心を大切にする者は体を構いつけない。体ですら構いつけないようでないと、一体どうやって心を守るというのか?

詩に言う。「私の心は石ころではない。転がってたまるか。私の心は座布団ではない。丸められてたまるか」と。(『韓詩外伝』巻一9)

そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

一説にはこの時子貢は衛国の宰相で、春秋の世に名高い資産家だった。孔子一門の財政を支え続けたのは、他ならぬ子貢である。その子貢が素寒貧の原憲を訪ねたのは、懐かしさ故のことだろうが、中国語ではこういう腰の低い貴人の訪問を、「曲馬」”引き馬を曲げる”という。

この話をどう受け取るかは読み手次第だが、ここに現れた原憲を「立派だ」というのは、儒者風味の偽善と言うべきで、金も地位もある学友が、わざわざ訪ねて来てくれたのに、嫌味を言って追い払うとは、相当に性格が悪いひねくれ者と解する方がまともだと思う。

ただし『韓詩外伝』の成立は前漢初期で『史記』より早いが、文中に「仁義」とあることから、この伝説の成立は早くとも戦国時代の孟子以降とわかる。ほぼ同じ話が『史記』にも『荘子』にもある。そして「原憲」と姓名が知れるのは、こうした戦国時代以降の伝説による。

あるいは原憲は、タン台滅明と同様に、後世の儒者が作り出した架空の人物なのかもしれない。通説での原憲は、前章と本章のほかに論語雍也篇5に見える「原思」のことだとされるが、孔子が執事に雇った原思と、原憲子思が同一人物であると言う証拠は、何一つ無い。

余話

(思案中)

『論語』憲問篇:現代語訳・書き下し・原文
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