論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
陳司敗問、「昭公知禮乎。」孔子對*曰、「知禮。」孔子退、揖巫馬期而進之曰、「吾聞君子不黨、君子亦黨乎。君取*於吳爲同姓、謂之吳孟子。君而知禮、孰不知禮。」巫馬期以吿。子曰、「丘也幸、苟有過、人必知之。」
校訂
武内本
清家本により孔子の下に對の字を補う。娶、唐石経取に作る。
定州竹簡論語
陳司敗問昭[公智禮乎,孔]子曰:「智禮。」孔子退,揖巫□177[期而進之a,曰:「吾聞君子不黨,君子亦黨乎?君]178……謂之吴孟子。君□智禮,孰不智禮?」巫馬[期]179……[告。子]曰:「丘b幸,茍有過,人必智之。」180
- 之、皇本作「也」字。
- 今本「丘」下有「也」字、而此「丘」下空白一格。
→陳司敗問、「昭公智禮乎。」孔子曰、「智禮。」孔子退、揖巫馬期而進之曰、「吾聞君子不黨、君子亦黨乎。君娶於吳爲同姓、謂之吴孟子。君而智禮、孰不智禮。」巫馬期以吿。子曰、「丘幸、苟有過、人必智之。」
復元白文
揖
※昭→章・黨→當・娶→(甲骨文)。論語の本章は揖の字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国以降の儒者による捏造である。
書き下し
陳の司敗問ふ、昭公、禮を智る乎。孔子曰く、禮を智れりと。孔子退く。巫馬期を揖し而之を進めて曰く、吾聞く、君子は黨まずと。君子も亦黨む乎。君吴於娶りて同姓爲り、之を吴孟子と謂ふ。君にし而禮を智らば、孰か禮を智らざらむ。巫馬期以て吿ぐ。子曰く、丘幸なり、苟し過あらば、人必ず之を智らすと。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
陳の司敗が問うた。「昭公は礼を知る人でしたか。」孔子が言った。「礼を知っていました。」孔子はその場を去った。司敗は巫馬期にお辞儀して、近寄せて言った。「私はこう聞いています。君子はつるまないものだと。君子もまたつるむものなのか。魯の君主は同姓の呉から嫁取りをし、これを呉孟子と呼んだ。魯の君主が礼を知るなら、誰が礼を知らないだろう。」巫馬期はこの言葉を孔子に告げた。先生が言った。「丘は幸運だ。もし間違いがあれば、人は必ずそれを知らせる。」
意訳
南方の陳国に政治工作に出かけた時のこと。司敗=法務大臣どのが先生に問うた。
司敗「お国のお殿様、昭公さまは、礼を知る人でしたか?」
孔子「ええ、ご存じでした。」
先生はその場を去った。司敗どのは居残った弟子の巫馬期にお辞儀して言った。
司敗「君子はつるまないものだと聞いていましたが、隠し事をするとは…。昭公様は親戚の呉から奥様を迎えられたのに、名前を変えてごまかした。昭公様が礼を知るなら、誰が知らないと言えましょう。」
巫馬期は話をそっくり先生に伝えた。
孔子「ワシは幸せ者じゃのう。間違いをやらかすと、すぐに誰かが教えてくれる。」
従来訳
陳の司敗がたずねた。――
「昭公は礼を知っておられましょうか。」
先師がこたえられた。――
「知っておられます。」
先師はそれだけいって退かれた。そのあと司敗は巫馬期に会釈し、彼を自分の身近かに招いていった。――。
「私は、君子というものは仲間ぼめはしないものだと聞いていますが、やはり君子にもそれがありましょうか。と申しますのは、昭公は呉から妃を迎えられ、その方がご自分と同性なために、ごまかして呉孟子と呼んでおられるのです。もしそれでも昭公が礼を知った方だといえますなら、世の中に誰か礼を知らないものがありましょう。」
巫馬期があとでそのことを先師に告げると、先師はいわれた。――
「私は幸福だ。少しでも過ちがあると、人は必ずそれに気づいてくれる。」
現代中国での解釈例
陳司敗問:「昭公知禮嗎?」孔子說:「知禮。」孔子走後,陳司敗對巫馬期說:「我聽說君子不袒護人,君子也袒護人嗎?昭公娶了一個吳國人做夫人,也姓姬,他卻將她改名換姓,叫她吳孟子。他也知禮,誰不知禮?」巫馬期把這話告訴了孔子,孔子說:「我真幸運,一有錯,就必定有人知道。」
陳の司法長官が問うた。「昭公は礼を知っていたか?」孔子が言った。「礼を知っていた。」孔子が去った後、陳の司法長官が巫馬期に言った。「私は、君子は人をかくまわないと聞いていたが、君子もまた人をかくまうのか?昭公は呉国人を一人娶って夫人としたが、当然その性は(魯の昭公と同じ)姫だ。それなのに彼は彼女の性を改めさせ、彼女を呉孟子と呼んだ。彼が礼を知っているなら、誰が礼を知らないのか?」巫馬期はこの話を孔子に告げた。孔子は言った。「私はまことに幸運だ。一つ間違いをすると、すぐに必ず人が教えてくれる。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
陳 司 敗 問、「昭 公 知 禮 乎。」 孔 子 對 曰、「知 禮。」 孔 子 退、揖 巫 馬 期 而 進 之、曰、「吾 聞 君 子 不 黨、君 子 亦 黨 乎。君 取 於 吳 爲 同 姓、謂 之 吳 孟 子。君 而 知 禮、孰 不 知 禮。」巫 馬 期 以 吿。子 曰、「丘 也 幸、苟 有 過、人 必 知 之。」
陳司敗
「陳」(金文)
論語の本章では、陳の家老格らしいということ以外、生没年も本名も字も、何も分からない。「司敗」とは楚など南方諸国では、司法大臣を意味する。孔子が魯国で就いた「大司冦」も同じ。礼法にうるさいのはこのためかも知れない。
「陳」の原義は”連ねること”。
昭公
魯の国君、位BC541-BC510。孔子に息子の出産祝いを贈ったという。
昭の字の初出は戦国文字だが、春秋時代に存在しないとなると、論語ばかりか左伝まで崩壊する。カールグレン上古音はȶi̯oɡ(藤堂上古音tiɔg)。同音に召を部品とする漢字群、釗”けずる・みる”(金文あり)、盄”うつわ”(金文あり)。部品の召の字に”あきらか”の語釈はなく、卲”たかい”に音通すると『大漢和辞典』は言う。
日本語で語義を共有し音通するのは以下の漢字。論語の時代の置換候補として、「章」カ音ȶi̯aŋ(藤音tiaŋ)を挙げておく。詳細は論語語釈「昭」を参照。
揖(ユウ)
(金文大篆)
論語では、両手を組み合わせて胸の前に持ち上げ、腰をかがめて礼をすること。初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「揖」を参照。
巫馬期(フウバキ)
「巫」(金文)
論語では、孔子の弟子。これもよく人物が分かっておらず、子賤が琴を弾いただけで治めた単父のまちを、夜から夜までかけずり回ってやっと治めた、という話が伝わる。詳細は論語の人物:宓不斉子賤を参照。
「巫」(篆書)
『学研漢和大字典』によると「巫」は会意文字で、篆文の右の字体は「工+人二人」の会意文字。工印を玉の形と解する説もあるが、神を招く技術を示したものであろう。
左の字体は「工+召(招く)二つ+両手」の会意文字で、神を招く手ぶりを示す。目に見えない神を手ぶり足ぶりして呼ぶこと。舞(手ぶり足ぶりをして神を楽しませる)と同系。また募(ないものを求める)とも縁が近い、という。詳細は論語語釈「巫」を参照。
娶
論語の本章では”めとる”。嫁を迎える。金文・戦国文字は存在しないが、甲骨文が発掘されている。
『学研漢和大字典』によると、訓の「めとる」は、娶の字を女と取にわけ、「め(女)+とる(取)」と訓じたもの。会意兼形声。「女+(音符)取」。取(引きよせて手中におさめる)と同系、という。
『字通』によると形声文字で、声符は取(しゅ)。〔説文〕十二下に「婦を取るなり」とあり、取をもと娶の義に用いた。取は戦場の聝耳(かくじ)を示す字。娶も古くは他族から奪略的に妻を獲得する意を残す語であるかもしれない。嫁も古くは貸しつける、転嫁するなどの意をもつ字であった、という。
爲/為
論語の本章では”…である”。詳細は論語語釈「為」を参照。
姓
論語の本章では”母系の同族集団”。詳細は論語語釈「姓」を参照。
君娶於吳爲(為)同姓、謂之吳(呉)孟子
論語の本章では、”国君が同姓の夫人をめとり、名前をごまかして呉孟子と呼んだ”。
現代中国に至るまで、婚姻は「同姓を娶(めと)らず」と言い、姓を同じくする家同志の婚姻はタブーになっている。呉は南方海岸沿いの辺境国だが、開祖呉泰伯はれっきとした周王室の出ということになっており、同じく周王室の出である魯国とは、姓「姫」が共通していた。従って本来は「呉姫」と呼ぶべき所、「呉孟子」=呉王の長女と呼んでごまかしたのである。
なお「吴」は「呉」の異体字。
苟
この文字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はkuで、同音に句・冓(組みたてる)とそれを部品とする漢字群。句・冓ともに、”かりそめ・かり”の語義はない。仮に”まことに”の意であれば、「故」で置換可能だが、本章はそうでない。詳細は論語語釈「苟」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章がもし史実なら、上掲のような解釈にはならないだろう。孔子一門が、ほかに衛や宋など魯国外に拠点を持っているにもかかわらず、時には包囲と餓死の危険まで冒して陳国あたりに滞在しているのは、ひとえに政治工作のため。
従って陳国の有力者は取り込むか、少なくとも人となりを知ってどのようにコマとして扱うかを考えなければならない。司敗が孔子の人間性を試すような質問をしていることから、両者の接触はこれまで無かったと考えていい。そこを司敗のぼやきで人となりが分かったため、孔子は喜んだわけ。
巫馬期は話をそっくり先生に伝えた。
孔子「でかした! あのカタブツは使い道があるぞ。」
もっとも論語の本章は、司敗がカタブツでないとする見解もあり得る。吉川本によると、そもそも司敗の質問自体が、孔子に旧主の悪口を言わせようとしたものであり、カタブツではなく役人にありがちないやみな人物であるとする。するとこうなろうか。
だとするなら、孔子の巫馬期への答えはこうだったろう。

「でかした! あのたわけはワイロで転ぶぞ。安上がりじゃ! …おーい子貢や、ゼニを用意しなさい、ゼニを。」
『史記』によると孔子は二度度陳に滞在し、一度目は三年に及んだが、「司城」の家に滞在したとあり、これは建設大臣にあたる。魯で言えば「司空」であり、孔子も孟孫氏の後ろ盾により、魯でその職に就いた可能性が大きい。司空は囚人を労役に使うから、司法にもある程度関わった。孔子が後に大司冦となったことと無関係ではないだろう。
一度目の滞在は割と平穏で、宮廷に落ちたハヤブサに刺さっていた矢の由来を説いて感心されている(『史記』孔子世家)。しかし孔子は「帰らんかな」と言い、一旦衛に戻る(なぜか魯ではない)。ところが衛の霊公が仕事を与えなかったので、また陳に戻った。
その間、故国魯で火事があって、共に老子に学んだ南宮敬叔が活躍したり、季氏の当主が死去したりした。そこで冉求を帰国させ、孔子も陳を出て隣国の蔡に移った。蔡国は陳同様、大国の楚と呉の間に挟まれた小国で、大国同士の抗争に巻き込まれて、滅亡同然だった。
そんな折り、呉国が陳国を攻め、救援に楚国が出て来ると、楚の昭王は孔子を招こうとした。ここで陳と蔡の家老連が、「孔子が楚に用いられると、孔子に嫌われているオレたちは、楚の圧力でクビになる」と考え、私兵を出して孔子一門を包囲したことになっている。
しかしおそらく呉国に陳国を攻めさせたのは孔子であり、許せん、ということで包囲されたのだろう。孔子は呉国と濃密な接触を保っていた間接証拠があり、その構想では呉国に陳・蔡・宋国を併呑させ、孔子好みの新たな覇者国に仕立てようとしたらしい。