論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
陳司敗問昭公知禮乎孔子曰知禮孔子退揖巫馬期而進之曰吾聞君子不黨君子亦黨乎君取於呉爲同姓謂之呉孟子君而知禮孰不知禮巫馬期以吿子曰丘也幸苟有過人必知之
- 「呉」字:〔口夨〕。
校訂
諸本
- 宮内庁蔵宋版『論語注疏』:「…君子亦黨乎…取…」。唐石経に同じ。
東洋文庫蔵清家本
陳司敗問昭公知禮乎/孔子對曰知禮孔子退揖巫馬期而進之曰吾聞君子不黨君娶於吴爲同姓謂之吴孟子君而知禮孰不知禮/巫馬期以吿子曰丘也幸苟有過人必知之
- 京大本・宮内庁本:「君子亦黨乎」なし。唐石経の「取」部分を「娶」と記す。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
陳司敗問昭[公智禮乎,孔]子曰:「智禮。」孔子退,揖巫□177[期而進之a,曰:「吾聞君子不黨,君子亦黨乎?君]178……謂之吴孟子。君□智禮,孰不智禮?」巫馬[期]179……[告。子]曰:「丘b幸,茍有過,人必智之。」180
- 之、皇本作「也」字。
- 今本「丘」下有「也」字、而此「丘」下空白一格。
標点文
陳司敗問、「昭公智禮乎。」孔子曰、「智禮。」孔子退、揖巫馬期而進之曰、「吾聞君子不黨、君子亦黨乎。君娶於呉爲同姓、謂之呉孟子。君而智禮、孰不智禮。」巫馬期以吿。子曰、「丘幸、苟有過、人必智之。」
復元白文(論語時代での表記)
揖
黨
黨
幸苟
※娶→(甲骨文)。論語の本章は「揖」「黨」”さいわい”の意での「幸」「苟」の字が論語の時代に存在しない。「敗」「問」「乎」「退」「進」「同」「孰」「過」「必」の用法に疑問がある。本章は漢帝国以降の儒者による創作である。
書き下し
陳の司敗問ふ、昭公、禮を智る乎と。孔子曰く、禮を智れりと。孔子退く。巫馬期を揖き而之を進めて曰く、吾聞く、君子は黨ま不と。君子も亦黨む乎。君呉於娶りて姓を同し爲り、之を呉孟子と謂ふ。君にし而禮を智らば、孰か禮を智ら不らむと。巫馬期以て吿ぐ。子曰く、丘幸なり、苟し過有らば、人必ず之を智らす。
論語:現代日本語訳
逐語訳
陳の司敗が問うた。「昭公は貴族の常識を知る人でしたか。」孔子が言った。「貴族の常識を知っていました。」孔子はその場を去った。司敗は巫馬期にお辞儀して、近寄せて言った。「私はこう聞いています。君子はつるまないものだと。君子もまたつるむものなのか。魯の君主は同姓の呉から嫁取りをし、これを呉孟子と呼んだ。魯の君主が貴族の常識を知るなら、誰が貴族の常識を知らないだろう。」巫馬期はこの言葉を孔子に告げた。先生が言った。「丘は幸運だ。もし間違いがあれば、人は必ずそれを知らせる。」
意訳
南方の陳国に政治工作に出かけた時のこと。司敗=法務大臣どのが先生に問うた。
司敗「お国のお殿様、昭公さまは、貴族の常識を知る人でしたか?」
孔子「ええ、ご存じでした。」
先生はその場を去った。司敗どのは居残った弟子の巫馬期にお辞儀して言った。
司敗「君子はつるまないものだと聞いていましたが、隠し事をするとは…。昭公様は親戚の呉から奥様を迎えられたのに、名前を変えてごまかした。昭公様が貴族の常識を知るなら、誰が知らないと言えましょう。」
巫馬期は話をそっくり先生に伝えた。
孔子「ワシは幸せ者じゃのう。間違いをやらかすと、すぐに誰かが教えてくれる。」
従来訳
陳の司敗がたずねた。――
「昭公は礼を知っておられましょうか。」
先師がこたえられた。――
「知っておられます。」
先師はそれだけいって退かれた。そのあと司敗は巫馬期に会釈し、彼を自分の身近かに招いていった。――。
「私は、君子というものは仲間ぼめはしないものだと聞いていますが、やはり君子にもそれがありましょうか。と申しますのは、昭公は呉から妃を迎えられ、その方がご自分と同性なために、ごまかして呉孟子と呼んでおられるのです。もしそれでも昭公が礼を知った方だといえますなら、世の中に誰か礼を知らないものがありましょう。」
巫馬期があとでそのことを先師に告げると、先師はいわれた。――
「私は幸福だ。少しでも過ちがあると、人は必ずそれに気づいてくれる。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
陳司敗問:「昭公知禮嗎?」孔子說:「知禮。」孔子走後,陳司敗對巫馬期說:「我聽說君子不袒護人,君子也袒護人嗎?昭公娶了一個吳國人做夫人,也姓姬,他卻將她改名換姓,叫她吳孟子。他也知禮,誰不知禮?」巫馬期把這話告訴了孔子,孔子說:「我真幸運,一有錯,就必定有人知道。」
陳の司法長官が問うた。「昭公は礼を知っていたか?」孔子が言った。「礼を知っていた。」孔子が去った後、陳の司法長官が巫馬期に言った。「私は、君子は人をかくまわないと聞いていたが、君子もまた人をかくまうのか?昭公は呉国人を一人娶って夫人としたが、当然その性は(魯の昭公と同じ)姫だ。それなのに彼は彼女の性を改めさせ、彼女を呉孟子と呼んだ。彼が礼を知っているなら、誰が礼を知らないのか?」巫馬期はこの話を孔子に告げた。孔子は言った。「私はまことに幸運だ。一つ間違いをすると、すぐに必ず人が教えてくれる。」
論語:語釈
陳 司 敗 問、「昭 公 知 禮 乎。」 孔 子 對 曰、「知 禮。」 孔 子 退、揖 巫 馬 期 而 進 之、曰、「吾 聞 君 子 不 黨、君 子 亦 黨 乎。君 娶(取) 於 吳 爲 同 姓、謂 之 吳 孟 子。君 而 知 禮、孰 不 知 禮。」巫 馬 期 以 吿。子 曰、「丘 也 幸、苟 有 過、人 必 知 之。」
陳(チン)
九年衛鼎・西周中期論語の本章では、華中の諸侯国名。初出は西周中期の金文。字形は〔阝〕”はしご”+〔東〕で、原義は不明。春秋末期までに確認できる語義は、国名や人名のみ。うち国名の「陳」は、「曹」と並んで孔子存命中に滅亡した諸侯でもある。詳細は論語語釈「陳」を参照。
司敗(シハイ)
論語の本章では”司法大臣”。楚など南方諸国では、司法大臣を意味する。孔子が魯国で就いた「大司冦」と同類。ただしこの言葉が確認できるのは戦国中末期の「郭店楚簡」からで、論語の時代に存在の証拠が無い。
(甲骨文)
「司」は論語の本章では”但当官”。初出は甲骨文。字形は「𠙵」”口に出す天への願い事”+”幣のような神ののりしろ”。原義は”祭祀”。春秋末期までに、”祭祀”・”王夫人”・”君主”・”継ぐ”・”役人”の意に用いた。詳細は論語語釈「司」を参照。
(甲骨文)
「敗」は論語の本章では”刑罰”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「貝」または「鼎」+「丨」”棒”+「又」”手”。貴重なものを棒で叩き壊すさま。春秋末期までに、”殺害する”、”ダメにする”、”打破する”の意に用いた。詳細は論語語釈「敗」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。定州竹簡論語では欠いている。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。
昭公(ショウコウ)
魯の国君、位BC541-BC510。孔子に息子の出産祝いを贈ったという。ただし君主としては暗君で、すでに実権を門閥三家老家=三桓に奪われたのを憎み、三桓筆頭の季孫家当主を追おうとして、返り討ちに遭って国外追放され、客死した。

若き日の孔子は、一旦斉に亡命した昭公に付き添ったようで、「韶を聞く」の伝説(論語述而篇13)が後世作られた。
「卲」(甲骨文)
「昭」の初出は甲骨文。ただし字形は「卲」。現行字体の初出は楚系戦国文字。初出の字形は「刀」+「𠙵」”容器”+「㔾」”跪いて作業する人”で、缶切りで開けるように容器の中身を明らかにすること。同音に召を部品とする漢字群、「釗」”けずる・みる”(金文あり)、「盄」”うつわ”(金文あり)。部品の召の字に”あきらか”の語釈はない。「卲」”たかい”に音通すると『大漢和辞典』は言う。春秋末期までに、人名、”明らかに”の意に用い、戦国の竹簡でも”明らかに”の意に用いた。詳細は論語語釈「昭」を参照。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
知(チ)→智(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知るということ”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
定州竹簡論語は、普段は「智」の異体字「𣉻」と記す。通例、清家本は「知」と記し、正平本も「知」と記す。文字的には論語語釈「智」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”貴族の常識となっている規則”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”…か”。疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章はやや異なり、相手は孔子と同格の、陳の家老格。詳細は論語先進篇11語釈を参照。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
對(タイ)
(甲骨文)
論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「丵」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
退(タイ)
(甲骨文)
論語の本章は”目の前から去る”。相手が目上の場合に用いる。本章の対話相手である陳の司敗は孔子と同格だから、この用例には疑問がある。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「豆」”食物を盛るたかつき”+「夊」”ゆく”で、食膳から食器をさげるさま。原義は”さげる”。金文では辶または彳が付いて”さがる”の意が強くなった。甲骨文では祭りの名にも用いられた。詳細は論語語釈「退」を参照。
揖(ユウ)
(金文大篆)
論語では、両手を組み合わせて胸の前に持ち上げ、腰をかがめて礼をすること。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に邑とそれを部品とする漢字群。語義は挹が共有するが、初出は後漢の『説文解字』。『大漢和辞典』で”えしゃく”を引くと「揖」とともに「撎」(エイ・イ)が出てくるが、こちらも初出は『説文解字』。詳細は論語語釈「揖」を参照。
巫馬期(ブバキ)
論語では、孔子の弟子とされる人物。史実を伝える史料が無く、同じく孔子の弟子とされる子賤が琴を弾いただけで治めた単父のまちを、夜から夜までかけずり回ってやっと治めた、という話が伝わる。詳細は論語の人物:宓不斉子賤を参照。
『史記』弟子伝では「巫馬施」と記し、であざ名を「子旗」という。
「巫」(甲骨文)
「巫」の初出は甲骨文。「フウ」の読みはどこから出てくるのか明らかでない。呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「ム」。「フ」は慣用音。字形の由来ははっきりしない。みこが持つ呪具だったとする説が根強い。春秋末期までに、”みこ”の意に用いた。詳細は論語語釈「巫」を参照。
(甲骨文)
「馬」の初出は甲骨文。初出は甲骨文。「メ」は呉音。「マ」は唐音。字形はうまを描いた象形で、原義は動物の”うま”。甲骨文では原義のほか、諸侯国の名に、また「多馬」は厩役人を意味した。金文では原義のほか、「馬乘」で四頭立ての戦車を意味し、「司馬」の語も見られるが、”厩役人”なのか”将軍”なのか明確でない。戦国の竹簡での「司馬」は、”将軍”と解してよい。詳細は論語語釈「馬」を参照。
「期」(金文)
「期」の初出は春秋早期の金文。ただし字形は「㫷」。現行字体の初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」。字形は「其」”ちりとり”+「日」。日時を限って結果を取り集めるさま。金文では、「其」「諆」「基」とも記す。同音に「其」。春秋末期までに、”期限”の意に用いた。詳細は論語語釈「期」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
進(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”目の前に出る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”その人”・”それ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
聞(ブン)
(甲骨文1・2)
論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は”耳の大きな人”または「斧」+「人」で、斧は刑具として王権の象徴で、殷代より装飾用の品が出土しており、玉座の後ろに据えるならいだったから、原義は”王が政務を聞いて決済する”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
論語の時代、「聞」は間接的に聞くことで、直接聞く事は「聴」と言った。
君子(クンシ)
論語の本章では、”地位も教養もある立派な人”。この語義は、孔子没後一世紀に現れた孟子が提唱した「仁義」を実践する者の語義で、原義とは異なる。本章は論語時代に存在しない文字の使用から、後世の偽作が確定するので、孟子的に解釈しなければならない。
孔子の生前、「君子」とは従軍の義務がある代わりに参政権のある、士族以上の貴族を指した。「小人」とはその対で、従軍の義務が無い代わりに参政権が無かった。詳細は論語における「君子」を参照。また春秋時代の身分については、春秋時代の身分秩序と、国野制も参照。
「君」(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「𠙵」”くち”で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。「尹」に「𠙵」を加えた字形。甲骨文の用例は欠損が多く判読しがたいが、称号の一つだったと思われる。「先秦甲金文簡牘詞彙資料庫」は、春秋末期までの用例を全て人名・官職名・称号に分類している。甲骨文での語義は明瞭でないが、おそらく”諸侯”の意で用い、金文では”重臣”、”君臨する”、戦国の金文では”諸侯”の意で用いた。また地名・人名、敬称に用いた。詳細は論語語釈「君」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
黨(トウ)
(戦国末期金文)
論語の本章では、”つるむ”。新字体は「党」。初出は戦国末期の金文。出土品は論語の時代に存在しないが、歴史書『国語』に春秋末期の用例がある。ただし物証とは言えない。『大漢和辞典』の第一義は”むら・さと”。第二義が”ともがら”。戦国の金文では地名に用い、”党派”の語義は前漢まで時代が下る。詳細は論語語釈「党」を参照。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”…にも”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。
君子亦黨乎(クンシまたつるむか)
現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分を記し、唐石経以降の中国伝承論語も同様。一方清家本に始まる日本伝承の古注系論語はこの部分を欠く。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。ただし論語の本章の場合、さらに古い定州本にこの部部分が含まれていることから、唐石経の文字列が正しいことになる。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
取(シュ)→娶(シュ)
(甲骨文)
論語の本章では”めとる”。初出は甲骨文。字形は「耳」+「又」”手”で、耳を掴んで捕らえるさま。原義は”捕獲する”。甲骨文では原義、”嫁取りする”の意に、金文では”採取する”の意(晉姜鼎・春秋中期)に、また地名・人名に用いられた。詳細は論語語釈「取」を参照。
「娶」(甲骨文)
清家本では「娶」と記す。初出は甲骨文。現行字体の初出は前漢の隷書。字形は「女」+”まさかりの頭”+「又」”手”。まさかりは軍事・司法など君主権の象徴で、王が夫人をめとるさま。または「女」+「耳」+「又」で、女性の耳を引っ張って略奪すること。甲骨文の用例は、破損がひどくて判読できない。戦国中末期の竹簡に、”めとる”の用例がある。詳細は論語語釈「娶」を参照。
定州竹簡論語ではこの部分が欠損しており、中国伝承の唐石経、宮内庁蔵南宋本『論語注疏』では「取」と記す。日本伝承の清家本、正平本、文明本を底本とする懐徳堂本では「娶」と記す。論語の伝承は隋唐交代期に日中で分岐し、唐末の唐石経で多数の改変が加えられる前の古注は日本に伝承し、中国では失伝した。従って「取」→「娶」と校訂した。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~から”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
吳(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”呉国”。旧字体は「吳」。新字体は「呉」。ただし唐石経は新字体と同じく「呉」と記し、定州本は「吴」と釈文し、清家本もそのように記す。初出は甲骨文。字形:甲骨文の字形は手を振り上げた頭の大きな人。原義は未詳。呉音では「グ」。甲骨文の用例は、破損がひどくて語義が明らかでない。西周早期の金文に、「王令吳白曰」とあり、国名と解せる。詳細は論語語釈「呉」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”~である”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
同(トウ)
(甲骨文)
論語の本章では”同じ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。甲骨文・金文の字形には下部の「𠙵」を欠くものがある。上部は人がかついで乗るこしで、貴人が輿に乗って集まってくるさま。原義は”あつまる”。甲骨文では原義に、また「興」の略字として”おきる”の意に用いた。金文では原義のほか、戦国の金文では”そろえる”の意に用いた。詳細は論語語釈「同」を参照。
姓(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”血統による同族集団”。「ショウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。字形は「女」+「生」。甲骨文の字形には部品の配置が逆のものがある。女系の血統を意味する。甲骨文では、女性名の一部に用いた。金文では一旦この語が忘れられ、ほぼ「生」で「姓」と釈文する。復活するのは春秋時代で、末期の金文には、「姓」として見られる。詳細は論語語釈「姓」を参照。
甲骨文の時代では女系の血統を共有する一族を意味したが、西周になると王室が一族の女性を諸侯に娶らせたため、男系の一族をも意味するようになった。周王室の姓を「姫」といい、ここから高貴な女性を「姫」と呼ぶようになった。対して「氏」は、血統によらない一族で、地縁や同業が集まって出来た集団。つまり山賊でも同氏を名乗りうる。中国では「同姓不婚」と言って、姓が同じ者とは婚姻してこなかったが、氏にはこの規制が無い。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”…だと言う”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
吳孟子(ゴモウシ)
論語の本章では人名。”呉の長女”を意味する。昭公が同性の呉から夫人を迎えた話は『春秋左氏伝』に見えない。昭公のあとを継いだ定公は昭公の子だが、母が誰かは記されていない。従って論語の本章が語る同姓不婚に外れた婚姻は、史実の可能性がある。都合の割ることは書かないのが、「春秋の筆法」だからだ。
呉は南方海岸沿いの辺境国だが、開祖呉泰伯はれっきとした周王室の出ということになっており、同じく周王室の出である魯国とは、姓「姫」が共通していた。従って本来は「呉姫」と呼ぶべき所、「呉孟子」=”呉王の長女”と呼んでごまかしたのである。
「孟」(金文)
「孟」とは長子のことで、公族の長男が分家して名乗ることがある。初出は殷代末期の金文。字形は「皿」”たらい”+「子」で、赤子が産湯を使っているさま。原義は”長子”。男児に限らない。金文では原義に、”始まりの”、”四季の第一月”の意に用い、戦国の竹簡では地名に、印璽では氏族名に用いた。論語語釈「孟」を参照。
孰(シュク)
(金文)
論語の本章では”誰が”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”それを”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
吿(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”告げる”。初出は甲骨文。新字体は「告」。字形は「辛」”ハリまたは小刀”+「口」。甲骨文には「辛」が「屮」”草”や「牛」になっているものもある。字解や原義は、「口」に関わるほかは不詳。甲骨文で祭礼の名、”告げる”、金文では”告発する”の用例がある。詳細は論語語釈「告」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
丘(キュウ)
(金文)
孔子の本名(いみ名)。いみ名は目上か自分だけが用いるのが原則で、論語の本章ではつまり自称。文字的には詳細は論語語釈「丘」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで主格の強調。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
幸(コウ)
(戦国末期金文)
論語の本章では”さいわいだ”。「いましめ」と読める場合に限り、初出は甲骨文。「さち」の読みと語義は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。戦国の金文から「十」字形+「羊」の字形が見え、”さいわい”の意を得た。論語語釈「幸」を参照。
苟(コウ)
(前漢隷書)
論語の本章では”本気で”。初出は戦国の竹簡または金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「艹」+「句」で、原義は不明。「敬」の古形である「茍」とは別字。『大漢和辞典』の第一義は”かりそめ・かり”。伝統的読み下しでは「いやしくも」と読むが、もはや誤解を招くだけの読みと思う。戦国の竹簡では、”少しでも”の意に用いた。詳細は論語語釈「苟」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
過(カ)
(金文)
論語の本章では”あやまち”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用せず、前漢中期の『史記』孔子世家に全文を再録。ただし「臣不可言君親之惡,為諱者,禮也。」”臣下は主家の悪事を言わない。口に出すのをはばかるのは、作法だ”との付け足しが記されている。その後の引用は、後漢初期の『白虎通義』が司敗と孔子の問答のみ再録。文字史から論語の時代に遡れず、「揖」の初出が前漢の隷書であることから、本章は前漢の儒者による創作と考えてよい。ただし昭公が同性の夫人を娶ったという話は、全くの創作とは断じられない。
解説
『史記』によると孔子は二度度陳に滞在し、一度目は三年に及んだが、「司城」の家に滞在したとあり、これは建設大臣にあたる。魯で言えば「司空」であり、孔子も孟孫氏の後ろ盾により、魯でその職に就いた可能性が大きい。司空は囚人を労役に使うから、司法にもある程度関わった。孔子が後に大司冦となったことと無関係ではないだろう。
一度目の滞在は割と平穏で、宮廷に落ちたハヤブサに刺さっていた矢の由来を説いて感心されている(『史記』孔子世家)。しかし孔子は「帰らんかな」と言い、一旦衛に戻る(なぜか魯ではない)。ところが衛の霊公が仕事を与えなかったので、また陳に戻った。
その間、故国魯で火事があって、共に老子に学んだ南宮敬叔が活躍したり、季氏の当主が死去したりした。そこで冉求を帰国させ、孔子も陳を出て隣国の蔡に移った。蔡国は陳同様、大国の楚と呉の間に挟まれた小国で、楚呉の抗争に巻き込まれて、滅亡同然だった。
そんな折り、呉国が陳国を攻め、救援に楚国が出て来ると、楚の昭王は孔子を招こうとしたとされる。ここで陳と蔡の家老連が、「孔子が楚に用いられると、孔子に嫌われているオレたちは、楚の圧力でクビになる」と考え、私兵を出して孔子一門を包囲したことになっている。
しかしおそらく呉国に陳国を攻めさせたのは孔子であり、許せん、ということで包囲されたのだろう。孔子は呉国と濃密な接触を保っていた間接証拠があり、その構想では呉国に陳・蔡・宋国を併呑させ、孔子好みの新たな覇者国に仕立てようとしたらしい。
余話
私のことを忘れないでね!
論語の本章は『史記』が複製していることから、おそらく偽作者は司馬遷より30ほど年上の董仲舒だろうが、本章を偽作した動機はまず、仕えた暴君・武帝への遠回しな批判が挙がる。武帝の行状については論語雍也篇11余話を、董仲舒については論語公冶長篇24余話を参照。
だが批判より、血の繋がった従姉妹を皇后に迎えさせられ、それを廃して衛子夫を皇后に迎えた武帝に対する、ゴマすりの可能性が高い。論語に限らず漢文は、政治的思惑と無関係であることがめったに無いから、裏の裏の裏を読まないと書き手の意図を理解するのは難しい。
武帝は論語を語る上では不可欠の人物で、高校世界史教科書的には、董仲舒の献策で儒教の国教化を進めたとされる。だが実情はずいぶん違い、即位した少年期に、帝室の年配女性が道家を好み、かつ幼い武帝をいいようにしたので、その反発から儒家に肩入れしただけだった。
武帝は司馬遷のような宦官、霍去病のような認知障害、東方朔のようなお笑い芸人しか使えなかった。帝王の器ではないのはもちろん、常人並みの知能があったかも疑わしい。子供がおもちゃをいじり壊すように、漢初の制度を叩き壊し、政府の崩壊と財政破綻を招いた。
漢の高祖劉邦が、若い頃はただの街のチンピラに過ぎなかったのに、行政万能の蕭何、百戦百勝の韓信、悪だくみ天下一の張良、悪党ゆえに有能極まりない陳平、その他もろもろのひと筋縄ではいかない連中をまとめ上げ、武勇絶倫の項羽を倒して漢帝国を開いたのとは対照的だ。
武帝に常人未満の知能しかなくても、本能は衰えなかったらしく、恐怖感から国軍を接収して皇帝の私兵化した。結果連年の対匈奴戦争となって、無数の臣民が異郷の土と化したのだが、戦勝は全ての不都合を覆い隠すらしい。負けが込んでも止められないのはそれゆえだ。
ただし武帝の本能は徳川家光と同様に、盛りの付いた少年期、女性に興味を持たなかった。
武帝即位,數年無子。平陽主求良家女十餘人,飾置家。帝祓霸上,還過平陽主。主見所偫美人,帝不說。既飲,謳者進,帝獨說子夫。帝起更衣,子夫侍尚衣軒中,得幸。還坐驩甚,賜平陽主金千斤。主因奏子夫送入宮。子夫上車,主拊其背曰:「行矣!強飯勉之。即貴,願無相忘!」入宮歲餘,不復幸。武帝擇宮人不中用者斥出之,子夫得見,涕泣請出。上憐之,復幸,遂有身,尊寵。召其兄衛長君、弟青侍中。而子夫生三女,元朔元年生男據,遂立為皇后。
武帝は15歳で即位したが、そのまま数年子が出来なかった。同母姉の平陽公主が気を回して、貴族の家から娘を十数人集めて、自邸でいろいろと仕込んでいた。公主は武帝が霸水の河祭に出掛けると聞いて、帰りに自分の屋敷に立ち寄るようすすめた。
公主は用意の娘たちを武帝の側に侍らせたが、武帝はぜんぜん興味を示さなかった。その代わり浴びるように酒を飲み、楽団や歌手(奴隷階級の仕事だった)が出てきて奏でたり歌ったりした。歌手の中に衛子夫がいた。武帝はその歌を聴いて喜んだ。
酔いの粗相で武帝が衣を濡らしたので、武帝は衛子夫やおつきに助けられながら更衣室に入った。衛子夫も着替えの手伝いに室内へ入った。そこで衛子夫は酔いの勢いに乗った武帝の寵愛を得た。事が終わった武帝は宴会の席に戻ると上機嫌で、姉の公主に黄金千斤を贈り、公主が「このまま後宮に連れ帰ってはいかが?」と言うので連れ帰ることにした。
いよいよ公主の屋敷を出る時、車に乗ろうとする衛子夫の背を、公主はポンポンと叩いて言った。「さあ、行きなさい。過去がどんなに辛くとも、未来だけ見て生きなさい(「矣」は”振り返りつつ去る”の意)。しっかり食べて、体を丈夫にするのですよ。太子を生んで国母の尊貴に上っても、私のことを忘れないでね!」
ところが武帝は連れ帰っても、数年衛子夫をほったらかしだった。ある時武帝は宮中の人員整理だと言って、普段用のない者をクビにしようとしたが、その中に衛子夫がいた。衛子夫は泣きながら「どうぞクビにして下さいませ」と武帝に訴えたので、武帝は哀れを催した勢いで再び寵愛を与えた。
それで身ごもって、衛子夫は武帝の寵姫になった。衛子夫の兄の衛長君と、弟の衛青は召されて侍従となった。衛子夫は娘を三人産んだ後、元朔元年(BC128)に男子の拠を産み、衛子夫を憎んだ陳皇后(武帝の従姉妹)がすでに廃后されたあとをついで、皇后となった。(『漢書』外戚伝31)
衛子夫の弟に衛青がいて、その甥に霍去病がいて、二人が私兵化された漢軍を率い、結果匈奴との戦争に勝利したのだが、武帝が衛子夫に催されなかったら、二人とも生涯奴隷階級のままだった。歴史というのはこういう偶然の積み重ねで出来ており、漢語で「自然」という。
何事もなるようになる、という意味である。
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