論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
互郷難與言童子見門人惑子曰與其進也不與其退也唯何甚人絜己以進與其絜也不保其往也
校訂
東洋文庫蔵清家本
互郷難與言童子見門人惑/子曰與其進也/不與其退也唯何甚/人潔已以進與其潔也不保其往也
- 「已」字:京大本・宮内庁本「巳」。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
互鄉難與言,童子見,門人惑。子曰:「與其進也,不與其174……甚?人絜a己以進,與其絜也,不葆b175……
- 絜、皇本作「潔」、阮本・唐石経作「絜」。『説文』無「潔」字。
- 葆、今本作「保」可通。
標点文
互郷難與言。童子見、門人惑。子曰、「與其進也、不與其退也。唯何甚。人絜己以進、與其絜也、不葆其往也。」
復元白文(論語時代での表記)
惑
絜
絜
絜
※互→(甲骨文)。論語の本章は、「惑」「絜」が論語の時代に存在しない。「與」「子」「門」「進」「也」「何」「甚」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
互郷は與に言ひ難し。童子見ゆ。門人惑ふ。子曰く、其の進むに與する也、其の退くに與せ不る也。唯何ぞ甚しき。人己を絜くして以て進まば、其の絜きに與する也、其の往きたるを葆た不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
互鄉のむらは互いに口に出来ないようなまちだった。そこから若者がやってきて孔子に入門を求めた。弟子はどうすればいいか迷った。先生が言った。「人が前進しようとするその行為に手助けするということはまさに、後退には手助けしないしないことだ。まったく何とひどいことだ。人が自分を清めて進もうとするなら、その清さを理由に手助けするということはまさに、その過去を覚えていないという事だ。」
意訳
互鄉の村は、奴隷に落とされた罪人の住む村だった。そこから若者がやってきて入門を願ったが、弟子は互いに「うわー」と言うだけで取り次がない。様子に気付いた孔子が言った。
「あきらめず、自分で人生を切り拓こうとしてるんだ。手助けしてやろうじゃないか。ひどいじゃないかお前たち。罪を犯した過去を、綺麗さっぱり捨て去ろうとしてるんだ。立派じゃないか。」
従来訳
互郷という村の人たちは、お話にならないほど風俗が悪かった。ところがその村の一少年が先師に入門をお願いして許されたので、門人たちは先師の真意を疑った。すると、先師はいわれた。――
「せっかく道を求めてやって来たのだから、喜んで迎えてやって、退かないようにしてやりたいものだ。お前たちのように、そうむごいことをいうものではない。いったい、人が自分の身を清くしようと思って一歩前進して来たら、その清くしようとする気持を汲んでやればいいので、過去のことをいつまでも気にする必要はないのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
有個地方風氣不正,那裏的人不講道理,該地的一個少年卻得到了孔子的接見,學生們都很疑惑。孔子說:「肯定他的進步,不等於認可他過去的錯誤,何必糾著別人的辮子不放呢?人家改好了,要肯定他有進步,過去的就不要提了。」
ある地域の習俗がよろしくなく、その住人は道理をわきまえない。そこから来た一人の少年が、意外にも孔子に会いたいと言った。弟子たちは非常に怪しがった。孔子が言った。「彼の進歩を認めよう。彼の過去の間違いを知りもしないで、別人のやらかしたことを許さず責め立てるのか?他人が良くなったら、彼に進歩があったのを認めるべきだ。過去は持ち出すには当たらない。」
論語:語釈
互(コ)
(甲骨文)
論語の本章では集落の名。「ゴ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。金文は未発掘。字形はL形の直角定規または三角定規を点対称に二つ組み合わせた形で、相対する事を示す。同音多数。しかも固有名詞だから、そのどれもが置換候補になり得る。甲骨文の用例は欠損がひどくて文として解読するのは不可能。文献上の初出は論語の本章になる。詳細は論語語釈「互」を参照。
郷(キョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”集落”。初出は甲骨文。新字体は「郷」、「鄕」は異体字。周初は「卿」と書き分けられなかった。中国・台湾・香港では、新字体に一画多い「鄉」がコード上の正字とされる。定州竹簡論語も「鄉」と釈文している。唐石経・清家本は新字体と同じく「郷」と記す。ゴウ」は慣用音、「コウ」は呉音。字形は山盛りの食事を盛った器に相対する人で、原義は”宴会”。甲骨文では”宴会”・”方角”を意味し、金文では”宴会”(曾伯陭壺・春秋早期)、”方角”(善夫山鼎・西周末期)に用い、また郷里・貴族の地位の一つ・城壁都市を意味した。詳細は論語語釈「郷」を参照。
難(ダン/ダ)
(金文)
論語の本章では”希有”→”難かしい”。初出は西周末期の金文。「ダン」の音で”難しい”、「ダ」の音で”鬼遣らい”を意味する。「ナン」「ナ」は呉音。字形は「𦰩」”火あぶり”+「鳥」で、焼き鳥のさま。原義は”焼き鳥”。それがなぜ”難しい”・”希有”の意になったかは、音を借りた仮借と解する以外にない。西周末期の用例に「難老」があり、”長寿”を意味したことから、初出の頃から、”希有”を意味したことになる。詳細は論語語釈「難」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”関わる”・”味方する”。”関わる”の語義は、春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”話題にする”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
なお論語の時代には「言」と「音」は区別せず、同じ文字で表した。
「言・音」(金文)
難與言(ともにいいがたし)
論語の本章では、”人との間で話題にしにくい”。互鄕がどのような所であったかは史料にないが、難與言=人との会話で口に出すのがはばかられる土地だったということになる。
論語の時代には奴隷階級や被差別階級が有ることは『左伝』の記録にもあり、さらには中国語を話さず、中国文化に染まらない野人の集団も各地にいた。互鄕がそれのどれに当たるかは明瞭にし難いが、宗教的にタブーな何かを持つ集団だったと思われる。
あるいは、滅ぼされた夏・殷の風習や宗教をかたくなに守る古儀式派のような存在、さらに言えばカトリックと正教会のような違いかも知れない。論語八佾篇で孔子が、「吾は周に従う」と言っているように、殷と周の間には、相当な文化的断絶が想起される。
「互鄕難與言」は漢語の通例では「難與言互鄕」=「互郷をともに言い難し」とあるべきだが、漢語は言いたい事を先に言う言語なので、英語のような主述関係を解釈に持ち込むと時に読めなくなる。「難與言」=「ともに言い難し」は”互いの間で言いがたい”、言いがたい対象が「互鄕」なのだが、とにかく言いがたい村だったので先に言った。
”互鄕の住人とは語り合えない”と解するのは無理がある。語順を「難言與互鄕」=「互郷と(ともに)言い難し」とでも変えない限り、「難與言」が一つの部品として固い殻を持っているからだ。
童(トウ)
(甲骨文)
論語の本章では”若者”。「ドウ」は慣用音。初出は甲骨文。字形は「辛」+”目を見開いた人”で、盲目化された奴隷の姿。原義は”奴隷”。甲骨文の用例は文意が明瞭でない。春秋末期までに、異民族への蔑称、”少しでも”・”子供”の意に用いた。詳細は論語語釈「童」を参照。
子(シ)
「子」
論語の本章では”男の子”。ただし、春秋末期までは身分ある男子に限るので、この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”会う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
門(ボン)
(甲骨文)
論語の本章では”学派”。ここでは孔子一門のこと。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”…の者”。「門人」で”孔子の弟子”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
惑(コク)
(金文)
論語の本章では”とまどう”。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ワク」は呉音。同音に語義を共有する漢字は無い。字形は「或」+「心」。部品の「或」は西周初期の金文から見られ、『大漢和辞典』には”まよう・うたがう”の語釈があるが、原義は長柄武器の一種の象形で、甲骨文から金文にかけて地名・人名や、”ふたたび”・”あるいは”・”地域”を意味したが、「心」の有無にかかわらず、”まよう・うたがう”の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「惑」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
進(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”すすむ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、
- 「進也」「絜也」では「や」と読んで主格の強調。
- 「退也」「往也」では「かな」と読んで詠嘆の意。「なり」と読んで断定にも解せるが、断定の語義は春秋末期までに確認できない。
初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
退(タイ)
(甲骨文)
論語の本章は”引き下がる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「豆」”食物を盛るたかつき”+「夊」”ゆく”で、食膳から食器をさげるさま。原義は”さげる”。金文では辶または彳が付いて”さがる”の意が強くなった。甲骨文では祭りの名にも用いられた。詳細は論語語釈「退」を参照。
唯(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”ひたすら”。初出は甲骨文。「ユイ」は呉音。字形は「𠙵」”口”+「隹」”とり”だが、早くから「隹」は”とり”の意では用いられず、発言者の感情を表す語気詞”はい”を意味する肯定の言葉に用いられ、「唯」が独立する結果になった。古い字体である「隹」を含めると、春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「唯」を参照。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”どれだけ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
甚(シン)
(金文)
論語の本章では”はなはだしい”。この語義は春秋時代では確認できない。「ジン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は西周早期の金文。初出の字形は「𠙵」”くち”または「曰」”いう”+「一」または「二」+「𠃊」”かくす”・”かくれる”。ほかに「○」+「乍」”大ガマ”の字形もある。由来と原義は不明。春秋末期までに人名・器名のほか、”たのしむ”の用例がある。詳細は論語語釈「甚」を参照。
潔(ケツ)→絜(ケツ)
(篆書)
論語の本章では”清める・過去を捨て去る”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「氵」”水”+「絜」”洗って白くなった麻糸の束”。全体で”水で洗い清める”。同音は絜のみ。文献上の初出は、論語の本章の古注になる。詳細は論語語釈「潔」を参照。
(秦系戦国文字)
定州竹簡論語は「絜」と記す。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「㓞」+「糸」で、切りそろえた糸束。戦国の竹簡で”きよい”・”胴回り”・”体”の意に用いた。詳細は論語語釈「絜」を参照。
己(キ)
現存最古の論語本である定州竹簡論語では「己」と釈文され、唐石経も同じく「己」と記し、東洋文庫蔵清家本は「已」と記す。京大蔵・宮内庁蔵清家本は「巳」と記す。清家本は唐石経より前の古注系論語を伝承しており、唐石経を訂正しうるが、より古い定州本に従い校訂しなかった。
「巳」字であれ「已」字であれ語義は”自分”で変わらないし、つまり唐代頃までは「巳」”へび”と「已」”すでに”と「己」”おのれ”は相互に異体字として通用した。従って本章でも異体字として扱った。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(甲骨文)
論語の本章では”自分”。初出は甲骨文。「コ」は呉音。字形はものを束ねる縄の象形だが、甲骨文の時代から十干の六番目として用いられた。従って原義は不明。”自分”の意での用例は春秋末期の金文に確認できる。詳細は論語語釈「己」を参照。
(甲骨文)
「已」の初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。
(甲骨文)
慶大蔵論語疏は本章を欠くが、現存する章ではやはり同じく「己」「已」を「巳」と記す。「巳」の初出は甲骨文。字形はヘビの象形。「ミ」は呉音。甲骨文では干支の六番目に用いられ、西周・春秋の金文では加えて、「已」”すでに”・”ああ”・「己」”自分”・「怡」”楽しませる”・「祀」”まつる”の意に用いた。詳細は論語語釈「巳」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
保(ホウ)→葆(ホウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~のままでいる”。「ホ」は呉音。初出は甲骨文。字形は母親が幼子を抱きかかえる姿。春秋末期までに、”安産する”・”保持する”・”補佐する”の意に用いた。詳細は論語語釈「保」を参照。
(秦系戦国文字)
定州竹簡論語は「葆」と記す。初出は秦系戦国文字。字形は「艹」”植物”+「保」”そだつ”で、植物が繁るさま。戦国の竹簡で、”手入れする””茂る”の意に用いた。上古音は「保」と同じ。異体字として扱って良い。詳細は論語語釈「葆」を参照。
往(オウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”過去”。初出は甲骨文。ただし字形は「㞷」。現行字体の初出は春秋末期の金文。字形は「止」”ゆく”+「王」で、原義は”ゆく”とされる。おそらく上古音で「往」「王」が同音のため、区別のために「止」を付けたとみられる。甲骨文の字形にはけものへんを伴う「狂」の字形があり、「狂」は近音。「狂」は甲骨文では”近づく”の意で用いられた。詳細は論語語釈「往」を参照。
既存の論語本では吉川本で、「不保其往也」を「往」=未来のことまで保証する必要は無い、と解する。しかし語義からみて、”過去”と判断した。『学研漢和大字典』にも動詞として”先に進む”を載せるが、名詞としては”過去”を載せ、”未来”を載せていない。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国時代を含めた先秦両漢の誰一人引用していないし、再録していない。初出は前漢の定州竹簡論語で、再出は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注になる。同じく南北朝時代にまとめられた『後漢書』郭符許伝に、「仲尼不逆互鄉」とあるのが、唯一の再録らしき話。「難與言」の表現は、前漢中期の『淮南子』斉俗訓に「難與言化」とあるのが先秦両漢で唯一の例。文字史的にも論語の時代に遡れず、前漢儒による創作と断じるしかない。
ただし漢儒が論語の本章を偽作した理由が見いだせず、何らかの史実を伝承している可能性が無くは無い。
解説
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
互鄉難與言童子見門人惑註鄭𤣥曰互鄉鄉名也其鄉人言語自專不達時宜而有童子來見孔子門人怪孔子見也子曰與其進也不與其退也唯何甚註孔安國曰教誨之道與其進不與其退怪我見此童子惡惡何一甚也人潔己以進與其潔也不保其往也註鄭𤣥曰往猶去也人虛已自潔而來當與其進之亦何能保其去後之行也
本文「互鄉難與言童子見門人惑」。
注釈。鄭玄「互郷とはむらの名である。その村人の言うことは自分勝手で時代に合っていなかった。そこから一人の少年が来て孔子に入門を望んだが、弟子は変な奴だと追い返そうとしたが孔子は合うのを許した。」
本文「子曰與其進也不與其退也唯何甚」。
注釈。孔安国「教育とは進歩を手助けし退化を手助けしない。自分がこの少年と会うのを変だと思い忌み嫌うが、嫌うにもほどがあると言ったのである。」
本文「人潔己以進與其潔也不保其往也」。
注釈。鄭玄「往とは過去のようなことである。人は自分を謙虚にして自分を清める。それを続けるならまさに進歩であり、どうして過去の行いをどうこう言う必要があるのか、と言ったのである。」
新注『論語集注』
互鄉難與言,童子見,門人惑。見,賢遍反。互鄉,鄉名。其人習於不善,難與言善。惑者,疑夫子不當見之也。子曰:「與其進也,不與其退也,唯何甚!人潔己以進,與其潔也,不保其往也。」疑此章有錯簡。「人潔」至「往也」十四字,當在「與其進也」之前。潔,脩治也。與,許也。往,前日也。言人潔己而來,但許其能自潔耳,固不能保其前日所為之善惡也;但許其進而來見耳,非許其既退而為不善也。蓋不追其既往,不逆其將來,以是心至,斯受之耳。唯字上下,疑又有闕文,大抵亦不為已甚之意。程子曰:「聖人待物之洪如此。」
本文「互鄉難與言,童子見,門人惑」。
見は賢-遍の反切で読む。互郷は村の名である。村人の普段の行いがよくないので、語り合うことが出来なかった。惑とは、疑って掛かって先生に会わせないようにしたという事だ。
本文「子曰:與其進也,不與其退也,唯何甚!人潔己以進,與其潔也,不保其往也」。
たぶん本章はどこからか紛れて論語のこの部分に入った。「人潔」から「往也」までの十四字は、「與其進也」の前に置くべきだ。潔とは、修養することである。與とは、許すことである。往は、過去である。人が修養し続けるには、能力の限り自分で努力すべきで、過去に行った善悪にこだわってはならないと言ったのである。努力を続けてきたなら、退化して過去の不善を繰り返さないのである。すでにやってしまったことは取り返しが付かないが、将来の変化を素直に認めると、心が高められるから、受け入れるしかないのである。唯の字の上下には、おそらく欠文がある。たぶん、こんなひどいことをするな、と書いてあったのだろう。
程頤「聖人が弟子を受け入れた範囲はこのように広かったのである。」
余話
温かく迎えてもよいはずだ
論語の本章を仮に何らかの史実を伝えるものと仮定して思考する。
論語の時代は周王朝だが、その一つ前の殷王朝は、盛んに奴隷狩りを行った。対象は周辺の異民族で、殷周革命の際、一説に羌族が周に加担したと言われるのは、殷の残忍さゆえだろう。殷は奴隷を平気で生け贄にして殺し、戦争奴隷としても用いたと言われる。
対して周は異民族だろうと、人間をいけにえにするのを嫌ったため、これを孔子は評価して「郁郁乎として文」(論語八佾篇14)と言った。ただし奴隷が廃止されたわけではなく、相変わらず異民族が奴隷として使役されていたことが知られる。
『字通』奴条
[会意]女+又(ゆう)。又は手。女子を捕らえて奴婢とする意。〔説文〕十二下に「奴婢、皆古の辠(罪)人(ざいにん)なり」とし、「周禮に曰く、其の奴、男子は辠隷(ざいれい)に入れ、女子は舂藁(しようかう)に入る」と〔周礼、秋官、司厲〕の文を引く。舂藁は女囚を属するところ。〔周礼、秋官〕に罪隷百二十人、蛮隷百二十人、閩隷百二十人、夷隷百二十人、貉隷百二十人などがあり、犯罪者のほかはおおむね外蕃である。古くは異族の虜囚などを聖所に属して、使役したものであろう。これらを神の徒隷とすることに、宗教的な意味があったものと思われる。
この「外蕃」=異民族の奴隷が、戦争捕虜の結果なのか、春秋諸侯国も奴隷狩りをやったのかは定かではない。ただ論語の本章に関して言うなら、孔子塾に現れたのは「奴」でも「隷」でもなく「童子」であり、「童」の『字通』による原義は髷を許されない犯罪者。
”こども”ではない。そして論語の時代、庶民もまた被差別階級だった。詳細は「国野制」を参照して頂きたいが、政治や軍事や商工業に従事する都市民=国人に対して、都城外に住み農耕に従事する野人との間には身分差があり、野人は国人に貢納の義務を負い参政権が無かった。
その身分秩序が崩れたことを示す何よりの証拠が、社会の底辺から一国の宰相格にまでなった孔子の存在だが、同様に弟子のほとんども庶民=野人の出身である。おそらく野人は都城外に、互郷のようなむらを作って集住していたのだろう。それがなぜ「童子」を嫌がったのか?
同じ庶民出身者なら、温かく迎えてもよいはずだ。すると互郷は犯罪の結果、やはり野人より下の奴隷階級に落とされた人々とその子孫ではないかという想像が成り立つ。いずれにせよ春秋時代の奴隷については史料が少なく、確言できることは僅かしかない。
コメント
文の形が酷似しており、それを考慮した方が良い気がします。また、孔子に開明的な人間観があったと考えるより、仁や禮という言葉に勝手な解釈を加えた自らの思想を原理主義的に優先させていただけと理解した方が封建社会の常識とも整合性が取れます。古代でも目の前で残酷な光景を目にすると、酷いと嘆く感覚はありました。それは詩が示す通りです。しかし、それを差別だと認識した記述はどこにも無い(と思います)。唯、嘆くだけでした。
與其進也,不與其退也
彼が前進すれば手助けするが、彼が後退すれば手助けしない。
與其潔也,不保其往也
彼が(自らを)清めれば手助けするが、彼が過去に戻れば保護しない。
返答が遅れて申し訳ありません。お申し越しは有り難く拝読させて頂きましたが、訳文の再検討は、文字の真偽判定が済むまで時間を下さい。