論語035為政篇第二(19)何を為さばすなわち

論語為政篇(19)要約:晩年の孔子先生。若殿から政治の秘訣を聞かれます。「民が言う事を聞かないのじゃ! どうすれば…。」しかし特効薬などありません。地道にまじめな者を昇進させなさいと、孔子先生は教えたのでした。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

哀公問曰、「何爲則民服。」孔子對曰、「舉直錯諸枉、則民服。舉枉錯諸直、則民不服。」

書き下し

哀公あいこうふていはく、なにさばすなはたみふくせん。孔子こうしこたへていはく、なほきをげてこれまがれるにまじはさば、すなはたみふくす。まがれるをげてこれなほきにまじはさば、すなはたみふくせず。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 哀公 論語 孔子
哀公が質問した。「どうすれば民が服従するだろうか。」孔子が答えて言った。「真っ直ぐな者を曲がった者の群れに交えると、民は服従します。曲がった者を真っ直ぐな者の群れに交えると、民は服従しません。」

意訳

若殿「どうすれば民が言うことを聞くかのう。」

論語 孔子 キメ
孔子「ろくでなしの長に正直者を据えなされ。」

従来訳

 哀公あいこうがたずねられた。――
「どうしたら人民が心服するだろうか。」
先師がこたえられた。――
「正しい人を挙用して曲った人の上におくと、人民は心服いたします。曲った人を挙用して正しい人の上におくと、人民は心服いたしません。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

哀公

論語 哀 金文 論語 公 金文
(金文)

第27代魯国公。?-BC467。魯(現在の中国山東省南部)の第26代君主の定公の子。BC494年に即位した。BC487年に隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解した。その後斉に攻められ敗北した。BC485年には呉と同じく斉へ攻め込み大勝した。

翌年また斉に攻められ、BC483年に孔子が斉の君主・簡公討伐を勧めるが実現しなかった。その3年後のBC481年、斉の簡公が宰相の田恒に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公はすでに門閥家老・三桓に力を奪われており実現しなかった。

BC471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍した。BC468年、三桓氏の武力討伐を試みるもその軍事力に屈し、衛や鄒を転々とした後に越へ国外追放され、BC467年にその地で没した。

詳細は『史記』魯世家:哀公を参照。

論語 民 金文 論語 強制労働 民
(金文)

既存の論語本の中で、吉川本では官僚を除いた領民とする。原義はハリで視力を奪われた奴隷。詳細な語釈は論語語釈「民」を参照。

錯(サク)

論語 錯 金文大篆 論語 錯 字解
(金文)

論語の本章では”曲がった者”。つまり曲者。『大漢和辞典』の第一義は”まじる・まじえる”。以下”乱れる・そむく・たがう…”とネガティブな語義が並ぶ。現代中国語でも「ツオ」と読み、”間違い・でたらめ”の意。”おく”と読むのは荻生徂徠による。吉川本もこれを支持する。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、昔(セキ)は「日+ぎざぎざに重なるしるし」からなり、日数を重ねること。錯は「金+〔音符〕昔」で、金属の上に金属を重ねためっき。ふぞろいに重なるの意から転じて、交錯の意を生じた。

耤(シャ)(しきかさねる)・籍(かさねておく竹簡)などと同系のことば、という。

諸(ショ)

論語 諸 金文 論語 満員電車 慎 諸
(金文)

論語の本章では、”これを…に”。「之於」(シヲ)と音が通じてこの意味になった。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、者(シャ)(=者)は、こんろに薪をいっぱいつめこんで火気を充満させているさまを描いた象形文字で、その原義は暑(=暑)・煮(=煮)などにあらわれている。諸は「言+〔音符〕者」で、ひと所に多くのものが集まること。

転じて、多くの、さまざまな、の意を示す。▽者・諸の音を借りて「これ」という近称の指示詞をあらわすのは当て字。都(=都。人が多く集まるみやこ→すべての)に近く、また、庶民(おおぜいの人々)の庶(ショ)とほとんど同じ、という。

論語:解説・付記

論語 吉川幸次郎
既存の論語本では吉川本によると、ここで「子曰わく」でなく「孔子曰く」となっているのは、古注では一門外部との対話であるためとし、新注では君主を敬った表現という。

なお、お説教を語るのが大好きな孔子も、孫のような若い哀公相手だと原則論しか言わないように感じる。魯国の政治からは身を引いているのが理由その一、魯国如き小国にはあまり期待していないのがその二、年を取ってくたびれているのがその三。

そのうち最も大きな理由は、やはり一だろう。放浪中の孔子を呼び戻したのは、哀公時代の首相格だった季康子だが、哀公共々政治の実権に孔子を関与させず、結局非常勤相談役のような立場に追いやった。しかし孔子が没した際には、哀公は切々とくやみの言葉を述べている。

これにカチンと来たのが弟子の子貢で、激しい言葉が『史記』に記されている

論語 子貢 怒り
「哀公はきっと国外に逃亡するハメになるだろう。先生の生前には閑職に追いやっておきながら、亡くなってからオイオイ泣き叫ぶのは礼法破りだ。私一人が取り残されたって? その言い方は周王の特権だ。まともには死ねないぞ。」『史記』孔子世家

孔子が追いやられた背景には、孔子一門と親しく、一時は魯国を属国扱いしていた呉国が、出征の留守を越国に突かれて、急激に没落したことがある。史料にははっきりと記されていないが、時間軸を並べるとその推測が成り立ち、子貢は呉国と親しかった記述は史料にある。

BC 魯哀公 孔子 魯国 その他
484 11 68 孔文子に軍事を尋ねられる。衛を出て魯に戻る。のち家老の末席に連なる。弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破 呉と連合して斉に大勝 呉・伍子胥、呉王夫差に迫られて自殺
483 12 69 もう弟子ではないと冉有を破門 季康子、税率を上げ、家臣の冉求、取り立てを厳しくする
482 13 70 息子の鯉、死去 呉王夫差、黄池に諸侯を集めて晋・定公と覇者の座を争う。晋・趙鞅、呉を長と認定(晋世家)。呉は本国を越軍に攻められ、大敗
481 14 71 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず。弟子の顔回死去。弟子の司馬牛、宋を出奔して斉>呉を放浪したあげく、魯で変死 孟懿子死去。麒麟が捕らわれる 斉・簡公、陳成子(田常)によって徐州で殺され、平公即位。宋・桓魋、反乱を起こして曹>衛>斉に亡命

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)