PRあり

論語詳解045八佾篇第三(5)夷狄の君あるは’

論語八佾篇(5)要約:孔子先生は古代人で、生まれた中華の文明を世界最高だと信じて疑いません。ですから周辺民族を野蛮人だと思っていました。現代の感覚では差別になることでも、当時は非難どころか賞賛の対象でもあったのです。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰夷狄之有君不如諸夏之亡也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰夷狄之有君不如諸夏之亡也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……曰:「荑a狄之有君也b,不若c諸[夏之亡也]。」40

  1. 荑、今本作「夷」。荑為夷之誤。
    荑 大漢和辞典
  2. 也、今本無。
  3. 若、今本作「如」。可通。

標点文

子曰、「夷狄之有君也、不若諸夏之亡也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 夷 金文狄 金文之 金文有 金文君 金文也 金文 不 金文若 金文者 諸 金文夏 金文之 金文亡 金文也 金文

※論語の本章は、「也」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、夷狄えびすきみもろからきにかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
先生が言った。「君主が居る蛮族の国さえも、君主不在の中華の国に及ばないのだ。」

意訳

野蛮人にどんなに偉い酋長がいようと、しょせんは野蛮人だぞ。
八佾篇 中華思想

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「夷狄の国にも君主があって秩序が立っている。現在の乱脈な中華諸国のようなものではないのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「偏遠小國有君主,不如中原各國沒君主。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「辺鄙な小国に君主がいるのは、中華諸国に君主がいないのより劣っている。」

論語:語釈


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

夷狄(イテキ)

夷 甲骨文 狄 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では、”中華文明になじまない異民族・蛮族”。夷は東方の蛮族、狄は北方の蛮族。南方は南蛮、西方は西戎と呼ぶが、それは後世に定着した呼び分けで、春秋時代にどうだったかは判然としない。

「夷」の初出は甲骨文。字形は「矢」+ひもで、いぐるみをするさま。おそらく原義は”狩猟(民)”。甲骨文での語義は不明。金文では地名に用いた。詳細は論語語釈「夷」を参照。

「狄」の初出は甲骨文。字形は「矢」+「犬」で、けものを矢で射るさま。原義は”狩猟(民)”。甲骨文での語義は不明、金文では北方の異民族(史牆盤・西周中期)、”こらしめる”(曾伯簠・春秋早期)の意に用いた。詳細は論語語釈「狄」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

君(クン)

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

論語の本章では”君主”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

論語の時代の中国では、名目上頂点に周王が君臨していたが、諸侯は必ずしも周王に従わず、互いに攻め滅ぼし合っていた。そのようなあたかも君主不在のような状況を、孔子が嘆いて言ったもの。しかしそれでも、蛮族は中華に劣りと言っている。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、上の句「有君也」では「や」と読んで主格の強調”…こそは”の意に用いている。下の句「亡也」では「かな」と読んで詠嘆の意。「や」と読んで疑問・反語の意に解すると、文意が通じない。「なり」と読んで断定の意に解すると、論語の時代の言葉ではなくなってしまう。

初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

如(ジョ)→若(ジャク)

如 甲骨文 如 字解
(甲骨文)

論語の本章では”同程度になる”。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。”もしくは”の語釈は、論語先進篇26を偽作した前漢の儒者が、偽作を古くさく見せるために、「與」zi̯o(上)と書くべき所に「如」ȵi̯o(平)と記したハッタリで、こんな珍妙な語義は、同時代以降の猿真似を除けば、やはり前漢儒者による『儀礼』の「公如大夫」『書経』の「如五器」ぐらいしかない。詳細は論語語釈「如」を参照。

若 甲骨文 若 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語の「若」の初出は甲骨文。字形はかぶり物または長い髪を伴ったしもべが上を仰ぎ受けるさまで、原義は”従う”。同じ現象を上から目線で言えば”許す”の意となる。甲骨文からその他”~のようだ”の意があるが、”若い”の語釈がいつからかは不詳。詳細は論語語釈「若」を参照。

諸(ショ)

諸 秦系戦国文字 諸 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”もろもろの”。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。

「之於」(シヲ)と音が通じるので一字で代用した言葉と言い出したのは清儒で、最古の文献である論語には、安易に適用すべきではない。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。

夏(カ)

夏 甲骨文 夏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”中華の国”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「日」”太陽”の下に目を見開いてひざまずく人「頁」で、おそらくは太陽神を祭る神殿に属する神官。甲骨文では占い師の名に用いられ、金文では人名のほか、”中華文明圏”を意味した。また戦国時代の金文では、川の名に用いた。詳細は論語語釈「夏」を参照。

亡(ボウ)

亡 甲骨文 亡 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(君主が)いない”。初出は甲骨文。「モウ」は呉音。字形は「人」+「丨」”築地塀”で、人の視界を隔てて見えなくさせたさま。原義は”(見え)ない”。甲骨文では原義で、春秋までの金文では”忘れる”、人名に、戦国の金文では原義・”滅亡”の意に用いた。詳細は論語語釈「亡」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は、後漢の王充が『論衡』に再録するまで、誰も引用していない。だが前漢宣帝期の定州竹簡論語にあり、文字史的に偽作の証拠がない上に、用法に疑問を持ちうる下の句「也」を取り去っても「亡きに如かず」と訓めて文意が成り立つし、「之」も無しで済まし得る。

子曰、「夷狄有君也、不若諸夏亡。」
子曰く、夷狄の君有る、諸夏の亡きに若か不。
先生が言った。「蛮族が実権のある族長に率いられているさまは、中華諸国の君主に実権が無い現状に、それでもなお及ばない。」

これが恐らく本章の、史実の孔子の発言ではあるまいか。ただしその場合は、下の句を疑問や反語に解せないから、文意は「蛮族は所詮蛮族だ」という解釈に限られる。訳者は従来訳をなさった下村先生の誠実を疑わないが、論語の本章については誤訳と申すほかはない。

解説

中国人と、それ以外の民族との厳しい差別は、儒教的価値観が要請する根本的な感情もしくは行為であり、それは先天的に正しいとされた。孔子もその価値観を共有していたことを示すのが本章で、その差別感情には当時なりの理由があり、今日的価値観での批判はできない。

騎馬民族
孔子の住んだ中原諸国にとって、時おり襲い来る北方のテキ人の脅威は抜き差しならない課題で、弟子たちが目指した君子=当時の貴族は、まず自国の防衛を社会から期待された。つまり異民族を撃退出来ることが、社会に対して貴族の特権を主張する最大の理由だった。

狄人は連年のように中華諸侯国に侵攻、食糧を奪い、人をさらった。抵抗する者は容赦なく殺した。拉致問題を他人事として済ませる国に存在意義が無いように、春秋の貴族は庶民を狄人から護らなければ、例外なくそっぽを向かれ、周王以下自身が文字通り狄人の餌食になった

例えば孔子にとって第二の故郷と言える衛国は、孔子が生まれるほぼ一世紀前、狄人の侵攻で一旦滅びた。その狄人を撃退し、衛国を再興したのは、名宰相として有名な管仲だった。だから孔子は、「管仲がいなかったら、私もみっともない蛮族に成り下がっていた」と讃えさせられた。

詳細は後世の偽作である論語憲問篇18を参照。それはともかく論語の本章は、徹頭徹尾、異民族に対する孔子の差別と解さねばならない。ところが理由は不明ながら、朱子の編んだ新注では、宋の儒者がよってたかって、あらぬ方向に論語の本章の解釈をねじ曲げた。

新注『論語集注』

程子曰:「夷狄且有君長,不如諸夏之僭亂,反無上下之分也。」尹氏曰:「孔子傷時之亂而歎之也。亡,非實亡也,雖有之,不能盡其道爾。」

程伊川 尹焞
「夷狄ですら君主がいて、秩序正しく治まっている。当時の中華諸国で家老が国公の権威を犯し、文明国のはずがかえって身分秩序が崩れたようなことになっていない。」

尹焞イントン「孔子は当時の崩れた身分秩序を悲しみ、歎いたのだ。だから”夏之亡”と言ったのも、”実際に中華諸国が滅んだ”と言ったのではなく、”国はあっても、正しい秩序を通し切れない”と言ったに過ぎない。」

こう解釈するためには、論語の本章を次のようにむことになる。

夷狄だもこれ君有り、諸夏之亡ぶが若きにあらなり

中国語史から言って、「也」を断定に訓まねばならない時点で、孔子の言葉ではなくなってしまうのだが、決定的なのは「之」の解釈に困って「強調だ」と言い出したことだ。中国語の文法上、「之」は直前の動詞を強調することは出来るが、名詞を強調することは出来ない。

しかも夷狄:諸夏という対句の後に、どちらも「之」が付いているからには、前句と後句でその語義は、同じと解釈すべきである。これはどうにも、徳川家康の「国家安康」なみの無茶苦茶な読みだと言うしかない。妙な解釈を発明して、目立ちたかったのだろうか。

話を戻して国際環境的に言えば、新注の時代は論語の時代以上に、深刻な異民族問題を抱えていた。宋帝国は建国時から、北方領土の一部を異民族に占領され、契丹・女真・モンゴルと、次々と強大な異民族の軍事的脅威に押されて、とうとう滅亡することになった。

ならば一層、異民族の差別を言い出してもおかしくないのだが、ここに論語の時代と宋の時代で、貴族のありようが異なっているのが見える。いま仮に参政権のある者と貴族と呼ぶならば、宋代の儒者は試験によって貴族となり、論語の時代の卿大夫士といった階層を独占した。

つまり宋の儒者は世間に対して、自分の特権を主張するのに、試験に受かったことだけを言えばよかった。前線に出て祖国防衛に当たるのは、乱暴で卑しい軍人どもの仕事だと思っていた。もちろん范仲淹のような例外はいたが、他の九分九厘はただのワイロ取りである。

程伊川
新注に言う程子とは程頤(伊川)のことで、尹焞はその弟子だが、程頤は儒教に黒魔術を持ち込み、妄想の極みである理気論なる自然哲学の、開祖の一人となった。例えるなら秘伝のたれが入っていないと公認しないラーメンと同じで、程頤は家元として威張りたかったのだろう。

程頤の高慢ちきは医学的な精神障害と断ずるほかないほどで、科挙の最終試験に受かる前に、皇帝に説教文を送りつけた。気味悪く思った皇帝が最終試験に不合格の判をつけて仕官に失敗、のちに気の毒に思った司馬光の口利きで一時任官したが、やはりしくじる。

理由はあまりの性格の悪さで、他人を捕まえては説教ばかりしていたという。

論語の本章の野蛮人ばなしには、後日談がある。程頤や朱子が作った黒魔術=宋学があまりに流行ったため、中国では古注が一冊残らずすっかり焼けてしまった。その後紛れもない野蛮人の王朝である清帝国が成立すると、儒者は古代ばかり研究したがるようになった。

現代を研究すると、必然的に皇帝が野蛮人だと言う羽目になり、言えば局結なます斬りだったからだ。それゆえ論語への関心も高まったのだが、研究するにも古い本を片端から焼き払った後で残っていない。そんな折り、日本の栃木の山奥に、古注があるという情報が入った。

驚喜した儒者が長崎経由で取り寄せたのだが、開いて見たとたんに真っ青になった。論語の本章について、清代の儒者は新注の言う通り、「異民族の方が立派ではないか」と読んでいたのだが、古注には「蛮族どもは、所詮ケダモノ同然だ」と書いてあったからである。

左:鵜飼文庫版根本本『論語集解義疏』/右:欽定四庫全書『論語集解義疏』

日本・鵜飼文庫版根本本『論語義疏』(→画像)

子曰夷狄之有君不如諸夏之亡也註苞氏曰諸夏中國也亡無也疏子曰至亡也此章重中國賤蠻夷也諸夏中國也亡無也言夷狄雖有君主而不及中國無君也故孫綽云諸夏有時無君道不都喪夷狄强者爲師理同禽獸也釋慧琳云有君無禮不如有禮無君也刺時季氏有君無禮也註苞氏曰諸夏中國也亡無也謂中國爲諸夏者夏大也中國禮大故謂爲夏也諸之也之語助也

鵜飼文庫版『論語義疏』 包咸
「子曰く、夷狄の君有るは、諸夏の亡きにしかざる也。」

注釈。包咸「諸夏は中国のことだ。亡きは、無い事だ。」

付け足し。皇侃「先生は無いことを記した。この章は中国を尊重し野蛮人を賤しんだのである。諸夏とは中国のことである。亡きとは無い事である。その心は、夷狄に君主がいても、君主のいない中華の国より劣りということだ。」

孫綽「中華諸国には、時には君主がいないことがある。だが文明が全て失われたわけではない。そこへ行くと夷狄は、強い者が皆の手本になる。これはトリやケダモノと同じだ。」

釋慧琳「君主がいて礼儀が無いのは、礼儀があって君主がいないのより劣っている。」

注釈。包咸「諸夏は中国のことだ。亡きは、無い事だ。」

付け足し。皇侃「中国が諸夏と呼ばれるのは、栄えて広大だからだ。中国では礼儀が盛んである。だから栄えているという。諸とは”これ”である。之とは、助辞である。」

泡を食った儒者は本屋と結託して、この部分を誤魔化して世間に広めた。清帝国は名君が続いたが、蛮族呼ばわりには神経質で、仮に皇帝が許しても、次代の皇帝が念入りに、丁寧に全身を切り刻んで回ったからだ。それゆえ清帝国公認の版本では、全然違う文字列になっている。

欽定四庫全書版『論語義疏』(→画像)

子曰夷狄之有君不如諸夏之亡也註苞氏曰諸夏中國也亡無也疏子曰至亡也此章為下僭上者發也諸夏中國也亡無也言中國所以尊於夷狄者以其名分定而上下不亂也周室既衰諸侯放恣禮樂征伐之權不復出自天子反不如夷狄之國尚有尊長統屬不至如我中國之無君也 註苞氏曰諸夏中國也 謂中國為諸夏者夏大也中國禮大故謂為夏也諸之也語助也

論語義疏 四庫全書版 古注 皇侃
「子曰く、夷狄だもこれ君有り、諸夏これ亡ぶが若きにあらざる也。」

注釈。包咸「諸夏は中国のことだ。亡きは、無い事だ。」

付け足し。皇侃「先生は無いことを記した。この章は、卑しい者が貴い者を犯しているのを告発したのだ。諸夏とは中国のことだ。亡きは、無い事だ。その心は、中国で尊重される秩序が、夷狄でもその名称通りに定まって乱れていないということだ。当時、周王朝の権威が衰え、諸侯が身勝手に振る舞い、礼儀作法や音楽や軍事の命令が、周王から出せない有様だった。これはかえって、夷狄の国で目上が尊敬されて秩序が保たれているのに比べて劣ってはいるが、我が中国に君主がいない、とまでは言えなかった。」

注釈。包咸「諸夏は中国のことだ。亡きは、無い事だ。」

付け足し。皇侃「中国が諸夏と呼ばれるのは、栄えて広大だからだ。中国では礼儀が盛んである。だから栄えているという。諸とは”これ”である。之とは、助辞である。」

というわけで論語の本章には、二種類の訓みと解釈が出来上がったわけだが、新注や欽定四庫全書の解釈を採用している本は、もはや現代では通用しない。

余話

夷をもって夷を制す始まり

周王朝が狄人の一つ「犬戎」に攻められて一旦滅び、東の洛邑に遷都して「東周」になったこと、それ以降、周王朝の統制力が諸侯に及ばなくなったことは、高校世界史的知識だが、諸侯による周王朝へのあなどりは、一族である鄭の国公、荘公に始まるとされる。

それがいわゆる「鄭荘公小覇の時代」だが、その後も周と鄭の関係は良くなかったらしい。周の襄王十三年(BC639)と言えば、周の東遷から131年後、孔子の生まれる88年前だが、鄭が現在の河南省商丘市にあった小国の滑を征服したとき、襄王は狄人の兵で鄭を攻めようとした。

襄王十三年,鄭人伐滑。王使游孫伯請滑,鄭人執之。王怒,將以狄伐鄭。富辰諫曰:「不可。古人有言曰:『兄弟讒鬩、侮人百里。』周文公之詩曰:『兄弟鬩于墻,外御其侮。』若是則鬩乃內侮,而雖鬩不敗親也。鄭在天子,兄弟也。鄭武、莊有大勛力于平、桓;我周之東遷,晉、鄭是依;子頹之亂,又鄭之繇定。今以小忿棄之,是以小怨置大德也,無乃不可乎!且夫兄弟之怨,不徵于他,徵于他,利乃外矣。章怨外利,不義;棄親即狄,不祥;以怨報德,不仁。夫義所以生利也,祥所以事神也,仁所以保民也。不義則利不阜,不祥則福不降,不仁則民不至。古之明王不失此三德者,故能光有天下,而和寧百姓,令聞不忘。王其不可以棄之。」王不聽。十七年,王降狄師以伐鄭。


襄王十三年、鄭国人が滑を討伐した。王は游孫伯を使わして滑の存続を図ったが、鄭軍はこの使者を捕らえてしまった。王は怒り、狄人の軍で鄭を討伐しようとした。富辰が諌めて言った。

「いけません。古人も言ったではありませんか。”兄弟げんかは、百里四方の笑い物になる”と。周の文公も詩に書いています。”屋敷の塀を挟んで兄弟げんかをすると、よその者にバカにされていいようにされる”と。このように中華内部で争えば諸侯に侮られますし、戦ったにせよ同族の鄭を滅ぼすわけにもいきません。鄭は陛下と兄弟ではありませんか(襄王の母親は鄭公室の出身)。

鄭の武公と荘公は、西周末期の混乱を鎮め、桓公は周の東遷に援助しました。それに鄭は大国の晋と親密です(、敵に回してはいけません)。子頹の乱も、鄭が鎮圧しました。いま陛下が些細な怒りから、鄭を敵に回すなら、今までの恩を知らない恥知らずと言われます。絶対にいけません。

そもそも兄弟同士の怨みは、無いことにして済まさねばなりません。あえて大げさにすれば、利益を外の者に取られます。怨みを言い立てて外に利益を与えるのは、正しくありません。親戚を捨てて蛮族に頼るのは、災いを招きます。(周は東遷して、蛮族には散々な目に遭わされたではありませんか。)怨みがある者に利益を与えるのは、貴族のすることではありません。

そもそもそういった現実的な判断が出来るのが貴族というもので、現実的に正しいから利益を生むのです。天運をあてにするのは神に振り回されることであり、貴族らしい判断力こそが、民を守る道なのです。

現実的に判断できなければ、効果は全く認められず、神がその気にならなければ幸運はやってこず、貴族らしく統治しなければ民が協力してくれません。むかしの聖王はこの三つをしかとわきまえていました。だから天下を統一し、民百姓に平和をもたらし、何かを命じてもその通りに従われて放置されなかったのです。陛下もこの三つを忘れてはなりません。」

しかし王の怒りは解けなかった。十七年になって、狄人の軍で鄭を討伐した。(『国語』周語中15)

いわゆる「夷をもって夷を制す」(『後漢書』鄧寇伝)だが、始まりはこんな大昔からあった。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
スポンサーリンク
九去堂をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました