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論語詳解296顔淵篇第十二(18)季康子盜を*

論語顔淵篇(18)要約:後世の創作。ドロボーが横行してどうにもならない。若家老が嘆きます。孔子先生はその答えに、やはり原則論だけを説きました。あなたが欲張りだから泥棒が流行るのです。これも身から出た錆ですぞ。という作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

季康子患盜問於孔子孔子對曰苟子之不欲雖賞之不竊

  • 「苟」字:〔艹〕→〔十十〕。

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

季康子患盜問於孔子孔子對曰苟子之不欲雖賞之不竊

  • 「苟」字:〔艹〕→〔十十〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

季康子患盜、問於孔子。孔子對曰、「苟子之不欲、雖賞之不竊。」

復元白文(論語時代での表記)

季 金文康 金文子 金文圂 金文盗 金文 問 金文於 金文孔 金文子 金文 孔 金文子 金文対 金文曰 金文 子 金文不 金文谷 雖 金文賞 金文之 金文不 金文

※患→圂・欲→谷。論語の本章は「苟」「竊」の字が論語の時代に存在しない。「問」「盜」「賞」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

季康子きかうしぬすびとうれへて、孔子こうしふ。孔子こうしこたへていはく、これのぞらば、これめづるといへどぬす

論語:現代日本語訳

逐語訳

季康子 孔子
季康子が盗賊を気に病んで孔子に問うた。先生が答えて言った。「もしあなたが欲張りでなければ、盗賊を顕彰しても盗みません。」

意訳

季康子「ドロボーが流行ってどうにもならぬ。」

孔子 人形
孔子「あなたが欲張りだからです。そうでなければ、泥棒を表彰しても、だれも盗みは致しません。」

従来訳

下村湖人

季康子が国内に盗賊の多いのを心配して、先師にその対策をもとめた。すると先師はこたえられた。――
「もしあなたさえ無欲におなりになれば、賞をあたえるといっても盗む者はありますまい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

季康子苦於盜賊,問孔子怎麽辦。孔子說:「如果您不貪婪,即使盜竊有賞,也沒人去幹。」

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季康子が盗賊に苦しんで、孔子に対策を問うた。孔子が言った。「もしあなたが欲深くなければ、仮に盗賊に賞をくれてやっても、誰もやったりしません。」

論語:語釈

季康子(キコウシ)

?-BC468。別名、季孫肥。魯国の門閥家老「三桓」の筆頭、季氏の当主、魯国正卿。BC492に父・季桓子(季孫斯)の跡を継いで当主となる。この時孔子59歳。孔子を魯国に呼び戻し、その弟子、子貢冉有を用いて国政に当たった。

季 甲骨文 季 字解
「季」(甲骨文)

「季」は”末っ子”を意味する。初出は甲骨文。魯の第15代桓公の子に生まれた慶父・叔牙・季友は、長兄の第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏にそれぞれ分かれた。辞書的には論語語釈「季」を参照。

康 甲骨文 康 字解
「康」(甲骨文)

「康」の初出は甲骨文。春秋時代以前では、人名または”(時間が)永い”のいで用いられた。辞書的には論語語釈「康」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

患(カン)

患 楚系戦国文字 患 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では、”気に病む”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「毋」”暗い”+「心」。「串」に記すのは篆書以降の誤り。論語時代の置換候補は近音の「圂」または「困」。詳細は論語語釈「患」を参照。

盜*(トウ)

盜 盗 甲骨文 盗 字解
(甲骨文)

論語の本章では”泥棒”。”逃亡者”とも解せるが、これらの語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「盗」(上半分のへんが氵ではなく冫)。甲骨文の字形は、「冫」”水”+「𠙵+人」”顔を背けた人”+傾いた「皿」”水桶”。溢れた水から人が逃げる様。原義は”水が溢れる”。戦国時代以降、”盗人”の意に用いたのは同音「逃」との音通による。甲骨文では”洪水”の意に、西周の金文では”広げる”の意に用いた。詳細は論語語釈「盗」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。詳細は論語先進篇11語釈を参照。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

苟(コウ)

苟 隷書 苟 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”もし”。初出は戦国の竹簡または金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「艹」+「句」で、原義は不明。「敬」の古形である「茍」とは別字。『大漢和辞典』の第一義は”かりそめ・かり”。伝統的読み下しでは「いやしくも」と読むが、もはや誤解を招くだけの読みと思う。戦国の竹簡では、”少しでも”の意に用いた。詳細は論語語釈「苟」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

欲(ヨク)

欲 楚系戦国文字 欲 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”求める”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義がある。詳細は論語語釈「欲」を参照。

苟子之不欲→苟子不欲

唐石経を祖本とする現伝論語では「之」を加えて「苟子之不欲」と記す。ここは文法がおかしい。「いやしくもの不欲」と読めば動詞が無くなってしまい、「いやしくも子之れ欲さざらば」と読むしかないが、「之」は直前の動詞を強調する語義はあっても、名詞を強調する語義は無い。古さを演出するための、儒者のハッタリだろう。

唐石経以前に日本に伝来した古注系論語では「之」を記さない。本章は前漢中期の定州竹簡論語に欠き、最古の文字列は日本伝承の古注系論語だから、これに従い「之」を省いて校訂した。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

雖(スイ)

論語 雖 金文 雖 字解
(金文)

論語の本章では”それでも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。

賞*(ショウ)

賞 金文
(金文)

論語の本章では”褒め讃える”。この語義は春秋時代では確認できない。”褒美を渡す”と解すれば春秋時代における用例の不在を回避できるが、本章は文字史から後世の創作が確定するためあえてそう解する必要がない。文字は論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文。字形は「龸」”大広間”+「貝」”たから”。大広間で宝を渡して褒め讃えるさま。戦国時代から「𠙵」”くち”が加わり、具体的な褒美を伴わない”誉める”を意味した。また戦国最末期「睡虎地秦簡」では、「償」”つぐなう”の意に用いた。詳細は論語語釈「賞」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”。具体的には盗むこと。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

竊(セツ)

竊 楚系戦国文字 竊 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”盗む”。初出は楚系戦国文字。異体字の「窃」も論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。初出の字形は「戈」二つ+「攵」”うつ”+「米」で、武装して穀物を奪う事か。戦国の竹簡に、”ぬすむ”・”ひそかに”あるいは”切実に”の意に用いた。詳細は論語語釈「窃」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本賞は「苟」の初出が戦国文字であることから、後世の偽作は明白。

解説

春秋時代の「盗」について、白川静は「血盟に離叛し、共同体の盟約から逸脱するもので、〔左伝〕において盗とよばれている者は、みな亡命者であった。」(『字通』盗条)というが、それは中途半端にしか『春秋左氏伝』を読まないからで、例えば僖公二十四年の「竊人之財,猶謂之盜」は”どろぼう”以外に解釈のしようが無い。

そんな当時の「盗」について、『論語集釋』に一部を引く戦国時代の竹簡『汲冢瑣語』に、次のような記述がある。

魯國多盜,季康子治之,獲一人焉。詰之曰:「汝胡以盜?」對曰:「此猶之蟻羶也,慕羶而附,寧可已邪?大夫為政,不能不盜,何以詰吾盜?柳下蹠,魯之民盜也,嘯聚其徒數千人,驪山之陽,抉人肝而食之,享年九十。而邑宰不得問也。子大夫陪臣陽貨,魯之家盜也。國命出其手,叛費,囚桓子,以意行國中自如,寶玉大弓,誰非先王所遺?子孫世守之謂。何今陽貨偃然竊以逋也?而子大夫不得問也?子大夫之家,魯之國盜也。名則魯臣,實魯君焉。國政為家事,國賦為家賦,藐然魯國如無有焉。而魯君不得問也。魯君,魯之大夫也,乾候之難,亦惟季孫意如之故,不得正其終。魯君靦然不斥季孫之立而以為身,則魯何以有王章也?逐一君,复易一君,而周天子不得問也。吾儕小人,其何知,知則於人而已矣。子大夫與吾儕小人,其俱負翳以謀朝夕耳,詰安用之?」康子曰:辨哉盜也!」去之,縶於獄中。


魯国に泥棒が出盛り、季康子が取り締まりに乗り出して、泥棒の一人を捕まえた。「何で泥棒など始めた?」

「アリが匂いにたかるのと同じです。旨そうな匂いが漂っているのに、盗らないわけに行かないでしょう? ご家老が政治を摂るのも、泥棒ではありませんか。どうして尋問などなさる?

柳下蹠は盗賊団の親分で、子分は数千人と言いふらしていました。驪山の南麓では人の生きギモを取って食いながら、九十まで長生きしました。地元の代官も、とっ捕まえることが出来なかったからです。

ご家老の家来だった陽貨は、国営の盗賊だったではありませんか。国の命令で盗みを働き、費邑に立てこもって反乱を起こし、先代の季桓子さまを捕らえ、国の中で意のままに振る舞い、とうとう魯国伝来の宝石と弓を盗み出し、国外に逃げたではありませんか。国宝を守るのは国の務めでしょうに。陽貨は逃げおおせて、捕まりもしないでしょう? ひとえにご家老が、見逃しているからです。

つまりご家老は、国営盗賊の親玉です。立て前は魯国の臣下でありながら、実際は魯の国主に他なりません。国政を家事のように意のままにし、国税を勝手に着服しています。魯国などあっても、無いも同然です。それなのに殿様は、ご家老を問い詰めることすら出来ない。これでは殿様が、家老に成り下がったようなものです。

先々代の昭公様も、ご家老の先々代さまが国からいびり出し、まともな死に方すら出来ませんでした。それからというもの殿様は、ご家老のお家が言うままに立てられてきました。これでどこが、周王様の直臣ですか? 都合が悪くなると殿様を追い出し、都合のいい方にあとを継がせる。これも周王さまが、殿様やご家老を取り締まらないからです。

だからこそ私如きはこそ泥に過ぎませんが、盗みがいけないとかは知ったことではありません。そんな道徳は、お他人様が従えばよろしい。ご家老さまもこそ泥の私めも、どちらも朝晩後ろ暗い事をして生きているのです。問い詰められたって、言えることなどありません。」

季康子「減らず口の泥棒だな。」そう言い放って尋問を止め、牢屋にぶち込んだ。(『汲冢瑣語』巻末)

そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。いずれ作り話には違いないが、どことなくこの泥棒、食い詰めたインテリのような気がしてならない。

論語の本賞、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

季康子患盜問於孔子孔子對曰苟子不欲雖賞之不竊註孔安國曰欲多情欲也言民化于上不從其所令從其所好也


本文「季康子患盜問於孔子孔子對曰苟子不欲雖賞之不竊」。
注釈。孔安国「欲とは欲望が大きいことを言う。本章の言う所はこうである。民は上流階級を見てそのまねをする。命令しても言うことを聞かないのは、好き勝手なことをしたいからである。」

「欲多情欲也」と孔安国は言うが、「情欲」は漢代の漢語として単なる”欲望”を意味する場合と、性的欲求に限られる場合がある。

新注『論語集注』

季康子患盜,問於孔子。孔子對曰:「苟子之不欲,雖賞之不竊。」言子不貪欲,則雖賞民使之為盜,民亦知恥而不竊。胡氏曰「季氏竊柄,康子奪嫡,民之為盜,固其所也。盍亦反其本耶?孔子以不欲啟之,其旨深矣。」奪嫡事見春秋傳。


本文「季康子患盜,問於孔子。孔子對曰:苟子之不欲,雖賞之不竊。」
本章が言うのはこうである。あなたが貪欲でなければ、たとえ泥棒するよう民に賞を与えても、民の方では恥を知って盗まない、ということである。

胡寅「季孫家は魯国の実権を国公から盗み取った。中でも季康子は季孫家の当主の座を正統な後継者から奪った。民が泥棒に走るのも、上がこうでは当然で、どうして本業にいそしむだろうか。孔子は無欲を説いて教えたわけだが、言葉の意味するところは実に深い。」

季康子が当主の座を奪った話は、『春秋左氏伝』にある。

胡寅は宋儒らしく胡説(でたらめ)を吹かしているだけで「実に深」くとも何ともないのだが(論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」)、枯れ木も賑わいとして『左伝』の奪嫡ばなしを記しておく。

秋,季孫有疾,命正常曰,無死,南孺子之子,男也,則以告而立之,女也,則肥也可,季孫卒,康子即位,既葬,康子在朝,南氏生男正常,載以如朝,告曰,夫子有遺言,命其圉臣曰,南氏生男,則以告於君,與大夫,而立之,今生矣,男也,敢告,遂奔衛,康子請退,公使共劉視之,則或殺之矣,乃討之,召正常,正常不反。


哀公三年(BC492)秋、季孫家の当主・季桓子が病の床に就き、正常(人名。季孫家の家臣)に言った。

「殉死は許さぬ。南孺子(季桓子の妻の一人)に子が生まれそうだが、男だったら、必ずこの子を国公にお目見えさせて我が家の跡継ぎにせよ。女だったら、肥(=季康子)を後継に立ててもよい。」

季桓子が死去し、季康子が当主になった。葬儀が終わってから季康子は魯の宰相になったが、南氏は男の子を産んだ。正常はこの子を車に乗せて朝廷に行き、哀公に言った。

「季桓子さまがそれがしに遺言されました。”南氏が男を産んだら、国公殿下と家老一同に報告して、跡継ぎに立てよ”と。今生まれましたが男の子でした。念のため報告申し上げます。」

正常はそのまま隣の衛国に飛んで逃げた。季康子は哀公に引退を願い出たが、哀公は共劉(人名)に命じて子を見にやらせたところ、すでに誰かに殺されていた。下手人を討伐しようとして、参考人として正常を呼んだが、正常は帰らなかった。(『春秋左氏伝』哀公三年)

余話

(思案中)

『論語』顔淵篇:現代語訳・書き下し・原文
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