論語014学而篇第一(14)君子は食に飽くを

論語学而篇(14)要約:孔子先生がぶったアジ演説。孔子先生とその一門は、なんと革命政党でもありました。若い弟子を相手に、革命の闘士のリクルートには、孔子先生も熱心でした。しかし要求される生活は、当然厳しくなるわけで…。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「君子食無求飽、居無求安、敏於事而愼於言、就有道而正。焉可謂好學也已。」

書き下し

いはく、君子くんししよくくをもとむるく、きよやすきをもとむるく、ことくしことつつしみ、みちるものにただす。いづくんぞがくこのむとなるのみや。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子 キメ
先生が言った。「君子は腹一杯食べる事を求めず、安らかな住まいを求めず、仕事を敏速にこなして言葉を慎み、まともな君主に仕えてその間違いを正す。学問を好むだけでは君子と言えない。

意訳

論語 本の虫
貴族になりたかったら贅沢するな。まじめに仕事をしろ。本の虫では貴族になれぬぞ。

論語 君子 諸君 孔子
同志諸君! 革命の成就までは贅沢を求めるな! 政治工作に汗を流せ! 引き籠もるな!

従来訳

 先師がいわれた。――
「君子は飽食を求めない。安居を求めない。仕事は敏活にやるが、言葉はひかえ目にする。そして有徳の人に就いて自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることにいつも努力している。こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

敏於事而愼(慎)於言

論語 敏 金文 論語 脱走 敏
「敏」(金文)

論語の本章では”言葉は慎重に、行動は迅速に”ということ。

『学研漢和大字典』によると「敏」は「每(草がどんどん生える)+攴(動詞の記号)」の会意文字で、休まず、どんどん動くことを示す。▽每は音符ではなく、意符である、という。

論語里仁篇24によく似た言葉として「君子欲訥於言、而敏於行」とあり、論語陽貨篇では仁が行われる条件の一つに「敏」を挙げて子張に説いている。

また論語顔淵篇12子路を評して「片言可以折獄者、其由也與。子路無宿諾」とあり、行政を宿=宵越ししないことを仁政の条件としている。

論語 事 金文 論語 仕事中毒
(金文)

論語の本章では”仕事”のこと。詳細な語釈は論語語釈「事」を参照。

愼(慎)

論語 慎 金文大篆 論語 真 解字
(金文)

論語の本章では”つつしむ”こと。詳細な語釈は論語語釈「慎」を参照。

有道

論語 有 金文 論語 道 金文
(金文)

論語の本章では”原則のある君主”。

感情や好みのままに臣下や領民を罰したり、税を掛けたり出兵する「無道」な君主ではない人。ここでの「道」を、人道とか道教的なそれとかに解すると、具体的な行動の有り様を教える孔子の言葉が、曖昧模糊としたお経の如きものへと変化してしまう。

論語での道とは、おおむね”やり方”と解してよい。ここでは”まともな政治のやり方”。なお「有道」のままでは”道がある”と言っているだけで、”道のある人”とは言っていないが、論語の本章では「人」を補って名詞化しないと意味が通じないので、ここは伝統的解釈に従った。

なお「道」の詳細な語釈は、論語語釈「道」を参照。

就有道而正

論語 正 金文 論語 正す
「正」(金文)

論語の本章では”原則のある君主に仕えて間違いを正してやる”。伝統的な論語の解釈では、”道徳家に付き従って自分を正す”と読み取る。

伝統的論語解釈:有道(自分を)

しかし「就」・「正」二つの動詞の主語が入れ替わったことを示す記号は一切無い。従って「正」に補うべき目的語は「有道」でしかあり得ず、卑屈に「自分を正す」と解釈しなければならない根拠はない。

訳者の論語解釈:有道(有道)

もしどうしても”自分を正す”と読みたいなら、

就有道而正(道有るものに就きて己を正す)

と目的語を補うか、

就有道而使正。(道有るものに就きて正さしむ)

と使役の記号を入れるしかない。加えて「而」はかなり強固な言葉の糊であり、その前後で主語が入れ替わる事は、何らかの記号がない限りない。儒者のでたらめな解釈が国語化した時代では例外もあろうが、『論語』は知られる限り最古の文献で、その可能性はほぼゼロ。

論語の本章を「道ある君主に仕えて正してやれ」と訳者が解したには根拠がある。それは

論語 子路 論語 孔子
子路「君主に仕えるには。」
孔子「だますな、そしてズケズケ言え。」(論語憲問篇23

とあることによる。孔子一門たる者、ヘコヘコと君主に従ってばかりではいけないのだ。しかしもし君主が「有道」でなく、無道な人物だったら?

論語 孔子 ぐるぐる
政治がまともなら、言葉も行動も厳しく慎んでいればいいが、まともでないとなると、行動だけ慎んで、言葉はその場の雰囲気に合わせろ。さもないとひどい目に遭うぞ。(論語憲問篇4

孔子はこうも言っている。

名君の命令ならいいですが、暗君の命令に誰も逆らわないとなると、それは亡国です。
論語子路篇15
やはり儒者の注釈はでたらめだ。そう言う訳者は儒者をこき下ろすのが目的ではない。彼らの狂信が生んだ、誤った解釈を取り除きたいだけ。

焉(エン)

論語 焉 金文 論語 焉 篆書
(金文・篆書)

論語の本章では「いずくんぞ」と読んで、”なぜ”を意味する疑問のことば。

漢文読解では置き字として読まないことが多いが、句末に来れば断定の意を、句頭に来れば疑問・反語の意味を持つ。原義はそう呼ばれる黄色い鳥だという。『字通』によれば、巫女がその羽根で祭器をさすって神意を問うたという。

一方『学研漢和大字典』によると象形文字で、えんという鳥を描いたもので、燕(エン)(つばめ)に似た黄色い鳥。安・anと焉・Janとは似た発音であるので、ともに「いずれ」「いずこ」を意味する疑問副詞に当てて用い、また「ここ」を意味する指示詞にも用いる、という。

就有道而正。焉可謂好學也已。

ここは句読の切り方が二つある。

伝統的句読:就有道而正。可謂好學也已。
有道に就き而正しなん。學を好めると謂う可き也已のみ
道ある人に従って正してしまえ。これが学問を好むと言っていいだけの話だ。
訳者の句読:就有道而正。可謂好學也已。
道有るに就き而正す。いずくんぞ學を好むと謂う可きなるのみや。
道ある君主に仕えて正してやれ。学問を好むだけでは君子と言えない。

従来訳など伝統的解釈では、話がぶつ切りになって意味不明なので、苦労して「それでこそ、真に学問を好む人というべきだ」とか訳しているが無駄。句読を切り間違えたら漢文は読めない。「ここではきものを脱いで下さい。」「弁慶がな、ぎなたをもってよ、しつねに…」
論語 弁慶

その上、「也已」も「已」も、もとはと言えば”すでに終わった”の意味。伝統的解釈の逐語訳は「学問を好むと言ってよくなってしまった」でしかない。どういじくり回そうと、「それでこそ学問を好む人と言っていい」などの意味にはならない。

さて伝統的論語解釈のでたらめの元がどこから来たかと言えば、古注。

云可謂好學也已矣者合結食無求飽以下之事竝是可謂好學者也

可謂好学也已矣と云う者、食に飽くを求むる無くと合わせ結びて、以て下之事是と並びて学を好む者と謂う可き也。

論語 古注 何晏 論語 古注 皇侃
「可謂好学也已矣」と孔子様が仰せになったのは、食に飽くを求むる無く、と合わせて、いい住まいを求めず、言葉は慎重行動は迅速、が全て揃ったら、それで学を好む者と言っていい、の意味だ。(『論語集解義疏』)

句読を切り違えた時点でもう破綻しているのだが、一生懸命つじつまを合わせようとしている。こういう人には付けるいいクスリがある。

論語 孔子 怒
孔子「間違いを改めるのを恥だと思うな。」(論語学而篇8

論語:解説・付記

論語 吉川幸次郎
既存の論語本も全て「有道」を”道徳を心得た人”と解し、従来訳に記したような抹香臭いお説教として読んでいる。吉川本では本章の最終部分「也已」を感情を深める助字とし、各種の異本を下記の通り挙げている。

可謂好學已矣(漢石経)
可謂好學也已矣(菅原道真写本)

さらに「矣」「焉」の断定の強さは、「矣」>「焉」だというが、これは藤堂博士の『学研漢和大字典』の解説と一致する。

さて孔子塾の門を叩いたのは主に下層の庶民で、学ぶことで貴族に必要な技能や教養を身につけ、身分の向上を目指した。それにかかる期間は少なくとも3年だと孔子は言い(論語泰伯篇12)、その間は貧乏にも耐えねばならないと弟子に言い聞かせたのだろう。
論語 耐乏生活

論語の本章で特徴的なのは、最終句の「学を好むだけではいけない」という教えで、ただの本の虫では君子として戦場に出られないばかりでなく、孔子が勧誘したい革命闘士への道も開けなかった。むろんほとんどの弟子は革命など願い下げだろうが、それが孔子の希望だった。

論語では本章のように、「焉」の位置が句末とするか句頭とするかで解釈が一変する章が少なからずある。句末以外にあり得ない章もあり、その場合は困らないが、伝統的解釈は孔子聖者説・学者だけ説に立っているので、ことごとく一門を本の虫にした解釈をしたがる。

論語 徳治
「♪もしも聖者になれるなら~。こんな苦労はするまいに~。」そう歌いたい気持の政治家は、世界中にいるだろう。政治とは利益分配であり(論語為政篇1)、それはつまる所、権力や暴力や陰謀で、誰かの利益を諦めさせることだ。孔子聖者説は儒者の狂信に過ぎない。

その狂信が結果として論語をつまらなくさせているのだが、論語の時代は国と国が食い合う戦乱の春秋末期であり、すまし顔で学問に励める桃源郷があったわけもなく、もし句頭に置いて文法的に無理がないのなら、従来の解釈を改めた方が、本章の場合は論語の原意に近い。

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