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論語詳解014学而篇第一(14)君子食は飽くを*

論語学而篇(14)要約:孔子先生がぶったとされるアジ演説。孔子塾に入門したのは、貴族に成り上がりたい庶民の若者でした。成り上がりを手助けする先生は、「お勉強だけ出来ても意味は無いだろ?」と塾生に発破をかけたのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰君子食無求飽居無求安敏於事而愼於言就有道而正焉可謂好學也巳

校訂

諸本

  • 武内本:道の字唐石経行旁にあり*、蓋し後人の加うる所。史記弟子伝此文を引く道の字あり。**

*京大蔵唐石経に確認出来ず。
**弟子伝・孔子世家に確認できず。

東洋文庫蔵清家本

子曰君子食無求飽居無求安/敏於事而愼於言就有道而正焉可謂好學也已矣

後漢熹平石経

…焉可謂好學也已矣

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「君子食無求飽。居無求安。敏於事而愼於言。就有道而正。焉可謂好學已矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文  君 金文子 金文食 金文無 金文求 金文飽 金文 居 金文無 金文求 金文安 金文 敏 金文於 金文事 金文而 金文慎 金文於 金文言 金文 就 金文有 金文道 金文而 金文正 金文 可 金文謂 金文好 金文学 學 金文也 金文已 金文矣 金文

※論語の本章は、「焉」が論語の時代に存在しない。ただし無くとも文意が変わらない。

書き下し

いはく、君子きんだちじきくをもとむるかれ。すまひやすきをもとむるかれ。ことくしことのはつつしめ。みちるにただせ。いづくんぞまなびこのむと已矣のみならんや。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 キメ
先生が言った。「諸君は食事は腹一杯食べる事を求めるな。住まいは安らかさを求めるな。仕事を敏速にこなして言葉を慎め。原則に従って自分を正せ。なぜ学問を好むに限ると評価できるだけだろうか。」

意訳

論語 孔子 居直り
ぜいたく禁止。仕事は手早く。世間の良識に従って、悪いことをするな。「お勉強が出来る」とおだてられるだけの、ただの本の虫ではダメなのだ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「君子は飽食を求めない。安居を求めない。仕事は敏活にやるが、言葉はひかえ目にする。そして有徳の人に就いて自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることにいつも努力している。こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「君子吃不求飽、住不求安、做事靈敏、言談謹慎、積極要求上進,就算好學了。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「諸君が食べて飽きを求めず、住んで安らぎを求めず、仕事をして利発で素早く、語って慎み深く、積極的に進歩を求めたなら、間違いなく学問好きと言える。」

論語:語釈


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

君子(クンシ)

君 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では、「きんだち」と読んで”君たち”という弟子への呼びかけ。ちょっと古い日本語に「諸子」”君たち”というのがあり、目下の集団に対して敬意を払った呼びかけ。論語での「君子」の役割に、弟子たちに対する敬意を込めた呼びかけがある。孔子は弟子に対しても丁寧な言葉を使う人だった。

「諸子が帰ってくる頃には、おそらく母艦は傷付いているだろう」
©東宝「連合艦隊」

「きんだち」が「公」”貴人”+「達」”かたがた”=”貴公子たち”であるのは高校古文的知識だが、日本古語「たち」は目上の複数に対する接尾辞で、目下は「ども」。前近代の日本人にとって、「子」は勝手に生えてくる目下だったから「子ども」と複数を呼んだ。現代日本語の「子供たち」は、この区別がつかなくなった事を表している。

字はどちらも初出は甲骨文。「君」は「コン」”筋道”を握る「又」”手”の下に「𠙵」”くち”を記した形で、原義は天界と人界の願いを仲介する者の意。古代国家の君主が最高神官を務めるのは、どの文明圏でも変わらない。「子」は生まれたばかりの子供の象形。春秋時代以降は明確に、知識人や貴族への敬称になった。孔子や孟懿子のように、開祖級の知識人や大貴族は、「○子」と記して”○先生”・”○様”の意だが、孔子の弟子や一般貴族は、「子○」と記して”○さん”の意。

現代中国語でも「○シェンション」と言えば、”○さん”の意で”教師”ではない。辞書的には論語語釈「君」論語語釈「子」を参照。

”教養ある人格者”などのような偽善的語義は、孔子没後一世紀に現れた孟子が提唱してからである。詳細は論語における「君子」を参照。

食(ショク)

食 甲骨文 食 字解
(甲骨文)

論語の本章では”食べる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「シュウ」+点二つ”ほかほか”+「豆」”たかつき”で、食器に盛った炊きたてのめし。甲骨文・金文には”ほかほか”を欠くものがある。「亼」は穀物をあつめたさまとも、開いた口とも、食器の蓋とも解せる。原義は”たべもの”・”たべる”。詳細は論語語釈「食」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”するな”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

求(キュウ)

求 甲骨文 求 字解
(甲骨文)

論語の本章では”もとめる”。初出は甲骨文。ただし字形は「」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。論語の時代までに、”求める”・”とがめる””選ぶ”・”祈り求める”(𦅫鎛・春秋)の意が確認できる。詳細は論語語釈「求」を参照。

飽(ホウ)

飽 甲骨文 飽 字解
(甲骨文)

論語の本章では”飽きる・満足する”。初出は甲骨文。字形は、飯を盛ったたかつき「豆」に人が上から蓋をする形。”お腹いっぱい、ごちそうさま”の意だろう。「豆」の甲骨文には、蓋を描いたものとそうでないものが混在する。部品の「包」にも”みちる”の意がある。詳細は論語語釈「飽」を参照。

居(キョ)

居 金文 居
(金文)

論語の本章では”住まう”。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。

安(アン)

安 甲骨文 安 字解
(甲骨文)

論語の本章では”やすらぎ”。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「女」で、防護されて安らぐさま。論語の時代までに、”順調である”・”訪問する”を意味した。疑問詞・反問詞などに用いるのは戦国時代以降の当て字で、焉と同じ。詳細は論語語釈「安」を参照。

敏(ビン)

敏 甲骨文 敏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”素早い”。新字体は「敏」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭にヤギの角形のかぶり物をかぶった女性+「又」”手”で、「失」と同じく、このかぶり物をかぶった人は隷属民であるらしく、おそらくは「キョウ」族を指す(→論語語釈「失」論語語釈「羌」)。原義は恐らく、「悔」と同じく”懺悔させる”。論語の時代までに、”素早い”の語義が加わった。詳細は論語語釈「敏」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”事務”。動詞としては主君に”仕える”の語義がある。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”…と同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

愼(シン)

慎 金文 慎 字解
(金文)

論語の本章では”つつしむ”・”重大なこととして考える”。新字体は「慎」。初出は西周中期の金文。論語の時代に通用した字体では、「真」と書き分けられていないものがある。字形は「阝」”はしご”+「斤」”近い”+「心」。はしごを伝って降りてきた神が近づいたときのような心、を言うのだろう。詳細は論語語釈「慎」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ことば”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

敏於事而愼於言

論語の本章では”言葉は慎重に、行動は迅速に”ということ。

なお論語里仁篇24によく似た言葉として「君子欲訥於言、而敏於行」(口数は少なく、行動は迅速に)とあり、論語陽貨篇では仁が行われる条件の一つに「敏」を挙げて子張に説いている。

また論語顔淵篇12子路を評して「片言可以折獄者、其由也與。子路無宿諾」(仕事が速い。判決を宵越ししない)とあり、行政を宿=宵越ししないことを仁政の条件としている。

就(シュウ)

就 甲骨文 就 字解
(甲骨文)

論語の本章では”参照する”。初出は甲骨文。同音からは原義を求めがたい。字形は上下に「亯」(享)+「京」で、「亯」は”祖先祭殿”を、「京」は”高地にある都市”を意味する。甲骨文では地名に用いられ、金文では”逐う”・”つけ加える”、人名、”進む”を意味したという。”付き従う”の語義は”逐う”の派生義と考えられる。詳細は論語語釈「就」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”持っている”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
(甲骨文)

論語の本章では”原則”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。

有道

論語の本章では”世間の良識がある”。論語衛霊公篇で孔子は衛の霊公を「無道」といっており形容詞。「無道」が形容詞なら「有道」もまず形容詞と考えるのが妥当。他の品詞を考えるのは、形容詞では読めない場合に限られる。

武内本によると、唐の時代では「道」の字は本文に入っておらず、「就有」では意味が分からないから、注釈として行の横に書き添えた字だという。その場合は「就有而正」は「みちあるにつきてただせ」と訓み、”良識に従って正せ”。ただし国会図書館の唐石経拓本ではそうなっていない。なっているのは次章の「道」。

国会図書館蔵『唐開成石經』拓本

唐石経の刻まれた石碑が建てられた開成年間(836-840)より約千年も前、前漢武帝の時代に生きたはずの孔安国が、すでにこういう注釈を書いた、ことになっている。

孔安國曰敏疾也有道者謂有道徳者也正謂問事是非也

孔安国
孔安国「敏とは素早いことだ。有道とは道徳のある者のことだ。正とは事の是非を尋ねることだ。」(『論語集解義疏』)

孔安国は生没年未詳で、漢儒のはずが避諱すべき「邦」を使うなど、実在が極めて疑わしい人物だが、これが正しいなら、すでに前漢時代に「有道」になっていたことになる。また物証としては定州竹簡論語が「就有而正」と記しているので、古注が記しているように「道」があるのが古形と言える。

正(セイ)

正 甲骨文 正 字解
(甲骨文)

論語の本章では”正す”。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。論語の時代までに、地名・祭礼名、”征伐”・”年始”のほか、”正す”、”長官”、”審査”の意に用い、また「政」の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。

『定州竹簡論語』論語為政篇1の注釈は「正は政を代用できる。古くは政を正と書いた例が多い」と言う。その理由は漢帝国が、秦帝国の正統な後継者であることを主張するため、始皇帝のいみ名「政」を避けたから。結果『史記』では項羽を中華皇帝の一人に数え、本紀に伝記を記した。

そして乱暴者として描いた。対して漢を創業した劉邦は、秦の下級官吏でありながら反乱を起こし、その際「法三章」=”秦の法を緩める”と公約しながら、天下を取るとごっそり秦の法を復活させた。その二重の後ろめたさを誤魔化すため、項羽を暴君の皇帝にしたのである。

「正」の目的語が自分か他者かによって、「就有道而正」の解釈は異なってくる。

  1. 自分:「みちあるにつきてただせ」(原則に従って自分を正せ)
  2. 他者:「みちあるにつきてただせ」(原則のある君主に仕えて政道を正してやれ)

ただし下記する、本章が創作された頃の漢籍を参照すると、”自分を正せ”に理がある。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「いずくんぞ」と読んで、”なぜ”を意味する疑問のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…でよい”。積極的に認める意味ではない。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”…だと評価する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。『学研漢和大字典』によると、胃は、「まるい胃袋の中に食べたものが点々と入っているさま+肉」で、まるい胃袋のこと。謂は、「言+〔音符〕胃」の会意兼形声文字で、何かをめぐって、ものをいうこと、という。詳細は論語語釈「謂」を参照。

好(コウ)

好 甲骨文 好 字解
(甲骨文)

論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。

學(カク)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

元データにおけるこの字の有無は下記。

已(イ)

已 甲骨文 已 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…てしまう”。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

也已→已矣

論語の本章では強い断定をあらわす助辞。”…だけだ”。「也」に限定の助詞「已」が加わったもの。「也」より強く断定する場合に用いる。また「矣」も断定・完了を表す。

この部分、時系列順に

  1. 定州竹簡論語「謂好學
  2. 『論語集釋』に言う漢石経「謂好學
  3. 上掲古注は「謂好學
  4. 唐石経は「謂好學

つまり「也」は後漢滅亡後に加筆されたことになる。また日本の清家本はおそらく古注を反映して「謂好學」と記す。

京大蔵清家本『論語』

京大蔵清家本『論語』学而

古注についてより詳細に言えば、中華書局本の注に「”也矣已”、齋本、庫本作”也已矣”、是」と記しているが、齋本(知不足斉叢書本)も庫本(欽定四庫全書本)も中国では一旦滅んだ古注を清代に日本から逆輸入した本を祖本としており、「是」”正しい”とは必ずしも言えない。

また日本の古注にも版が複数あり、正平本(正平十三=1364年刊)の京大蔵復刻版(文化十三=1816年刊)では「也已矣」と記し、上掲鵜飼文庫版(寛延三=1750年刊)では「也已矣」と記し、武内博士が校訂した懐徳堂本(大正十二=1923年刊)では「也矣已」と記す。

京大蔵正平本『論語集解』

京大蔵正平本『論語集解』

なお「已矣」は「やんぬるかな」「やみなん」とも読み下し、「もうだめだ。もうこれまでだ。絶望をあらわすことば」と『学研漢和大字典』にいう。だが本章は絶望の意ではあるまい。

就有道而正。焉可謂好學已矣。

ここは句読の切り方が二つある。

伝統的句読:就有道而正。可謂好學已矣。
有道に就き正しなん。學を好むと謂う可き已矣のみ
原則に従って正してしまえ。まさに学問を好むと評価すべきだ。
訳者の句読:就有道而正。可謂好學已矣。
道有るに就き而正せ。いずくんぞ學を好むと謂う可き已矣のみならん
原則に従って正せ。なぜ学問を好むと評価すべきだけなの

どちらにも理はある。まず従来の句読だが、6字・6字で綺麗に切れることが挙げられる。ただし漢文は必ずしも6字で切れるわけではないので、ただそれだけのことだ、とも言える。また「原則に従って正してしまえ」から、「まさに学問を好むと評価すべきだ」に文脈が繋がらず、何を言っているのか分けが分からない。

対して訳者の句読は、「就有道正」の目的語が「有道」だとすることからの切り分けで、「良識に従って自分の軌道修正をしろ」→「学問ばかりしていてはいけないのだ」と話が繋がる。ただし「焉」の字が論語の時代に存在せず、戦国時代でも疑問辞の用例が確認できない。

従来の句読は、過去の儒者の意見に従った前者の訓みだが、その原文を参照しよう。

古注『論語集解義疏』

云可謂好學也已矣者合結食無求飽以下之事竝是可謂好學者也

古注 何晏 古注 皇侃
「可謂好学也已矣」と孔子様が仰せになったのは、「食に飽くを求むるなく」以下の、「いい住まいを求めず、言葉は慎重行動は迅速」が全て揃ったら、それで学を好む者と言っていい、の意味だ。

句読を「焉」の直後で区切った理由を、何一つ説明していない。蛇足ながら、新注も参照しておこう。

新注『論語集注』

好,去聲。不求安飽者,志有在而不暇及也。敏於事者,勉其所不足。慎於言者,不敢盡其所有餘也。然猶不敢自是,而必就有道之人,以正其是非,則可謂好學矣。凡言道者,皆謂事物當然之理,人之所共由者也。尹氏曰:「君子之學,能是四者,可謂篤志力行者矣。然不取正於有道,未免有差,如楊墨學仁義而差者也,其流至於無父無君,謂之好學可乎?」

朱子 新注
好の字は弱め下がり調子に読む。

安楽と飽食を求めない者には、高い志があってその実現のためたゆまぬ努力をするものである。行動が迅速な者は、自分の出来ない点を改めようと努力するものである。言葉に慎重な者は、自分の力を出し尽くそうとはしないものである。

しかしこれでいいのだと自己満足に陥ることなく、必ず道理をわきまえた人に付き従って、自分の価値観を正す。これがすなわち、学問を好むということだ。何事につけ道理というものは、全てそうなってしかるべきことわりを指し、人は皆それに従うのだ。

イン氏(トン)「君子の学問とは、(安楽と飽食を求めず、行動が迅速で、言葉に慎重という)この四つの項目と言えるが、それを強く志して実践に努力するに値すると言って良い。しかし道理をわきまえた人に正しい道を教わらないと、間違った思い込みを免れない。

例えるなら楊朱や墨子の学問にも仁義はあるが、儒学より劣っているようなものだ。そんな学問を突き詰めても、父親や主君がいないも同然の無道に陥るから、学問を好むとどうして言えようか。」

句読の切り方に疑問すら持っていない。これでは参考にならない。

孔子~古注は約730年。新注までは約1680年。現在までは約2500年。はるか昔の読めなくなった文章を、試行錯誤して読み進める点では、新古の注を書いた儒者も、現代の論語読者も変わらない。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は定州竹簡論語に無く、前段は後漢末まで誰も引用せず、『漢書』王莽伝に「孔子曰、食無求飽、居無求安、公之謂矣。」再出するのみ。中段は前漢・陸賈の『新語』に、「故君子篤於義而薄於利、敏於事而慎於言」と出てくるまでやはり誰も引用していない。

後段は、前漢の『説苑』に、「季孫問於孔子曰、如殺無道、以就有道、何如」とあるまで、また前漢末の楊雄(揚雄)『法言』に、「可謂好學(也)已」とあるまで誰も引用していない。『史記』にも再録がない。ただし「焉」は無くとも疑問文たり得るので、偽作を断定できない。

前漢年表

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解説

偽作とは言い切れない本章だが、仮に史実の孔子がこのような説教をするのなら、「世間の良識に従って」などと言い出すのは難しい。当時の良識に従うなら、社会の底辺から成り上がった孔子と、これから成り上がろうとする弟子一同は、とんでもない不埒者になるからだ。

論語は、孔子生前の時代背景や、孔子塾がどのような集団だったかを理解しないと、何が書いてあるか分からない。春秋時代は身分制度の社会だったが、社会の底辺出身の孔子が宰相になったことで、その秩序が崩れ始めた。孔子塾はそれを助長する学塾だった。

つまり成り上がった当人である孔子が、そのほとんどが庶民である塾生に、君子=貴族にふさわしい技能と教養を伝授して、卒業生が次々と仕官して貴族になることを目指す団体だった。従って、「お勉強が出来る」とおだてられているうちはまだまだで、孔子も肯定しなかった。

孔子 悩み
『詩経』を全部暗記しました、と自慢する奴が、役所仕事はしくじる使いは務まらずでは、全くの役立たずだ。(論語子路篇5)

ここから、孔子塾がただのカルチャーセンターではなかったことが読み取れる。歴代の儒者がそのように理解したがった理由は、儒者の学問は官職を得ることが目的ではなく、官職はカネと権力を得るための手段に過ぎず、面倒くさい役所仕事などまっぴらご免だったからだ。

また論語の本章に言う「学」は、春秋時代では”座学”を意味し、孔子塾の必須科目のうち、座学で済むのは読み書きと算術だけ。あとの礼法・音楽・戦車術・弓術は、「学」ぶものではなく「習」うものだった。当時の貴族は従軍したから、「学を好む」だけでは務まらない。
カーラ 弓

対して歴代、九分九厘の儒者はワイロ取りとポエム書きしか能が無く、賄賂と箸と筆より重い物を持とうとしなかった。力仕事をするのは、卑しい者だと馬鹿にした。その結果が現中国にまで至る、役人と民間人の間の、主人と奴隷の如き関係で、それが崩れぬのを儒者は願った。

事情は論語の時代も変わらず、だから塾生は成り上がり目指して励んだのだが、ゆえに教える側の孔子としては、「お勉強だけしていれば良いよ」とは言えなかった。言った瞬間に、弟子がぞろぞろと逃げるに決まっているからだ。実績の無い予備校に入る者は今もいない。

余話

かんなくず

後漢の王充が、面白がってこんな伝説を書き付けている。

少正卯在魯,與孔子並。孔子之門三盈三虛,唯顏淵不去,顏淵獨知孔子聖也。夫門人去孔子歸少正卯,不徒不能知孔子之聖,又不能知少正卯,門人皆惑。子貢曰:「夫少正卯、魯之聞人也,子為政,何以先之?」孔子曰:「賜退!非爾所及!」夫才能知佞若子貢,尚不能知聖,世儒見聖,自謂能知之,妄也。

王充
少正卯は孔子と同様に、魯で塾を開いていた。孔子塾とは塾生の取り合いになり、たいていの弟子は三度ほど両塾を出入りした。ただし顔淵だけは孔子塾にいたままだった。顔淵だけが、孔子の真価を理解していたからである。

孔子塾から少正卯塾に移籍した者は、孔子の真価が分からなかっただけでなく、少正卯の人となりも知らなかった。ただ風に吹かれるかんなくずのように、行ったり来たりしていただけだった。その一人である子貢が言った。

子貢 遊説 孔子 説教
子貢「あの少正卯という人は名高いですが、先生が政権を握ったら、どうなさいます?」
孔子「うるせえ。お前の知ったことか。」

子貢ほど才に溢れた者が、孔子の真価を知らなかったのである。だからどこにでもいるバカたれ儒者が、「この人は偉い」と言っても信用するわけにいかない。(『論衡』講瑞5)

史実ではあるまいが、論語の時代もこの程度には、弟子は不逞の輩だったに違いない。。

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