論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子曰、「吾猶及史之闕文也。有馬者、借人乘之。今*亡矣夫。」
校訂
武内本:釋文則の字なし、唐石経このところを缺くもその字数によれば又則の字なきに似たり。
書き下し
甲(伝統的書き下し)
子曰く、吾猶ほ史之闕文に及ぶ也。馬有る者は、人を借りて之に乘らしむ。今は亡き矣夫。
乙(訳者九去堂書き下し)
子曰く、吾猶ほ史之〔闕文〕がごときに及ぶ也。馬有ら者、人に借りて之に乘らん。今は亡き矣夫。
闕文=不有車馬=車馬の有た不る。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「私はとうとう、車も馬も持たない下っ端役人のようになってしまった。馬さえ居るなら、車は人に借りて乗れるのだが。今は馬さえ居なくなってしまった。」
意訳
私も落ちぶれたものだ。これでは車も馬もない下っ端同然ではないか。馬さえ居れば車は借りられるが、その馬すら今は居ない。やれやれ。
従来訳
先師がいわれた。――
「私の子供のころには、まだ人間が正直で、いいことが行われていた。たとえば、史官が疑わしい点があると、調査研究がすむまでは、そこを空白にしておくとか、馬の所有者は気持よく人に貸して乗らせるとかいうことだ。ところが、今はそういうことがまるでなくなってしまった。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
猶(ユウ)
論語の本章では、”~もまた”。詳細は論語語釈「猶」を参照。
史之闕(欠)文
「闕文」(金文)
論語の本章では、”下級役人で●●な者”。「闕」は”欠ける”で、詳細は論語語釈「闕」を参照。
古来、「史の欠文」=”歴史書の文字が欠けた部分”と解する説と、「史の●●」=”歴史書の●●”であり、論語に欠文があるとする説がある。
また「史」は、”歴史書”と解する説と、下級役人の”記録官・事務官”と解する説がある。下級役人の語義の方が、漢字=ことばの原義で、歴史書は派生語。
古注の儒者は論語に欠文はないとし、想像で補っている。

註苞氏曰古之史於書字有凝則闕之以待知者也
苞氏が言った。昔の歴史書には、書いてある文字がよく分からない部分がある、そういう時は、その部分は解釈するのをやめて、読める人が出るのを待ったのである。
新注の儒者は、いくらか合理的になっている。

楊氏曰:「史闕文、馬借人,此二事孔子猶及見之。今亡矣夫,悼時之益偷也。」愚謂此必有為而言。蓋雖細故,而時變之大者可知矣。胡氏曰:「此章義疑,不可強解。」
楊氏が言った。「歴史書の欠文と馬を人に借りる(貸す)ことは、孔子も体験したことだ。今はなきなり、とあるのは、当時の人間が図々しくなったのを嘆いたのだ。」
私・朱子が思うに、これは孔子の実体験を言ったのだ。個人的感想では、それには複雑な理由があるのだろうが、大きく時世が変わったことがわかる。
胡氏が言った。「論語のこの章はよく分からない。無理に解釈すべきではない。」
訳者としては、論語に欠文があると考える。加えて「史」は原義である”記録官”と考える。全体で、”記録官で●●な者”。
有馬者、借人乘之
「馬」(金文)・「借」(古文)
論語の本章では、”馬がある時には、人に車を借りて乗った”。
古来、「有馬者」を”馬を持っている者”、「借人乘之」を”人に馬を貸して乗らせる”と解する論語本が多い。「借」の字には、”借りる・貸す”両方の意味があるからだ。
しかし「借」を”貸す”の意味に取ると、「乘之」を”乗らせる”と使役に読まなければならない。またそう読む動機は、「欠文」を”欠文”ではなく、論語にあった孔子の言葉そのものだ、とするからだ。これは無理に無理を重ねるもので、根拠も儒者の個人的感想に過ぎない。
また「者」は『学研漢和大字典』によると直前の語や句を、「…するそれ」ともう一度指示して浮き出させる助詞。転じて「…するそのもの」の意となる、という。
つまり”ナニナニする人物”と解するのは派生語で、”ナニナニする場合”の方が原義に近い。論語は最古の古典なので、「有馬者」は原義に近い”馬を持っている場合”。
さらに馬を持っている場合に人に借りて乗るものといえば、馬車しかない。論語の時代には、人が直に馬に騎って出かける技術も習慣もなかったからだ。
つまり全体で、”馬がある時には、人に車を借りて乗った”。
今亡矣夫
「今」「亡」(金文)
論語の本章では、”今は馬も持っていないよ”。
「欠文」を論語の地の文とする無理な解釈によると、”賢者が出るのを待って史料の解釈を差し控えたことや、馬を人に貸すようなうるわしい習慣が、今はなくなってしまった”と解する。しかし所詮初めの思い込みが無理なので、無理に無理を重ねても意味はない。
「今亡矣夫」は「有馬者」と対比されるべき句で、「亡」=”無い”ものが何かと言えば、「馬」でしかあり得ない。従って全体で、”今は馬も持っていないよ”。
「矣」は断定の語気を示す。詳細は論語語釈「矣」を参照。
闕(欠)文
(金文)
論語の本章では、補うべきは”馬も車も持っていない”。
「史」=”記録官”は司馬遷がそうであったように、権威は高いが地位はそれほど高くない。当然貧乏でもあったはずで、初めて記録官に任じられた者が、必ず馬や車を持っていたとは考えにくい。また「史」は”下級の事務官吏”をも意味するから、その場合はなおさらだ。
孔子は放浪中であれば、当然日々の出費に困ったはずで、魯国に帰った後も、後ろ盾となる呉国が没落するとすぐさま左遷されて、息子の葬儀にも事欠く有様だった。

父親の顔路「先生、車を頂戴できませぬか。」
孔子「車をどうする?」
顔路「部材で外棺を作りたいと存じます。貧しくて作れぬのです。」
孔子「ああ、気持ちはよく分かる。顔回のように出来のいいのも、愚息のように出来の悪いのも、共に父親にとっては息子には違いない。愚息の時も外棺が作れなかった。だが私は家老の末席にいるから、車なしで歩いて出歩くわけにはいかない。こたびも申し訳ないが…。」(論語先進篇7)
おそらく孔子は、結局顔回のために車を提供したのだろう。それで車が無くなったが、外棺にも事欠くようでは、毎日馬食する馬を養えたとは思えない。従って「有馬者、借人乘之。今亡矣夫」は、”馬があれば車は人から借りて乗れるのだが…今は馬すらいない”の嘆きとなる。
すると「欠文」は、”馬も車も持っていない”。
猶
(金文)
論語の本章では、”まるで~のようだ”。
語法としては再読する場合のある文字で、以下の通り。
- (1)「なお」とよみ、「やはり」「それでもなお」と訳す。以前からの状況が続いている意を示す。
(2)「猶且~=なおかつ」「猶復~=なおまた」も、意味・用法ともにチと同じ。▽「猶且」は、戦国以後多く用いる。「猶復」は、前漢以後多く用いる。「尚且=なおかつ」「尚復=なおまた」は、よみは同じだが、意味は「さらにそのうえ」と異なる。 - 「なお~のごとし」とよみ、「ちょうど~のようだ」と訳す。再読文字。比較して判断する意を示す。▽「如」「若」より強い表現。《類義語》由。
- 「~すらなお」とよみ、「~でさえも…」と訳す。▽「~猶…、況=」は、「~すらなお…す、いわんや=をや」とよみ、「~でさえも…なのだから、ましてや=ならなおさらである」と訳す。抑揚の意を示す。「=」は「~」よりも程度が優れていることを示す。
史
(甲骨文・金文)
論語の本章では、”下級の事務官吏”。
『学研漢和大字典』によると語義は以下の通り。
- {名詞}ふびと。記録をつかさどった役目。歴史官。
▽昔は、天文・暦法・祭祀(サイシ)をもあわせてつかさどる聖なる職で、内史・外史・左史・右史などがあった。周代、天子の左右にいる秘書官を御史といい、秦(シン)・漢代のころには、歴史官を太史といった。隋(ズイ)・唐代以後は、御史は監察の役目となる。「巫史(フシ)(神官と歴史官)」「吾猶及史之闕文也=吾なほ史の闕文に及びたり」〔論語・衛霊公〕 - {名詞}ふみ。歴史の書。
▽勅撰(チョクセン)や公認の歴史を正史、民間でつくられたのを外史または外伝という。「史伝」「二十四史」。 - {名詞}あやのある文章。「文勝質則史=文質に勝れば則ち史なり」〔論語・雍也〕
- 「女史」とは、もと、妃の教養や礼法について担当した役。のち学問のある女性を呼ぶ尊称。
- 《日本語での特別な意味》さかん(さくゎん)。四等官で、神祇(ジンギ)官の第四位。
闕(欠)
(古文)
論語の本章では”欠ける”。
借
(古文)
論語の本章では”借りる”。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、昔は「重なりを示すしるし+日」の会意文字で、日数を重ねること。借は「人+(音符)昔」で、金・物・力が足りないとき、それを上に重ねて補助すること。金や力を重ね加えてやるの意だから、かす、かりるの両方に用いる。助(ジョ)(力を重ね加える)・苴(ショ)(重ね敷く)・藉(シャ)・(セキ)(重ね敷く)と同系のことば、という。
乘(乗)
(甲骨文・金文)
論語の本章では”乗る”。
亡
(甲骨文・金文)
論語の本章では”無い”。
矣夫
(金文)
論語の本章では”~てしまったなあ”。伝統的な論語の読みでは「矣」置き字として読まないか、二文字で「かな」と読んで無視してしまうが、それでは孔子の嘆きの深さが分からない。
論語:解説・付記
論語の本章は、ここに孔子の言葉を載せた子貢の強い憤りを示すもの。子貢は孔子が亡くなった際に、嘘泣きする殿様の哀公を口を極めて非難している。
魯哀公は孔子をしのんで祭文を書いた。「天帝は私を哀れまず、一人の老人を残そうとせず、孔子から私一人が取り残され、国公の位に据えられている。私は寂しさ余って病んでしまった。ああ悲しいかな、父たる孔子よ。私の行動を正す人がいなくなってしまった。」
それを聞いて子貢が言った。
「殿様はこの魯では死ねないな。先生が言っていた、礼法が無ければ行動の原則が分からない。筋違いの名を付ければ何をしてもやり損なう。感情が礼法にかなっていないから原則が分からないのであり、感情から出任せを言うからやり損なうのだ、と。
先生の生前には仕事を与えないでおいて、亡くなってからあのような泣き言を言うのは、礼法にかなっていない。私一人が取り残され、だって? その言い方は周王だけの特権だ。ろくな死に方をしないぞ。」(『史記』孔子世家)
論語先進篇で、孔子が息子や顔回の葬儀にも事欠いたことを記したのも子貢であり、孔子没後、盛大な葬儀を行ったのも、墓の近くに粗末な小屋を建てて墓を守り、礼法の倍の六年間、喪に服したのも子貢である。
そして孔子一門の財政を支えたのも、弟子一番の商売人だった子貢しかあり得ない。子貢は帰国後の孔子が、どんなにひどい目に遭ったかを書き残そうとしたのだ。それはあるいは子貢の醜聞になるのだが、事実を書き残しても耐えられるだけの強さが子貢にはあった。
不世出の学者で教育家の孔子、不世出のバクチの天才で外交家の子貢。その組み合わせも、また不世出の師弟だった。
なお最後に、「欠文」は欠文でないとこだわればどう訳せるかを提示する。
今でも古文書の欠字に出くわすことがある。
だが意味が分からないからそのままにする。
たぶん未来の人が正解を見つけるだろう。
丁度馬を買った人がその道の上手に馬を貸し、調教してもらうように。
今日びの連中はそうではないようだがな。
コメント
[…] 例えば論語衛霊公篇26などが、その事情を示している。だが弟子にはアキンド子貢という、唸るような大富豪がいた(『史記』子贛伝)。加えて孔子は弟子に、世俗事を禁じていない。弟子はアルバイトにも励めたのである。だからこそ、孔子は作り事を言う必要が無かった。 […]